那由多の果て

伝埜 潤の遺産。主に日々の連れ連れ。

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お仕事だけど。

昨日は1日京都でした。新京極の裏路地でご飯屋探してうろうろ。京都ってあんなとこあるのね。仕事以外の理由で行きたいもんです。
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晩餐。

大学の級友と、京都で晩御飯。平日にわざわざありがとうです。レッツ精神的デトックス。所属してる業界が同じなので共感もあり、参考になるところもあり、共通の愚痴もあり。いっぱい吐き出せました。まじでありがとう。明日も前向きに生きていけそう。
社会に出て三年弱。だいぶ鈍らになったけれど、やっぱり削ぎ落とせない棘を抱えて、鋭利さを忘れずにいたい。曇らない私でいたい。余計なプライドと言われるかもしれないが、落としちゃいけない棘もある、はずだたぶん。しなやかに生きていきたい。流されない私でいたい。月並みな表現だけれど。
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二ツ鳴り14

久々の。やっと納得できるところまで書けた。でも説明的過ぎる。むむむ。



上空高く鳶が飛んでいる。
「そやったか…千蔵を殺してしもたんか」
木漏れ日の滴る沢に腰を下ろし、上西藤兵衛は呟いた。
「因果なもんや、この手で我が子を討たなならんとは」
対岸で、澄んだ水に足を浸しながら、岩室久蔵が応える。
それはそれは長閑な光景だった。それは、仇敵を相手にするにはあまりに穏やかな話ぶりだった。
久蔵は、かつて藤兵衛の戦友だった。藤兵衛は岩室に身を寄せており、久蔵の片腕とさえ言われていた。罠師としての技は岩室から――久蔵から伝えられたものも多い。それは当時、共闘のための必然であり、当然に行われたことだった。しかし今や未来の昏い岩室にとっては、許し難い事実でもある。すなわち。
岩室の技を、岩室ではない者が扱う。
それは技を盗まれたことと同義、甲賀者にとっては恥辱である。ゆえに久蔵は、織江と結んだのだ。岩室の存続を賭け、亜流の抹殺を果たすべく。
「御屋形には、長いこと世話になった…岩室を見限って杉谷に流れたんは、確かに申し訳なかった」
「いや、お前さんが脱けたとき、先を見通せへんたのは儂や。九兵衛がああいう性質に生まれるとも、千蔵が思いの外、甲賀者らしなかったことも。岩室は終いや。儂で、終いにする」
皺くちゃの爺二人が呟く。跡継ぎと目した孫の九兵衛が甲賀を脱けたがったことから、久蔵が千蔵を討ったことまで。岩室に起きた全てを久蔵は藤兵衛に打ち明けた。
「…そや。ええ加減にしとかなあかんちゅうことやな」
ぽつりと藤兵衛が呟いた。
「なぁ。ほなやるか、藤兵衛」
晩酌でも始めるかのような気安い口調で、二人は立ち上がった。互いにどっこいしょ、と億劫そうな声をかけて沢から上がり、水を落としている。鞋を付けた瞬間が、最期だった。

「じいさまぁーっ!」
磐音の高い声が梢を裂いて響き渡る。最早なりふりなど構っていられなかった。
佐治真折の姿を見た。どこに潜んでいるかわからない脅威、あの女の気配の中でばらばらになるのは危険だ。磐音は焦燥に満ちて首を回すが、藤兵衛の小柄な姿は見当たらない。磐音は粟立つ二の腕を摩った。急に冷たい風が頬を撫でる。見上げれば空が暗い。
「磐音!下りぃ!」
磐音が上った木の根本で、左近が叫ぶ。ざあっと音が駆け、大粒の雨が降り出した。
「雷が来る!下りな!」
左近が言い終わる前に風が黒雲を運び、烈光が走る。金属を身に帯びた磐音は格好の獲物だ。慌てて幹を下る磐音の頬を、剥き出しの手指を、枝が打つ。
「兄さん、爺さまがおらへん、どこにもおらへん…!」
あちこちに赤い腫れを作った磐音は、着地に失敗してよろめく。その身体を支える左近に縋り付き、磐音は訴えた。磐音の頭の隅を、物言わぬ紗弓馬が過ぎる。骸の紗弓馬に、藤兵衛の姿が重なる。
「落ち着け。佑作も探して回っとるさかい、俺らは一旦戻るぞ」
ずぶ濡れの磐音に笠を譲り、墨染をかけてやりながら、左近は空を仰ぐ。
刹那。
どごぉっ!
轟音と共に山の斜面が煙を噴いた。衝撃に体勢を崩した磐音は左近にしがみつく力を強め、左近は両足を地に突き立てて踏ん張った。土煙が上がる。元々が脆い花崗岩質の岩盤である。一気に山肌が剥落した。
「埋め火…」
左近が呆然と呟く。埋め火は杉谷衆第三隊の定石だ。藤兵衛はその要だった。
どっ!ごっ!
幾分小さな地鳴りが連続する。
「あにさん!?」
左近は地鳴りに向かって走った。磐音の声に振り返り、左近は焦れたように叫ぶ。
「爺さまが埋め火を使とる!相手がおんねや!お前は戻れ、若頭に伝ええ!」
磐音は兄の顔を仰ぎ、地を蹴った。また地鳴りが足を震わせる。左近はすぐさまそちらへ走った。雨足が強くなる。火薬が湿れば、火繩が濡れれば、埋め火が使えない。そうなれば圧倒的に藤兵衛の不利だ。藤兵衛がどんな敵と相対しているのかはわからない。だが交戦しているのならば、佐治真折ではあるまい。あの女が相手ならば――藤兵衛には悪いが、姿も見せぬまま、瞬殺されるだろう。
「じいさま、」
生きとれよ。
左近はその一言を噛み締め、滑る地面を蹴った。

