那由多の果て

伝埜 潤の遺産。主に日々の連れ連れ。

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白肋の記憶9

まだ終わらなかったらしい。


「さぁ。本当の『篩』はここからだぞ」
沈痛な面持ちで、ヴァイクは指を引いた。一斉にその指を離れる鋼の糸。それが抑え込んでいたのは。

ミハイルがただ一人、集団に背を向ける。その背中にバレンシアが噛みつく前に、リチャードが全体に撤退を促した。片腕を折られ、出血の跡が背中に散るエレジアは唇を噛み締めたまま、アルケイドは意識を取り戻さない。
第四学年で経験する個人実習で、最優秀の成績を修めたのはミハイルだった。全員が負傷し、最悪は退学を余儀なくされる実習で、ミハイルはただ一人かすり傷のみで帰還した。ゆえにリチャードは知っていた。ミハイルは普段のスリーマンセルよりも、単独で挑むときこそ力を発揮する。
「とはいえ、必死だな」
小さく唇を歪め、ミハイルはクレイモアを収めた。代わりに右腰に携えていたマインゴーシュを抜く。持ってきていてよかった。ぎざぎざと切り込みの入った分厚い刃を、ミハイルはす、と地に向けて構えた。
ずず、と巨体が動く気配があった。もはや任務は失敗、黒竜を殺すことは到底敵わない。ミハイルはざり、と土を均した。
「まずは挨拶、といくか」
挑発、そして黒竜の意識を、完全に自分に向けさせなければならない。ミハイルはリチャードの先導する集団の気配を感じながら、音を立てずに走り出した。酸に触れて蒸気を上げる土を蹴り、今まで相対していた幼体の鼻面をマインゴーシュで殴り付ける。くわっと開かれた顎、本来なら回避に入るところだ。だがミハイルは鼻面に足をかけ、ブーツが蒸気を上げて溶け出すのも構わず顎の内側にマインゴーシュを突っ込んだ。
ばきんと、硬い音と共に白い破片が散る。折り取られた黒竜の牙だ。ミハイルのマインゴーシュ――ソードブレイカーはひたすらそのために、竜の牙をへし折り無力化するために使われる。 黒竜は首を振ってミハイルを弾き飛ばそうとした。だが、マインゴーシュは次の牙に掛かっている。
「そうだ此方だ」
ミハイルは折れた牙を放り捨て、着地した位置から動かない。黒竜の首が完全にミハイルだけを見た。ミハイルが笑う。そうだ、此方だ。此方だけ見ていろ。貴様の背後に何もなくなるまで。
竜が持つ平均四本の大牙の内、上顎二本がミハイルに折られている。だが無力化するには程遠い。ミハイルとて、端からそのつもりはなかった。ただ、注意を完全にミハイル一人に惹き付けることができればいいのだ。リチャードなら誤らずに逃げ切る。その確信がミハイルをここに縫い付ける。準長寿竜とて、一人では身に余る。ある程度は時間を凌ぎ、後は己が退き時を見誤らなければそれでいい――王水の吐息を避け、ミハイルは極めて冷徹に機会を窺っていた。
筈だった。
ミハイルの首筋が総毛立つ。反射的にその場を飛び退き、黒竜の背後へ走る。一瞬前までミハイルが立っていた場所を、全く別の方向から灼熱の王水が舐めていった。焼け爛れた土がしゅうしゅうと煙を、或いは火を上げている。それをミハイルは見ていなかった。そんな余裕などなかった。
「思ったより早かったな」
退き時を自分で選択できなかった以上、無傷で逃げ切るのは難しい。或いは、ミハイルの想定する最悪ならば。
「リチャード」
苦々しげに呟き、ミハイルは逃走を開始した。背後で、二対の黄色い眼が瞬いていた。
「なるべく先に行っていろ、リチャード…!」
その期待が破られることを知らないまま、ミハイルは走っていた。

