久々の。やっと納得できるところまで書けた。でも説明的過ぎる。むむむ。
上空高く鳶が飛んでいる。
「そやったか…千蔵を殺してしもたんか」
木漏れ日の滴る沢に腰を下ろし、上西藤兵衛は呟いた。
「因果なもんや、この手で我が子を討たなならんとは」
対岸で、澄んだ水に足を浸しながら、岩室久蔵が応える。
それはそれは長閑な光景だった。それは、仇敵を相手にするにはあまりに穏やかな話ぶりだった。
久蔵は、かつて藤兵衛の戦友だった。藤兵衛は岩室に身を寄せており、久蔵の片腕とさえ言われていた。罠師としての技は岩室から――久蔵から伝えられたものも多い。それは当時、共闘のための必然であり、当然に行われたことだった。しかし今や未来の昏い岩室にとっては、許し難い事実でもある。すなわち。
岩室の技を、岩室ではない者が扱う。
それは技を盗まれたことと同義、甲賀者にとっては恥辱である。ゆえに久蔵は、織江と結んだのだ。岩室の存続を賭け、亜流の抹殺を果たすべく。
「御屋形には、長いこと世話になった…岩室を見限って杉谷に流れたんは、確かに申し訳なかった」
「いや、お前さんが脱けたとき、先を見通せへんたのは儂や。九兵衛がああいう性質に生まれるとも、千蔵が思いの外、甲賀者らしなかったことも。岩室は終いや。儂で、終いにする」
皺くちゃの爺二人が呟く。跡継ぎと目した孫の九兵衛が甲賀を脱けたがったことから、久蔵が千蔵を討ったことまで。岩室に起きた全てを久蔵は藤兵衛に打ち明けた。
「…そや。ええ加減にしとかなあかんちゅうことやな」
ぽつりと藤兵衛が呟いた。
「なぁ。ほなやるか、藤兵衛」
晩酌でも始めるかのような気安い口調で、二人は立ち上がった。互いにどっこいしょ、と億劫そうな声をかけて沢から上がり、水を落としている。鞋を付けた瞬間が、最期だった。
「じいさまぁーっ!」
磐音の高い声が梢を裂いて響き渡る。最早なりふりなど構っていられなかった。
佐治真折の姿を見た。どこに潜んでいるかわからない脅威、あの女の気配の中でばらばらになるのは危険だ。磐音は焦燥に満ちて首を回すが、藤兵衛の小柄な姿は見当たらない。磐音は粟立つ二の腕を摩った。急に冷たい風が頬を撫でる。見上げれば空が暗い。
「磐音!下りぃ!」
磐音が上った木の根本で、左近が叫ぶ。ざあっと音が駆け、大粒の雨が降り出した。
「雷が来る!下りな!」
左近が言い終わる前に風が黒雲を運び、烈光が走る。金属を身に帯びた磐音は格好の獲物だ。慌てて幹を下る磐音の頬を、剥き出しの手指を、枝が打つ。
「兄さん、爺さまがおらへん、どこにもおらへん…!」
あちこちに赤い腫れを作った磐音は、着地に失敗してよろめく。その身体を支える左近に縋り付き、磐音は訴えた。磐音の頭の隅を、物言わぬ紗弓馬が過ぎる。骸の紗弓馬に、藤兵衛の姿が重なる。
「落ち着け。佑作も探して回っとるさかい、俺らは一旦戻るぞ」
ずぶ濡れの磐音に笠を譲り、墨染をかけてやりながら、左近は空を仰ぐ。
刹那。
どごぉっ!
轟音と共に山の斜面が煙を噴いた。衝撃に体勢を崩した磐音は左近にしがみつく力を強め、左近は両足を地に突き立てて踏ん張った。土煙が上がる。元々が脆い花崗岩質の岩盤である。一気に山肌が剥落した。
「埋め火…」
左近が呆然と呟く。埋め火は杉谷衆第三隊の定石だ。藤兵衛はその要だった。
どっ!ごっ!