真折が針を取り出したとき、半兵衛は真剣に殺されると思った。だが背中を粟立たせる半兵衛の想像に反して、真折はちょいと手招いて言ったのである。
「縫うたるさかい、肩出し」
びくびくと従った半兵衛に構わず傷口を見るや、真折は赤黒い洞に指を突っ込んだ。
「あ、っだぁぁぁあああ!?」
「喧しい。お前それでも岩室の男か」
諜報に特化した岩室の忍は、潜伏する際には如何なる傷を負うとも声を立てず、その場に潜み続けると言う。それは無論、誇張だ。だが岩室が忍耐に優れる家であることは事実。情けない声を上げた若者を見る、真折の鳶色の目は厳しい。
肩に食い込んだ弾丸を、真折の指が刮り出す。涙目で唇を噛んだ半兵衛は、反対の肩に真折が手をかけるのを見、諦めに目を閉じた。
「久蔵について行かんでよかったんか?」
真折の言葉に怪訝な顔を返し、半兵衛は自嘲した。
「俺がおらん方が上手くいく」
「…それもそうか。久蔵がどこへ行きよったかは?」
否定しないのは真折の厳しさだが、身内を案ずることすらできない半兵衛には心を解される思いだった。
「祖父さまが何も言わらへんちゅうことは、俺が知らんでええか、俺が知らん方がええかのいずれかや。俺は…出来がようないさかい」
半兵衛には自覚がある。過ぎるほどの自覚だ。己が父に、弟に及ばぬなり損ないだということは、常々半兵衛を苦しめた。忍ぶ生き方を懐疑する弟が、己よりよほど優秀で、優秀がゆえに否応なしに行く先を決められていく。その様を、のうのうと眺めていた訳ではない。
「それでも俺は、岩室を背負わな…九兵衛に顔向けでけん」
「阿呆やな」
半兵衛の覚悟を聞いた上で、真折は一蹴した。
「そんな思い入れが必要か。やったらやっぱりお前は向いてない。死人に対する思い入れがお前の覚悟やったら、お前はこれから耐えられへんよ」
包帯の代わりに晒し木綿を噛み裂き、真折は言う。
「甲賀に生きて岩室を残すために、必要なんはお前の実力だけや」
真折は、甲賀に生きて佐治を残すために埒外の身体となった。それが真折の力だ。佐治が生き残るための術だ。
押し黙る半兵衛に、真折は続けた。
「誰からも期待されへんねろ。なら止めてまえ。久蔵かてわかっとおるはずや」
半兵衛の傷口に口をつけ、血膿を吸い吐き出し、濡れた唇が言う。だが、半兵衛は拳を固めて押し黙ったままだ。
祖父に期待されていると思ったことはない。祖父はとっくに諦めている。今、祖父が求めているのは、岩室の手を離れた岩室の業を抹殺することのみ。ゆえに織江に与した。跡継ぎなど形ばかり、久蔵は己で岩室を終わらせるつもりだった。
それを、半兵衛は知っていた。
「いっ…やけど、真折。お前はどうや」
酒を傷口に注がれて呻きながら、半兵衛は尋ねた。死人への思い入れが、忍ぶ覚悟にならないならば、真折はどうだ。結崎信臣の遺志で織江信雪に仕えている。半兵衛はそう思っていた。女ゆえ甘さだと、女ゆえの感傷と拘泥だと真折を侮っていた。先の真折の台詞は、それが有り得ないことを示している。
「お前は結崎さまの、」
「留三郎さまは、そういうお人やないねや」
半兵衛の言葉が断ち切れる。遮った真折は苦々しい笑みを浮かべ、吐き捨てた。
「恭丸さまが望む限り、俺は俺や」
半兵衛はそれに口を閉ざす他なかった。
「お、仲良うやってんにゃないか」
皮膚を縫う痛みに半兵衛が苦悶しているところへ、現れたのは善助である。軽い揶喩を纏った声に、半兵衛は血を昇らせる。立ち上がろうとした半兵衛の肩を押さえ付け、真折は一切取り合わなかった。半兵衛の顔面を両掌で挟み、己の正面に向ける。少々年嵩とはいえ、真折は美女である。その貌に動きを止めた半兵衛の鼻を、真折の指がすいと摘む。真折自身がへし折った、鼻を。
「ちょ、待て真さ…っ!」
ぱき。
軽い音を立てて、半兵衛の鼻が元の位置に収まる。悶絶してのたうつ半兵衛の頭を固定し、鼻に触れられぬように晒しを巻きながら、真折は平然と善助に尋ねた。
「尾張は」
「念のために織江さま御帰還を触れといたが、保科が英断してくれよった。成田はしばらく手ぇ出して来よらん」
善助は真折の手元をしげしげと眺めながら、言葉を続ける。
「そうか。成田とやり合うのは余計な手間やさかいな」
「やな。やらんでええ戦や。ないに越したこたぁない」
にまりと薄い唇を笑ませ、善助は真折に背を向けた。
「報告か」
「せや。また走らんならんさかい」
「久蔵か」
真折はいちいち断ずる口調でものを聞く。しかも察しがいい。それに苦く笑いを落とし、善助は告げた。
「そうや。久蔵は、杉谷衆第三隊の上西藤兵衛を仕留めよった」
鼻を押さえて呻いていた半兵衛が、目を見開いて善助を見上げた。
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二ツ鳴り13

山中陽心は五十三家の中核、山中の分家の出である。しかし甲賀者になるための、如何な訓練をも陽心は嫌った。何より陽心の幼い頃から充実した体格は、忍ぶに向かなかった。ゆえに実家が早々に、陽心が甲賀者として生きることを諦めたのである。分家の気安さからあっさりと家を出た陽心は、杉谷へ身を寄せた。そこで大型火器――殊更、手持ちの石火矢の扱いに長じていった。
「なぁ若頭」
穏やかに静四郎に呼びかける陽心は、石火矢を調整する手を緩めない。静四郎は唇を結び、胡坐に座したまま微動だにしない。今ここにいるのは静四郎と周五郎、陽心、磐音だけだった。偵察と言った左近は土山へ向かい東海道へ。気がかりがあると言った佑作は馬杉の実家へ。爺さまこと藤兵衛はこの辺りの地形を見直しに散歩へ。紗弓馬の死から、既に四日が過ぎていた。
「紗弓馬を埋めたとき、一つ思たことがあんねん」
磐音は哨戒を兼ねて杉の樹上に、鳥のように佇んでいる。話ができる距離にいるのは静四郎と陽心だけだ。静四郎はのろりと首を上げ、陽心はとつとつと続ける。
「紗弓馬が死によったことを、あんたが気に病まんででええ。あいつは己の意志で選びよったんや。日野の馬借やのて、杉谷衆第四隊としてここにおることを」
石火矢を油紙で包み、陽心はそれを傍らに置いた。
「紗弓馬の奴は、元々の気性が極端やった。ええ馬借にもなれたやろうに、何で杉谷におるんかとも思た。けど、あれはあれで好きでここにおって、好きやから仇撃ちにむきになっとったんや。儂らはそれを知っててやったらええ。その気持ちさえ、汲んでやったらええ」
陽心が言い終わる。静四郎は、小さく息を吐いた。
「すまんな、山中さん」
「まぁな。儂は、若頭のことはまだようわからん。理一さんのことやったら、よう知ってるつもりやけどな。あの人の器量かて、あの歳になるまでさっぱり使えなんだ。若頭が迷ても、それはしゃあないやろ」
陽心は気楽に告げる。そこには紗弓馬の焦燥も、左近の苛立ちもない。陽心独特のおおらかさがある。復讐を、帰る場所を奪われた憤りを、忘れた訳ではない。だがそれを抑え込む術を、陽心は知っていた。
かさりと音がする。磐音が手折った杉の枝を地面に落とした音だ。青々とした杉の若芽。静四郎には甘えがある。上に三人の兄がおり、あくまで自分は四番手だという甘えがある。容久はそれを危惧して郡中惣の寄りにも参加させていたのだが、静四郎がそのことに気がつくには少々遅かった。静四郎は嫌と言うほど、思い知らされたのだ。己が甘さを。
「いずれにせよ、若頭。あんたは、どっかで決めやなあかんなる。織江をどうする。儂らはあの若殿さんにとったら仇や。どこで落し前をつけやなあかんのか、それを決めるんは、儂らにはできひんさかいな」
穏やかに話していた陽心は、ごく穏やかだった。穏やかに石火矢に火薬を込め、弾をこめ、火繩を起こしていた。静四郎はそれに気がついている。
「どいてなや磐音!」
前触れもなく叫んだ陽心は、空に向かって石火矢を放った。炎の塊が射出され、梢に吸い込まれる。今まで影のように押し黙っていた周五郎が、筒を空へ向ける。薬込みはとっくに終わっていた。
「若」
「あの枝や!撃て!」
静四郎は声を張り、周五郎が膝を突いて構える。構えから引き金を引くまで、およそ一呼吸もなかった。
「っ!」
石火矢に圧し折られた枝の残骸、木片がばらばらと散る中に藍色の姿形が跳ぶ。それはあのとき、藤兵衛に斬りかかった若い甲賀者だった。周五郎の弾丸はその覆面を引き裂き、顔面を大きくえぐっていた。噴き出す血霧と苦鳴、藍装束の忍はぐっと腕を曲げる。何物かを投げる姿勢だ。だがその眼前に、磐音が逆さまに降りてくる。怯んだ忍の前で、磐音は笑って見せた。全く何の毒もない田舎娘の笑顔だが、その両手には二挺の短筒があった。
短筒とは、文字の通り銃身の短い鉄砲である。杉谷衆の短筒は、第四隊に特有の武器だった。火繩による着火、先込め式の通常の鉄砲と変わらない造りを持つ近距離武器である。
「あんまり舐めんといて?」
磐音の声は果たして相手に届いていたのか。鋭い破裂音が二つ。磐音の両手が反動で跳ねる。両肩から血を噴き、姿勢を崩した藍色が落ちると見えた刹那、低い女の声がその場を遮った。
「その辺で置いとき」
誰にも気づかれずに、先まで磐音が佇んでいた枝に止まっていた。その女は静四郎よりも長身で、磐音とは比較にならない豊満な肢体を素っ気ない藍装束に包んでいる。色が脱けた長い髪は男結びに結われていた。
「邪魔すなや真折ぃ!」
血に塗れぼろぼろになった若い甲賀者が叫び、杉谷の面々はその女を凝視する。
真折。佐治家の女。これが、紗弓馬の仇か。
「名前を呼ぶなて教わらんかったか阿呆」
言いながら懐に手を突っ込み、鳥の子を取り出す。
「逃げるで。ちゃんと避けなや」
そこからの展開は怒涛である。真折の手から離れた鳥の子が土に着くまでに、それが齎す威力から逃れなければならない。磐音が枝を蹴って着地し、駆け出す。周五郎が口を覆い、陽心がその肩を押した。静四郎だけが、その場を動かずに真折を睨んでいた。
紗弓馬の仇。だが、紗弓馬を殺したのは、この女だろうか。この女の手を以て、紗弓馬を殺したのは、
「若頭!」
陽心が声を上げて静四郎を呼ぶ。静四郎を見つめる真折の鳶色の目が、細くなった。真折が背を向ける。鳥の子が破裂し、刺激臭が漂う。だが静四郎は筒を向けられなかった。動くことすら、ままならない気がした。
あの女の手を以て、紗弓馬を殺したのは――血の味を感じた。喉の奥で燻る火の穂の臭いが、灼けつくようだった。
「無事やな、静四郎!?」
後方から飛んだ声は、佑作のそれだ。それにようやく、静四郎は区切りをつけた。駆け出す先に墨染も見える。厳しい顔で笠を上げた左近は、静四郎に近づくやその頬に手をかけ、瞼を見、口を開かせた。
「はったりで済んだみたいやな…」
ほっと息を零す左近に小さく詫び、静四郎は揃った面子を見渡す。
「佑作、爺さまはどうした」
静四郎のその問いに、佑作は怪訝な顔をした。
「俺は見とらへんぞ」



静四郎の懊悩は、じっくり書いていきたい。筆力は足らないけど。
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二ツ鳴り12

えらく間の空いた続き。



「な、んやのこれ」
紗弓馬の骸を見た、それが磐音の第一声だった。そしてそれは、この場にいる全員の心中をよく現していた。
もの言わぬ骸となってそこに在るのが、あの加藤紗弓馬だと、誰が信じられよう。快活で磊落、そして誰より情に弱い、紗弓馬。己より他人のために、引き金を引いた男だった。
「さゆまさん…!」
掠れ声でその名前を呼び、磐音が口を覆った。応えはない。第二隊の先鋒として戦場を駆けるようになっても、いつまでも気のいい、日野の馬借の気質が抜けない男だった。馬の尾のような、高く結われた髪が躍る様を見ることは、もうない。
「何で殺られた」
「毒や…佐治が、相手やぞ」
左近が周五郎に答え、周五郎が渋面になる。毒の佐治。周五郎は根っから杉谷の人間である。ゆえに、甲賀の内実にも、多少なりとも通じている。今、佐治において実働できる者は限られている。
「女か」
「あぁ。周五郎さん、心当たりが?」
左近の低い声に、周五郎は腕を組み、呻いた。
「ある。今、佐治の一門で紗弓馬を殺せるような腕利きは、真折か真鎮しかおらへん。真折は、十二のときには、今のわしが撃ったんと同じだけ殺しとった。真鎮は真折の妹や。やけどそいつらが、どうやって毒を使うのかはわからん。針を打ちよんのか、毒剣を投げよんのか、床に連れ込みよるんか」
溜息を吐いた周五郎に、声を上げたのは佑作である。
「接触しただけで殺られた」
陽心と磐音が目を剥いた。
「触ったら終わりや言うことか!?」
「そうや」
「そうや、ってなぁ…」
皆が信じていたのは、紗弓馬があの刺客を討って帰ってくることだった。それは最悪の形で裏切られ、紗弓馬は死んだ。その上、相手が予想外の難敵であることを知らされたのである。言い知れぬ重圧に、誰もが口を開こうとしない。
静四郎は耳の奥で聞く。濁流の如く鼓膜を叩く音。憤激の奔流が血に乗って静四郎の身体を巡る、正にその音だった。その音が、轟と勢いを増した。
「触らへんたらええねやな?」
ぽつりと呟いたのは藤兵衛である。
「触らへんても、向こうが仕掛けてさえくれよったら殺れるで。もっと大掛かりで細かい計画が要るけどな」
希代の罠師、上西藤兵衛。杉谷でも異色の技師は、頭の中で計画を立てるとき、殊更に皺深くなる。
「けどなぁ、爺さま。次は俺らから仕掛けようや」
藤兵衛を遮ったのは、煮えるような笑みを孕んだ左近の声だった。長い黒髪を背で結い直し、左近は唇を吊り上げた。
「俺ら、杉谷衆は狩られるだけの狐か?狸か?猪か?甲賀の山ん中でびくついとぉる獲物か?」
ぎり、と藍色装束の袂を握ったのは佑作だ。誰が、狩られる獲物か。筒を掲げて立てば、杉谷衆は何者にも負けぬ。敗北を敗北のままにしておくなど、杉谷の矜持が許さなかった。
「偵察に出てくるわ。磐音、俺の袈裟出し。若頭、ええか?」
「…あぁ。構へん」
静四郎は何かを考え込むように黙し、ようやく応えを放った。それを受け、墨染を纏った左近は錫杖を鳴らして踵を返す。鳴り響く金属の連音は紗弓馬への、左近からの手向けだった。