幾分小さな地鳴りが連続する。
「あにさん!?」
左近は地鳴りに向かって走った。磐音の声に振り返り、左近は焦れたように叫ぶ。
「爺さまが埋め火を使とる!相手がおんねや!お前は戻れ、若頭に伝ええ!」
磐音は兄の顔を仰ぎ、地を蹴った。また地鳴りが足を震わせる。左近はすぐさまそちらへ走った。雨足が強くなる。火薬が湿れば、火繩が濡れれば、埋め火が使えない。そうなれば圧倒的に藤兵衛の不利だ。藤兵衛がどんな敵と相対しているのかはわからない。だが交戦しているのならば、佐治真折ではあるまい。あの女が相手ならば――藤兵衛には悪いが、姿も見せぬまま、瞬殺されるだろう。
「じいさま、」
生きとれよ。
左近はその一言を噛み締め、滑る地面を蹴った。
真折が針を取り出したとき、半兵衛は真剣に殺されると思った。だが背中を粟立たせる半兵衛の想像に反して、真折はちょいと手招いて言ったのである。
「縫うたるさかい、肩出し」
びくびくと従った半兵衛に構わず傷口を見るや、真折は赤黒い洞に指を突っ込んだ。
「あ、っだぁぁぁあああ!?」
「喧しい。お前それでも岩室の男か」
諜報に特化した岩室の忍は、潜伏する際には如何なる傷を負うとも声を立てず、その場に潜み続けると言う。それは無論、誇張だ。だが岩室が忍耐に優れる家であることは事実。情けない声を上げた若者を見る、真折の鳶色の目は厳しい。
肩に食い込んだ弾丸を、真折の指が刮り出す。涙目で唇を噛んだ半兵衛は、反対の肩に真折が手をかけるのを見、諦めに目を閉じた。
「久蔵について行かんでよかったんか?」
真折の言葉に怪訝な顔を返し、半兵衛は自嘲した。
「俺がおらん方が上手くいく」
「…それもそうか。久蔵がどこへ行きよったかは?」
否定しないのは真折の厳しさだが、身内を案ずることすらできない半兵衛には心を解される思いだった。
「祖父さまが何も言わらへんちゅうことは、俺が知らんでええか、俺が知らん方がええかのいずれかや。俺は…出来がようないさかい」
半兵衛には自覚がある。過ぎるほどの自覚だ。己が父に、弟に及ばぬなり損ないだということは、常々半兵衛を苦しめた。忍ぶ生き方を懐疑する弟が、己よりよほど優秀で、優秀がゆえに否応なしに行く先を決められていく。その様を、のうのうと眺めていた訳ではない。
「それでも俺は、岩室を背負わな…九兵衛に顔向けでけん」
「阿呆やな」
半兵衛の覚悟を聞いた上で、真折は一蹴した。
「そんな思い入れが必要か。やったらやっぱりお前は向いてない。死人に対する思い入れがお前の覚悟やったら、お前はこれから耐えられへんよ」
包帯の代わりに晒し木綿を噛み裂き、真折は言う。
「甲賀に生きて岩室を残すために、必要なんはお前の実力だけや」
真折は、甲賀に生きて佐治を残すために埒外の身体となった。それが真折の力だ。佐治が生き残るための術だ。
押し黙る半兵衛に、真折は続けた。
「誰からも期待されへんねろ。なら止めてまえ。久蔵かてわかっとおるはずや」
半兵衛の傷口に口をつけ、血膿を吸い吐き出し、濡れた唇が言う。だが、半兵衛は拳を固めて押し黙ったままだ。
祖父に期待されていると思ったことはない。祖父はとっくに諦めている。今、祖父が求めているのは、岩室の手を離れた岩室の業を抹殺することのみ。ゆえに織江に与した。跡継ぎなど形ばかり、久蔵は己で岩室を終わらせるつもりだった。
それを、半兵衛は知っていた。
「いっ…やけど、真折。お前はどうや」
酒を傷口に注がれて呻きながら、半兵衛は尋ねた。死人への思い入れが、忍ぶ覚悟にならないならば、真折はどうだ。結崎信臣の遺志で織江信雪に仕えている。半兵衛はそう思っていた。女ゆえ甘さだと、女ゆえの感傷と拘泥だと真折を侮っていた。先の真折の台詞は、それが有り得ないことを示している。
「お前は結崎さまの、」
「留三郎さまは、そういうお人やないねや」
半兵衛の言葉が断ち切れる。遮った真折は苦々しい笑みを浮かべ、吐き捨てた。
「恭丸さまが望む限り、俺は俺や」
半兵衛はそれに口を閉ざす他なかった。
「お、仲良うやってんにゃないか」
皮膚を縫う痛みに半兵衛が苦悶しているところへ、現れたのは善助である。軽い揶喩を纏った声に、半兵衛は血を昇らせる。立ち上がろうとした半兵衛の肩を押さえ付け、真折は一切取り合わなかった。半兵衛の顔面を両掌で挟み、己の正面に向ける。少々年嵩とはいえ、真折は美女である。その貌に動きを止めた半兵衛の鼻を、真折の指がすいと摘む。真折自身がへし折った、鼻を。
「ちょ、待て真さ…っ!」
ぱき。
軽い音を立てて、半兵衛の鼻が元の位置に収まる。悶絶してのたうつ半兵衛の頭を固定し、鼻に触れられぬように晒しを巻きながら、真折は平然と善助に尋ねた。
「尾張は」
「念のために織江さま御帰還を触れといたが、保科が英断してくれよった。成田はしばらく手ぇ出して来よらん」
善助は真折の手元をしげしげと眺めながら、言葉を続ける。
「そうか。成田とやり合うのは余計な手間やさかいな」
「やな。やらんでええ戦や。ないに越したこたぁない」
にまりと薄い唇を笑ませ、善助は真折に背を向けた。
「報告か」
「せや。また走らんならんさかい」
「久蔵か」
真折はいちいち断ずる口調でものを聞く。しかも察しがいい。それに苦く笑いを落とし、善助は告げた。
「そうや。久蔵は、杉谷衆第三隊の上西藤兵衛を仕留めよった」
鼻を押さえて呻いていた半兵衛が、目を見開いて善助を見上げた。