「よぉこき使てくれるわ…」
善助は嘆息する。先触れとして東海道を駆けた善助は、一晩で尾張に着いた。戦の仕度に沸く城内に主が帰ることを告げ、すぐさま成田の陣へと向かったのである。
「保科利右衛門さえ、おらへんたらなぁ…織江さまの敵やないねけどなぁ」
殺そか。
呟いた善助は西国巡礼の行者に化けたまま成田の陣に近づき、藍装束に着替え息を潜めた。行き交う甘酒売り、髪結い、両替商、刃物研ぎ。戦場は財布の紐がよく緩む。行商にとっては外せない稼ぎ場所なのだ。その他様々な職の物売りを眺め、やがて善助は吊り上がった目を細める。善助が目を付けたのは物売りではなく買い手だった。木綿を買う夫丸である。夫丸とは戦場で荷駄を運ぶための人足である。それが木綿を買い集めるなら、目的はおおかた決まっている。
程なく夫丸の装束を手に入れた善助は、傘を被り手拭いを顎に渡して、成田の陣に入り込んだ。
「おぉい、木綿を買うてきたぞ」
殊更声を張り上げる。潜むとは真逆の行動だが、息を殺して隠密に徹するよりも、善助はこちらの方が得意だった。
「救護所はどこじゃあ」
尚も大声を上げる善助に、幾人かが奥を指した。ひょいと片手を上げると、善助はそのまま陣幕の張られた奥へと歩んだ。
「おぉ、木綿はこちらへ寄越しゃあ」
救護所を準備していた典医が善助を呼ぶ。木綿は止血に必要な必需品だ。それが戦場ともなれば、買い占めでもしなければ間に合わない。へぇ、と応えた善助はばたばたとそちらへ走った。
「陣を引き上げましょうぞ」
救護所の近くの陣幕からは、微かな声が漏れていた。常人には聞き取ることが困難なそれでも、善助には充分以上である。
声の響きから見当を付け、ごくごく当たり前の顔でそちらへばたばたと走る。戦支度の中だ。多少大袈裟に動いた方が怪しまれない。陣幕の隙間にどっかりと腰を下ろし、善助は積んであった藁で鞋を編み始めた。もちろん合議を行う諸将を横目に見つつ、である。
「織江の若当主はこちらの動きを察し、帰路に着いたとのこと。最早、織江を攻めること叶いますまい」
低く、叱咤する調子で進言するのは、保科利右衛門為将。成田の重臣にして、戦の要であった。ならば相手は成田の当主か。
「臆したか利右衛門。今が好機に決まっておろう?織江信雪がここにいないのだ。迅速に攻め、滅ぼせい。あやつが見るのは、焼け野原よ!」
呵々と声高に笑う相手に、為将のふさふさと黒い眉が吊り上がる。
「戦は童の陣取り遊びではござらぬ。この保科利右衛門がおりながら、左様な楽観にて兵をみすみす失うことを許すわけにはゆきませぬ」
ぎくりと身をすくませた成田の当主はしかし、眉をひくひくと動かし為将に抗するべく口を開いた。
「そのあたりで止めておいては如何です、父上」
間抜けに開いたその口から、声が出ることはなかった。なぜなら凛と通る涼風なる声が、為将を諌めたからである。善助は眉を微かに上げた。成田は勢力としては強大な上、古くからある。その中で、あの声のような若い将など知らない。
「新左は黙っておれ」
新左。それを聞いて善助は内心で首を傾げた。
思い当たるのは保科為将の実子、新左衛門征将。だがあれは、まだ齢十五になるや否やの子どもだ。成田の、主家に見合わぬ実力ある諸将に並んで合議に出られる程とは思わない。
「黙りませぬよ父上。このような暗愚なる当主に、父上が骨を砕かれるなどお笑いだ。好きにさせておやりなさいませ。さすれば父上の言が正しいことが、よくよくその身に沁みるでしょう」
すっぱりとそう言い切ったのは、やはり屈強な諸将に比べて一回り以上華奢な子どもである。
「な、ぶれい」
「口を慎め新左衛門!」
雷鳴の如き一喝だった。声を震わせた成田の当主が何事か口にする前に、為将がその頬を張っていた。篭手を付けたままの手である。子どもが覆った口許からは血が筋を作って垂れた。
「主家に対して何たる言い草か。我らが力尽くして働かねば、何が起こるかわからぬお前ではあるまい」
睨み合う父子の間、すっと子どもが眦を緩めた。
善助は感づいた。父の進言を助けるために一芝居打ったのだ。後は為将が畳みかけ、圧倒され呑まれた成田の当主はうんうんと頷く他にない。
「御屋形さま。陣を引き上げまする。皆はその旨を伝えてくれるか…その際に、足軽と夫丸の数を、足軽頭にしっかと数えさせよ」
善助はにやりと笑った。織江が甲賀者を使うことまで握っているとは、流石に保科利右衛門為将。三国一の称名は飾りではないと見える。為将の指示は、潜り込んだ間諜を探り出すためのものだ。丁度、善助のような。
「まぁええか」
これで成田が引き上げれば、善助の仕事はなくなる。行きがけに為将を殺すこともありかと思ったが、善助はさっさと夫丸装束を脱ぎ捨てて人波に紛れ、遁走した。
気にかかるのは保科新左衛門征将である。聡い子どもだ。あの親にしてあの子。父親が鷹なら、あれは鳳雛だ。でなければ龍か、麒麟の子だ。あの子は、征将は、今に織江の脅威となる。生かしておけば、信雪の障害となる。だが、あれだけの器ならば、いつまでも成田の下にはいるまい。織江恭四郎信雪は鬼だ。魔王だ。その信雪に、如何様にして対峙するのか。
「末が楽しみやなぁ」
くつくつと笑いながら、善助はふっと、客死した兄の顔を思い出した。
「鷹になれん家鴨は俺だけか」
自嘲に片頬を上げ、それきり善助は物も言わずに駆けた。




充電終わり。またぼちぼち書いていく。保科さんちの家庭事情は後々に影響してくる。善助の兄ぃは、実は自分が一番の道化だと思っている。家鴨は「あひる」。
織江は尾張の大名なので、成田も当然その辺り。でも愛知の方言がわからないから書けない。イコール標準語か、侍言葉。という妙な不徹底。
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二ツ鳴り11

続き。



暗器以外を手にしない真折は、紗弓馬の首を切断できるだけの刃物を持っていない。紗弓馬の手から袋槍を奪い、屈み込んだ真折は痙攣する紗弓馬の喉に刃を当てる。だが刃が喉を掻き切ることはなかった。
「紗弓馬ぁぁあ!」
啄木鳥が木の幹を穿つような音を立て、棒手裏剣があちこちに突き立つ。それを牽制と踏んだ真折は動きを止めたものの、その場を退かなかった。棒手裏剣は投物武器の中で最も高い殺傷力を誇る。佐治には必要のない武器だ。
「紗弓馬!?お前…」
佑作が右手の五指に棒手裏剣を構え、前衛に立つ。その左手が閃き、火花が散った。爆裂した鳥の子から濛々と白煙が上り、真折は後退を余儀なくされる。白む視界の中、紗弓馬を抱き起こした左近は、その有様を目にして絶句した。
「ち、かづくな、さこ…」
ぜろぜろと喉を喘がせ、それを告げるだけの息を紡ぎ、紗弓馬はどっと血を吐いた。そのまま白目を剥き、がくんと首が折れる。顔面のあらゆる穴から血を噴き、既に紗弓馬の息はなかった。
「毒の佐治か!」
真折の髪色に気づいた佑作が咆える。真折は緩やかに笑んでみせた。うねる髪が肩を滑り、ふわりと血が香る。
「っ左近、退がれ!」
佑作が口布を鼻先まで引き上げ、左近が紗弓馬を抱えたまま真折に背を向けた。
「逃がさん」
地を這うような真折の声。佑作が振り返り、咄嗟にその懐に体当たりをかます。長身とはいえ女の真折は佑作より軽い。地を蹴っていた真折は容易く均衡を崩した。
「ちぃ、」
朽ち葉を身体に纏って真折が起き上がったとき、既に佑作と左近は逃げおおせていた。舌打ちし、二人が去った方角を睨み据える真折に怒気を孕んだ言葉がかけられる。
「真折っ!俺が居んのに構わんと毒を使うたな!?」
戦闘の及ばない場所に逃れていた半兵衛である。真折は片目を眇め、溜息を吐いた。
「それがどうした」
「ふざけるな!おま、お前…!」
顔を真っ赤にして真折に詰め寄る半兵衛は、このとき思い出した。この女に近づいてはならない。この女は、ほとんど手を触れずに相手を殺せるのだ。善助の揶揄の意味が、ようやくわかった。動きを止めた半兵衛を見、真折は唇を吊り上げる。
「当たり前や呆け。死にたぁなかったら俺の傍に寄るんやない」
あくまで柔和に微笑みながら、真折は吐き捨てた。

「大丈夫か、佑作」
一歩後ろを走りながら酷く咳き込む佑作に、左近は問いかける。佑作は頭を振り、掠れた声を張った。
「心配すんな…いや、すまん。後で診てくれ。目も」
「目?」
振り向けば両目を真っ赤に充血させた佑作がいた。左近は絶句し、足を緩める。
「左近?」
「阿呆、何でもっと早う言わへんねや。ほれ」
水筒を佑作に放り、左近は紗弓馬の骸を横たえてその場に腰を据えた。怪訝な顔をしながらも佑作は素直に水筒を開け、それで眼球を洗った。
「あの一瞬、接触しただけでそれか」
「息は吸わへんたつもりやねんけどな」
左近は佑作に手を伸ばす。佑作はされるがまま、頬を触れさせた。左近は下目蓋をひっくり返し、渋面になる。
「目ぇ擦んなよ。吸うたんやない。目の粘膜からや。なるほどな…。紗弓馬は吸うたやろうけど…道理で酷い様や」
紗弓馬の骸は眼球と口腔の粘膜を爛れさせ、爆ぜさせていた。呼吸した際に肺ノ腑をやられたのだと左近は推察する。
「佑作、お前やったらどうしてあの女を殺す?」
近づくだけで、或は触れるだけで絶死を与えられる暗殺の専門家。あの佐治の女を殺す術を、左近は模索する。
「周五郎さんやったら一発や。やけど」
「あぁ、生半可なことやない」
理屈としては、あの女の毒の通用する範囲の外から狙撃してしまえばいい。杉谷衆の中でも名人級の立池周五郎ならば、それが可能かもしれない。だが果たして、それをさせてくれる相手か。
「紗弓馬を殺られて、この様か」
ぎちりと佑作が歯噛みする。それを幾分平静を装った左近が、ゆっくりと諭した。
「相手が毒とわかっただけでも儲けや。そう思わな、紗弓馬が報われへん。仇は撃つ。あの女は確実に仕留めたる。それが紗弓馬に報いる方法や」

「真折」
「申し訳ございません」
真折が杉谷衆の一人を仕留めたと報告を受け、信雪は労いの言葉をかけるつもりでいた。だが目の前に平伏した真折は信雪の声を遮った。
「あの男の首を、お持ちするつもりでございました」
あの男とは加藤紗弓馬。信雪の、世界で唯一の存在を奪った男だ。ぴくりと信雪の目許が震える。
「仕留めたのか」
「はい」
「ならば良い」
休め。言い置いて信雪は踵を反す。平伏した真折をその場に残したままだ。その信雪に、樹上から声がかかる。
「もうちょっと何かないんか。杉谷の精鋭一人殺して来よったんやぞ?」
「善助か。話があるなら姿を見せよ」
「そらすまんな。虫の居所が悪いさけ、不細工な顔しか見せられへんのや」
善助がこういう物言いをするときには必ず裏がある。ここ数年の付き合いで、信雪はそれを学んでいた。この男は心中を断じて面に出すことはない。例え口で何と言おうが、善助の外面は内面と釣り合わない。
「全く、真折だけは敵に回したぁないわ。あの娘、どうやって紗弓馬を殺したと思う?」
音も立てずに信雪の背後に立った善助は尋ねた。
「織江さまには想像もできひんやろな」
せせら笑う善助に信雪は嘆息した。
「毒を撒いたのだろう?」
事前に取り込んだ毒を、汗と共に排出し皮膚上で揮発させる。そんな芸当ができるのは佐治家でも真折だけだ。そして信雪は、少なくとも二度、真折がその方法で虐殺を行うのを目にしている。
「ありゃ、明察。ほなわかってんねやろ?直にあの娘は人間やなくなる。あんたのために死によんぞ」
そうなる前に止めたれよ。
善助の視線は常の道化た表情を拭い去り、鋭く信雪を射る。だが信雪は目を軽く細めるだけでそれをいなした。
「お前はお前、真折は真折だ。真折はお前とは違う。口を出すな、善助」
「あんたが俺の働きに報いてくれるためには、あんたは真折を忍扱いすべきやない」
忍は報酬次第で動く。それが実態だ。まして善助はその典型であり、一流である。それは信雪も理解していた。善助の意向を蔑ろにするのは得策ではない。だが信雪はきっぱりと言いきった。
「三度は言わぬ。口を出すな、善助」
善助は顔をしかめ、笑って吐き捨てた。
「後悔なさるぞ」
「我は二度と、後悔はせぬ」
「あぁそ。それはそうと、久蔵から連絡や。一旦帰った方がええで。あんたが国に居らんのが成田に知れた」
急なその報告を聞いても、信雪が顔色を変えることはなかった。
「成田か…保科が止めるだろうが、来るな」
成田は織江と国一つ隔てて睨み合う名門の大名だ。信雪と先代だけで成り上がった織江とは質が違う。家老の保科利右衛門為将は三国一の軍師で知られるが、当の成田家当主は凡庸である。信雪は名前すら覚えていなかった。だが勢力としての成田が大敵であることは自明。それを知りながら国を空けた信雪が、そもそも無謀なのである。
「善助、先触れとなれ。我が帰ることを報らせよ。真折には杉谷衆を追わせる」
「…、御意」
善助が身を翻す。それを見ずに信雪は声を上げた。
「馬引けぃ!」



杉谷衆第四隊の騎馬鉄砲、加藤紗弓馬、死す。
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二ツ鳴り10

紗弓馬VS真折。


土を離れた真折の足が、杉の幹を蹴る。瞬間、紗弓馬の手槍が空を裂いた。
「鉄砲だけやと思うな!」
真折の動きを読む、紗弓馬の目の良さは驚異的だった。突き出される穂先は尽く真折を掠める。だが真折はそれをひたすらに避け続けた。馬上から振るわれる槍を見ず、真折はひたすらに針を突き立てる瞬間を探っていた。
薬の佐治、或は毒の佐治。そう呼ばれるように、佐治は薬に秀でた家だ。治療と毒殺に関し、佐治家は指折りの実績がある。そして真折は殊更、毒殺に長けていた。髪一筋にかけても毒に浸かった娘、それが佐治真折である。色が脱け、痛んだ髪の理由はそれだ。女であれば嘆くべきその髪の有様は、佐治の女にとっては誇るべきものだ。同時にそれを知る者にとって、その髪は警戒色に等しい。接触するだけで命取りになる可能性さえある。ゆえに半兵衛が馴れ馴れしく真折の肩に触れた瞬間、善助は嘲るような笑みを浮かべたのだ。その女が何者か、知らないからこそできる暴挙だと。
「っらぁ!」
紗弓馬が雄叫びを上げ、真折が脇腹から血を噴いた。喜色を現した紗弓馬は手首を反し、穂先を突き出す。それに交差して振られた腕から打針が飛んだ。極細い棒手裏剣である。殺傷力は低いと踏んだ紗弓馬はそれを無視して真折の前腕を貫いた。
「!」
声にならない呻きが零れた。真折ではない。紗弓馬の口からである。打針を受けたのは、紗弓馬が操る馬の方だった。首に打ち込まれた針は一瞬でその命を絶った。最期に鋭くいなないた馬は前脚を上げてのけ反り、紗弓馬を振り落とすとどうと地に沈んだ。紗弓馬は露出した樹木の根に叩きつけられ、意識を飛ばす。
真折は前腕に刺さったままの槍の穂先を引き抜いた。得物を奪うつもりで、尺骨の間を狙って貫かせたのである。止血点を押さえながら、投げ出された紗弓馬に近づく。藍装束の袖から取り出された千本は濡れ、微かな艶を帯びていた。
「退けや、真折」
背後から聞こえた声に、真折は眉間に皴を刻んだ。
「その首、俺が奪る」
真折は千本を握るのと逆の手で打針を握り込んだ。振り返れば予想に違わず、半兵衛が立っていた。止血を終えて追ってきたらしい。
「次に邪魔したら殺すて言うたはずやぞ。耳まで呆けたんか」
詰る真折に半兵衛はかっと頬を染めた。
「自分の姿見てみいや。俺が居いひんて苦戦したんと違うのか?」
半兵衛は引き攣った笑顔を繕い、真折を嘲った。真折は脇腹と前腕から出血している。藍装束は鈍い紫に染まっていた。しかしこの傷は、真折が意図的に負ったものである。脇腹に至っては薄皮一枚裂かれただけだ。
詰る言葉とはいえ、最初に言葉を返したのは真折の優しさだった。善助ならば言葉など与えず、迷いなく棍を振り抜いていただろう。苛々と舌打ちした半兵衛は真折に歩み寄り、その肩を掴んだ。真折の腕がしなり、鳶色の双眸が爛と光る。
ばきっと鮮やかな音を伴い、真折の拳が半兵衛の鼻をへし折った。真折は女である。だがそれを補う力の使い方を知っていた。どの筋肉をどう動かし、どこに力を加えれば効果的に相手を破壊できるか。鼻を押さえる半兵衛に真折は言い放つ。
「功を追うだけが美徳やと思てんのか」
「忍の忠心なんぞ泡沫やないか」
くぐもった声で半兵衛が返す。あくまで鼻で笑うような調子を崩さない半兵衛に真折は針を向けた。
「これで最後や。次に俺の邪魔したら殺す」
言うや、身体を反転させその場から退く。何もなくなった空間を薙いだのは、槍の穂先だった。
「ええ加減にせえよ、お前ら…!」
頭を押さえた紗弓馬がぐらりと立ち上がる。その右手に握られているのは槍の穂先だけ。握りの部分が筒状になっている。穂先だけを携帯することができる、袋槍である。紗弓馬のそれは普通よりやや大身で鋭角だ。短刀としても十二分に扱えるだろう。真折は舌打ちした。獲物を奪うために腕を犠牲にしたのに、無意味になってしまった。
「お前らが、織江についてる甲賀者か…どこのもんや」
紗弓馬は低く問いかける。眼前で仲間割れをしているのは紗弓馬と同年代の女と、それより若い男だった。見覚えはない。
紗弓馬の耳には不自然な葉擦れの音が届いていた。音は二人分だ。佑作と左近が木々を縫って駆けてくる。二人との距離はさしてない。数呼吸待てば、形勢は逆転する。そのために時間を稼ぐ必要があった。
「あの、織江の殿さまが雇たんやから、どんな化け物が来るかと思たら――ははっ、一人は女やしもう一人はその女の足引っ張るし、ろくでもないなぁ」
紗弓馬が吐いた毒に、無表情だった真折がひくりと反応した。花色の唇が弧を描き、長い睫毛が瞬き、大輪の笑みを浮かべる。半兵衛がさっと顔色を変え、後退り真折から遠ざかった。
真折は美女である。善助と並ぶ長身を持ち、化粧気もなく、半兵衛は年増と罵ったが、紗弓馬は目を奪われた。その唇が開く。覗いた舌は、滑る淡紅。
「来世まで覚えとき、加藤紗弓馬。俺がどうやって貴様の命を奪うかをな」
爛漫の笑顔を浮かべたまま、真折は囁いた。はっとした紗弓馬が槍の穂先を振り抜き――そのまま、体勢を崩した。
「あ?」
ぴしゃりと紗弓馬の眼窩から血が飛沫いた。眼球表面の血管が破裂したのだ。次いで鼻孔から血が滴り、紗弓馬は咳き込んだ。泡の混じったどす黒い血を吐き出し、紗弓馬は崩おれる。
「あ、ァ、あ、お…まえは…!」
「二秒は保たさん」
菩薩のような眼差しを紗弓馬に注いだまま、真折は言い放つ。紗弓馬は袋槍を握り直し、その腕を伸ばすが、真折には届かない。届くはずがないのだ。忍相手と覚悟した紗弓馬は、充分に間合いを計っていた。投物武器なら叩き落とせ、手持ち武器なら届かないが、紗弓馬さえその気になれば詰められる、絶妙の間合いを守っていたはずだった。紗弓馬の腕は、得物は、既に真折に届かない。
ぴくぴくと痙攣する紗弓馬を見下ろし、真折は呟いた。
「さて、その首もらおか」



真折の埒外と、紗弓馬の敗北についての一幕。
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二ツ鳴り9

雨の匂いが好きだ。


「行かしてええんか?大事な跡継ぎやろ」
ざわりと揺れた梢を見送ったのは、笠と蓑を纏った人影が二つ。笠をくい、と持ち上げて善助が尋ねる。その声に含まれる意地の悪い笑みに、久蔵は嘆息した。
「何や、お見通しかい」
先手として発とうとした真折を止めたのは、あろうことか半兵衛だった。自分を連れていけと訴える半兵衛に、真折はぞんざいに頷いた。邪魔になったら針を打つ――そう告げた真折に、久蔵は躊躇わず首を縦に振った。それを見た善助は笑いを堪えるのに必死だったのだ。
「一応、聞いたろか。千蔵はどうした?」
「我が手で討った」
きっぱりとした返事に善助の笑みが深くなる。
「岩室はもうお終いや。千蔵は死におった」
半兵衛には優秀な弟がいた。名を九兵衛という。その能力は父たる千蔵の再来だった。ゆえに岩室の安泰を誰も疑わなかった。だが九兵衛には致命的な欠点があった。甲賀者の生き方を、受け入れられなかったのである。
「九兵衛が岩室を抜けるのを、誰が許すはずはないんや。ゆえに千蔵は自ら手を下し、九兵衛を殺した。その己が業を悔いて、我を失くしよった。その千蔵を、この手で殺した」
「悲しい話やなぁ。あの千蔵でさえ我が子は愛し、か。忍には向かんなぁ。そんであの出来損ないが跡継ぎになったんか」
悲しいそぶりなど微塵も見せず、あっけらかんと善助は言い放つ。対して久蔵は渋面である。千蔵を殺すことは、岩室の息の根を絶つことと同義である。久蔵は、それを成したのだ。久蔵は父であるよりも、甲賀の大家たる岩室の長だった。
「弟が良うできたさかい、誰も半兵衛に求めんかった。せやけど九兵衛と千蔵が死んだ今、岩室の本家を継げるんはあいつしかおらんのや。あいつはあいつなりに必死よ。自分より優秀な弟と父親の尻拭いをせんならん。可哀相な子や」
半兵衛が甲賀者として手遅れであることなど、百も承知だった。引退したはずの久蔵がここにいるのも、そうした理由からである。半兵衛の他人を見下した態度は、一種の自己防衛なのだ。あれが精一杯の虚勢なのである。だがそんなことは善助にはどうでもいい。
笠を打つ雨が次第に強まる。けぶる景色を見ながら、善助は呟いた。
「まぁ真折に針の一本でも打たれたら、多少ましになれるんちゃうか」
善助は、半兵衛が生きて戻るとは思っていなかった。

見通しの悪い上り道に差し掛かり、静四郎はより一層神経を尖らせた。薬箱を背負い、商人を装った佑作もぴくりと反応している。背の高い木々の間、殺気が向けられている。
「山賊、か?」
訝る静四郎の言も、致し方なかった。
土山宿に向けて進んでいた杉谷衆第四隊は、一見してただの行商集団である。陽心が担いだ石火矢は束ねた竹材に偽され、紗弓馬は蓑を被り足を晒した馬借姿である。その行商に、わざわざこうもあからさまに殺気を現にするのは、甲賀者の仕業とはにわかに考え難い。敵は佑作を凌ぐ忍なのだ。隠密業が熟せないはずがない。
「まさか。ここは山中家の手の内やぞ。山賊なんか居るん――」
佑作の返答が途切れた。薬箱を背中から落とし、懐に利き手を突っ込む。左近が笠の陰から周囲を見渡す。磐音が兄の袈裟に手をかけ、短筒を受け取った。
「来よるぞ!」
佑作の警告と同時、横合いを急襲したのは藍装束を纏った若い男だった。見るからに甲賀者である。振りかぶった刀の下には、藤兵衛の小柄な身体。
「爺さまぁっ!」
磐音の悲鳴が空を裂く。しかし藤兵衛は動かなかった。その様は、死以外の何かを待っているかのようだった。
ダァン!
藤兵衛目掛けて刀を下ろそうとした藍装束の上腕を、一条の鉛が貫いた。周五郎の射撃である。周五郎は気づいていた。藤兵衛の、自らを囮にし敵を撃つという奇策。そして周五郎の反応は、第四隊に長くあってこそ当然のものだった。しかしその口からは舌打ちが零れる。周五郎は本当は頭を狙っていたのだ。一撃で仕留めるつもりで、藤兵衛に示し合わせたのである。
ガァン!
怯んだ忍に追い撃ちをかけた轟音。鉄砲より雨に弱いはずの、陽心の石火矢だった。油紙に包まれた銃身が、山にこだまする咆哮を上げた。石火矢の扱いに関して、第一隊副頭の右に出るものはない。曖昧に見せたのは、陽心の一流の偽称である。たとえ雨天であろうと関係はないのだ。
「仕留めた!?」
「いや、」
磐音の叫びに陽心は苦い顔をし、弾込めを始めた。別の藍装束が、腕を撃たれた甲賀者を掠ったのだ。
「ちぃっ!」
舌を打った紗弓馬が手槍を手にした。馬に負わせた荷駄を外し、鞍もない裸馬に飛び乗る。
「紗弓馬!やめい!」
気づいた静四郎が制止するが、それすら聞こえていたかどうかわからない。馬に鞭を当てた紗弓馬は急斜面を駆け登る。藍装束が樹上を飛んだ。
「あんの阿呆が!佑作!」
佑作を呼んだ左近が咄嗟に墨染を脱ぎ落とし、藍装束になった。後を追うべく斜面を蹴る。
「兄さん!」
「残れ!」
磐音に言い残し、左近と佑作は瞬く間に緑に紛れた。

ひっ、ひっ、と攣ったような声を上げる半兵衛を一瞥し、真折は密かに嘆息した。邪魔ならば殺すと久蔵には許可を取った。まんまと罠師に飛び掛かった瞬間、針を打ってやろうかと思ったが、真折はそれをしなかった。
「足引っ張んなて言うたはずやぞ」
「知るか!だいたいお前が止めへんかったら、爺の首の一つや二つ取れたったわ!」
減らず口を叩く余力があるのかと改めて嘆息し、真折は足を止めた。
「次に俺の邪魔したら殺すさかいな。気ぃつけや」
規則正しい馬足が聞こえていた。半兵衛は気づいていなかったが、追っ手がいる。加藤紗弓馬。結崎留三郎の首を奪った男。真折の唇が吊り上がる。予定は狂ったが、紗弓馬が一人で追ってくるのならば好都合だ。ゆらりと立ち上がった真折の殺気はしかし、半兵衛が察知するよりも早く隠された。首を傾げる半兵衛を置き去りに、真折はもと来た道を逆走し始める。
結崎留三郎信臣の首を奪った――織江信雪の目の前で。それが信雪に何を齎したのか、真折にはわかっていた。ならば加藤紗弓馬の首を奪ってお目にかけよう。それであの方の悲しみは、少しでも埋まるだろうか。


半兵衛は可哀相な子。今のところ、ただの阿呆である。真折もそれをわかっているので、殺さなかった。よかったね。
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二ツ鳴り8

プロット無しで長編を書こうという無謀な取り組み。頭が悪いのは承知している。


衝撃の一日を過ぎ、翌日は明け方から雨が降っていた。
「止まんなぁ」
滝のような、という訳ではないが、いつまでもしとしとと鬱陶しい雨だ。
雨は杉谷衆の敵である。火薬が湿れば鉄砲が撃てない。ゆえに雨が降っている間は、どうしても隊の動きが鈍くなるのだ。
「仕掛けるんやったら、今やな。儂が敵やったら大概そうする」
軒から空を覗いていた藤兵衛が、にやりと笑った。
荒れた古寺で、杉谷衆第四隊は夜を明かした。左近と磐音の育った寺である。住職が亡くなり、磐音が杉谷に身を寄せたことで、寺を保つ人間がいなくなったのだ。薄暗い本堂の中、車座で有り合わせの朝飯を突くのは七人だけだった。
「今まで雨の戦なんぞ見せてへんからな」
白湯を啜った藤兵衛は、抜け落ちた歯を見せて笑う。
己らの力が弱まる雨天時の戦い方を知らずして、鉄砲衆など名乗れない。そして如何なる状況でも火術を用いて敵を砕くのは、甲賀者としての杉谷の矜持でもあった。今までそれが知られなかったのは、単に機会がなかっただけである。
すなわち、雨が降ろうが杉谷の鉄砲は火を放つ。多少動きが鈍ろうとも、杉谷衆が天候に負けるなどありえないのだ。
「えらい血の気が多いな爺さま」
含み笑いと共に戸を開けたのは墨染を纏い、笠を被った僧侶である。昨晩から偵察に出ていた左近が帰還したのだ。ぽたぽたと滴を落とす様を見、磐音が着替えを取りに走る。笠を脱ぎ、髪を覆った晒しを解きながら、左近は静四郎を見る。
「東海道に出るつもりやな。東海道を辿って、尾張へ帰るつもりや。連中が馬杉を発ったのは昨日らしい。俺らの襲撃の後、休まんと動いてたら今頃は土山に着くか…着かんな。慣れん山道なんか、馬ではそうそう進めへんわ」
「若頭」
左近の報告を遮ったのは紗弓馬である。高く結った髪を揺らし、静四郎を見る。
紗弓馬は杉谷に駆け戻ったあの日以来、具足を脱いでいなかった。騎馬鉄砲ゆえの当世具足は、杉谷衆の中でも紗弓馬しか着ていない。それを脱がないのは、紗弓馬の心が未だ戦の中にあるがゆえだ。そして現に、激戦だった。
「頼む」
紗弓馬は静四郎の正面に座り、両膝に拳をつけ、頭を深く垂れた。
「先の戦、織江信雪の首を奪れんかったんは俺の失態や。影武者に気づかんかった俺が悪い」
「紗弓馬」
「やから次は俺を先駆けにしてくれ。次は違えへん…あいつの兄貴と、並べて晒したる」
「逸るな阿呆」
身を乗り出して訴える紗弓馬に、厳しい声をかけたのは、名を呼んだ静四郎ではなく佑作だ。
「お前一人の戦と違うねんぞ。もうちっと考えてもの言え」
「俺もそう思う」
佑作に声を添えたのは左近である。
「こっちは八人しかおらへん。一人が無茶苦茶したらあかんわ」
ぐっと紗弓馬の眉間が寄った。だん、と床を殴って呻く。
「ほなどうせぇて言うねや!一人で隊を逃がされて、のうのうと存えたんや…俺は第二隊の皆にどうして報いたらええねん!」
ぎしり、と紗弓馬の具足が軋んだ。
「落ち着け紗弓馬」
声をかけたのは周五郎だった。腕を組み、壁際に腰を下ろした老練なる鉄砲撃ちは、静かに諭す。
「第二隊の若頭は、考えがあってお前を帰したんや。お前は綾二郎さんの信頼に、犬死にで応えるんか。違うやろう。第四隊は、杉谷衆のかつての姿や。第四隊に与せよと言うてはんのや。それに応えて見せんかい紗弓馬。第四隊の加藤紗弓馬として働いてみぃ」
容久直下の鉄砲撃ちとして働いていた頃から、周五郎は第四隊に属していた。杉谷衆の最初からを知っている男だ。滅多に口を開かぬ周五郎の、その言葉が紗弓馬を圧倒する。
「焦って仕掛けたら負けや。甲賀者の戦い方ぐらい知ってるやろう。己の手の内に引き込んで仕留めるのは定石やで」
そう言う藤兵衛自身が罠師である。地の利を利用するのは初歩の初歩だ。
「待たなあかん。紗弓馬、急いたらあかん。長丁場やねや」
「まぁな、爺さま。言うても、さして時間はかからんやろ」
藤兵衛に同意しながらも、にやりと唇を歪めたのは、左近である。藍色の装束に着替えを終え、髪を結わえると、どかりと腰を下ろして輪に加わる。
「爺さまの言うたとおりや。俺でも今を狙うぞ。雨が止まへん、火薬の扱いが難しいなる今をな」
口を閉ざしていた静四郎が面を上げる。
「出迎えの、準備をせやなあかんな」
その声を合図に、ゆらりと殺気が立ち上る。
「土山に向かおう。移動してるとこを狙うのが定石や。その半ばで、仕掛けてくれたら上々やろう。山中さん、それ使えそうか?」
静四郎の尋ねるそれ、とは陽心の最も得意とする武器、石火矢である。朝からずっと陽心は口も開かず石火矢の整備に勤しんでいた。静四郎の問いに陽心はしかし曖昧に首を振る。
「まぁ、下手は撃たへんようにするわ」
それに対し、静四郎ははっきりとした頷きを返す。
「半刻したら発つ。ええな」
指示を出す姿はまだ板に付かない。だが杉谷衆の頭は静四郎一人しか残っていないのだ。全員が応と返す。その度に静四郎は、人知れず、己が過っているという疑念に捕われていった。



静四郎の違和感と、死闘の幕開け。
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二ツ鳴り7

区切りがいいので放り込んでみる。



「織江さまもまった、えろう物騒な面子を揃えはったなぁ」
しわがれた声に、藍装束を纏った二人が振り向いた。
一人は黒く硬質な髪を頭の形に添って削いだ、痩身の男。多喜家の善助である。薄い唇に軽薄な笑みを宿した、それは善助の常の態だった。もう一人は佐治真折。男装を解いた真折は、長い髪に豊かな肢体を持つ女である。
二人とも動じていないのは、声の主の存在を感知していたからだ。真折は袖口に引っ込めた手を戻し、善助は珍しく快活に笑って名を呼んだ。
「岩室の久蔵か!」
姿を見せた岩室久蔵は、痩せた老人である。二人と同じような藍装束に身を包んでいるにも関わらず、筋肉が少ないため、ただの百姓にも見えない。前歯の少ない口元をしょぼつかせ、久蔵は名を確認する。
「多喜の善助に、その髪色は佐治のもんやな」
久蔵の視線の先で、善助に劣らぬ身長を持った女が顎を引く。
「佐治家の真折や」
善助が言い、久蔵が目を細める。久蔵が目に留めたのは男結びに結われた真折の長い髪である。色が脱けて琥珀色になった髪は女ならば恥じるべきもの。しかし久蔵は称賛を以てその髪を見た。
「岩室が出てくるとは思わへんたな。よう引き受けた」
「なぁに、甲賀の家はどこも生き残りに必死よ。岩室は織江さまを見込んだ。それだけや」
善助に向かって呵々と笑った久蔵はしかし、その目まで笑ませてはいない。
岩室は用兵術に長け、技術よりも頭脳と戦法戦術を売る。甲賀者の少数撹乱戦術の根幹を担う家である。また情報戦にも強く、常に先手を打つために鍛えられた諜報技術を持つ。個人戦闘に特化した善助と暗殺術に特化した真折からすれば、この上ない加勢だった。
「久蔵」
今の今まで口を閉ざしていた真折が、静かに久蔵を呼んだ。
「あんたが連れてきた、もう一人は何者や」
低い声は警戒している訳ではない。ただ訝っているだけだ。善助が冷笑を浮かべた。久蔵が連れてきたもう一人は、明らかに気配を絶つのが下手だった。久蔵のように、意図的に気配を現にしている様子もない。
「ほれ見ぃ半兵衛。隠れても無駄や」
呆れたような久蔵の声に、ふて腐れた顔で現れたのは二十歳手前の青年である。
「千蔵の息子や」
溜息を一つ吐いた久蔵は厳しい顔で告げた。
岩室千蔵とは、久蔵の息子にして岩室にその人ありと知られる策士である。つまり半兵衛は久蔵の孫に当たる。
「何で千蔵やないんや」
眉を上げ、不思議そうに尋ねた善助を久蔵は無視した。半兵衛は均整の取れた四肢と端正な容貌を持ち、加えて若い。先は有望かもしれないが、現段階での未熟さはどうしようもない。佑作がそうであるように、この歳ならば既にあらかたの経験を積み、一人前になっているはずである。善助の感覚では、甲賀に忍として生きる者としての半兵衛は、手遅れと言えるほど遅れていた。しかしそんなことは意に介さず、半兵衛は善助と真折を一瞥し、鼻で笑った。
「何や。織江さまも見る目ないな。年増の醜女に、若造りの優男か」
何が面白かったのか、そのままけらけらと笑い続けている。善助は静かに唇に笑みを刻んだ。真折はすっと目を細める。そして久蔵は頭を抱えた。
「岩室の血は、千蔵までで絶えたらしいな」
真折の呟きに、半兵衛が気色ばむ。
「何やと?」
足音も荒く真折に歩み寄り、その鳶色の瞳を睨んだ。
「もういっぺん言うてみぃや、女忍が生意気に!お前みたいに年食った女忍が現役やから、佐治は五十三家中でも名が上がらへんねや」
そう言われても、真折は反応しない。呆れたように目を閉じた真折に、半兵衛は激昂した。その手が真折の肩を掴んだ瞬間、久蔵の叱咤が飛んだ。
「止めい半兵衛。死にたいんか」
渋々といった体で半兵衛が手を離すと、真折は袖に引っ込めていた手を元に戻した。
「若いなぁ。佐治家の真折に、いきなり掴みかかる勇気は俺にはないわ」
善助が鼻で笑い、半兵衛は唇を結んだまま顔を背けた。
「で、どうすんねん」
真折が話を戻し、久蔵に目線を遣った。
「そうやなぁ、もう少し待つか」
空を仰いで、久蔵は唇をすぼめる。
「じきに雨が来るさかい、そのときを狙う。最初に殺すんやったら、あいつやな」
善助が、唇に笑みを乗せて相槌を打つ。
「そうやな。足場を崩して、引きずり落として…真折、お前が行きぃ。結崎さまの首を奪って行きよったのは、あいつ――日野の、加藤紗弓馬や」




役者が揃った。
二ツ鳴り / comments(0) / - / 伝埜 潤 /