「いい加減にしろ!」
怒声に、バレンシアはぎりぎりと歯噛みした。ミカを担いだリチャードに食ってかかるのは、学年長を務める『刃』寮のオズワルド・ウィンスレイだ。撤退したはずの十五人の足は、完全に止まっていた。
「今戻っても無駄だ。僕らの手には負えない。ミハイルだって機を見て戻ってくる。僕らに今できることはこれ以上の負傷者を出さずに帰還することだ!」
「ふざけるな!それでは先輩方に合わせる顔がないだろう!負傷者と言っても、戦闘不能クラスはフェリスとヴァリアツィオーニ、バーテライネンくらいだ。他はまだやれる」
リチャードが、どんな思いでミハイルをあの場に置いての撤退を宣言したのか、わからないほどの愚図かお前は。
バレンシアはエレジアを抱えたまま、低い唸りを上げた。リチャードは非情な決断を下せる、だがそれはリチャードが冷たいからではない。
「黙っていろよ、グラーチア…リチャードなら上手く捌く。下手に口を出して拗れたら厄介だ」
エレジアが囁く。だがその瞳には、バレンシアと同じ苛立ちがある。常のエレジアならとうに星を投げているはずだ。だがエレジアの、そのための腕は肘から折れている。関節を巻き込んだ酷い骨折だった。
オズワルド・ウィンスレイは名家の出身だ。それこそレコンキスタの伝統を背負うバレンシアと同等のストレスを抱えた、云わば同類である。また、リチャード・パーシヴァルも同じだ。だがその鬱屈には、三者三様の違いがあった。
「パラスケ!」
ウィンスレイの声に、アルケイドを背負ったままユハはゆっくりと瞬きした。
「俺と来い。戻って戦闘を再開する」
「オズワルド!頭を冷やせ!」
鞭のようなリチャードの叱責に、ウィンスレイは怯まなかった。
「な、にを、している」
呆然とした声がかけられたのは、そのときだった。
「ミーヒャ、無事で」
「早くここから離れろ!」
ミハイルだった。エレジアの声を遮り、普段の沈着さをかなぐり捨て、怒気に満ちた低い声が告げた。
「俺を追って、黒竜が二体、さっきの準長寿竜と新手の長寿竜が来る。死にたくなければ走れ」


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白肋の記憶8 アスカロン番外

久々にアスカロン。ミハイルとリチャードのための。



鈍い地鳴りが腹に響いた。
「…っ!?」
最初に気づいたのはリチャードだった。翠眼を見開き辺りを見回すも、剣呑な状況は変わらない。リチャードの腕の中ではミカが昏倒し、背後では同級生が右往左往している。エレジアと寄り添うように立ったバレンシアが、射るような視線でこちらを見る。
「全員、動けない奴を抱えて走れ」
リチャードの地を這うような声に、ウィンスレイが目を剥いた。
「はぁ!?」
「全員逃げるぞ。何か来る。グラーチア動けるか。エレジアを。ミーヒャはアルケイドを頼む。ウィンスレイ、動ける奴らを連れて先に行け。先導を頼む。学園までの道を拓け」
言いながら、己はミカの長身を背に負う。
「リチャード。防ぎきれないかもしれない」
「構わない、いや防ぐな、受ければ君が死ぬ」
ユハが指を組みながら告げ、リチャードがそれを制する。
「り、チャー、ド」
呻く声は背に負われたミカだ。囁くその声を、眉間に皺を刻みながら聞いたリチャードは表情をさらに険しいものに変える。
「今ここで、長寿竜に出てこられたらどうなる、ウィンスレイ」
戸惑うウィンスレイにリチャードは強く畳みかける。
「長寿竜だと!?何を根拠に、」
「ミカが見た。それで十分だろう。聞いたな、ミーヒャ。事情が変わった。アルケイドをパラスケに。頼む。死ぬなよ」
リチャードの硬質な声音に、ミハイルは小さく唇を歪めた。
「鋭意、努力する」
「…冗談で言っている訳じゃないからな。生きて戻れ」
リチャードの指揮官としての能力は、最早疑いようがない。状況判断の的確さ、加えて現時点での最良策を選ぶ判断の速さ、そしてそれを選んだ後の実行に移る非情さ。そのリチャードがミハイルに命じたのは、殿だった。 黒竜が、ミカの眼を信じるならば二体。それも、内一体は長寿竜。必死の殿になる。こちらから仕掛けず、ひたすら冷静に凌ぎ続けられるのは――粘り強く耐えられるのは、ミハイル・グレンドルフしかいない。リチャードはそう判断した。
「わかっている。だが、俺を買い被るなよリチャード」
「すまない。だけど今の状況では、君しか、僕には考えられない」
リチャードの翠眼に灯る悲痛は、最悪を覚悟している証だ。ミハイルは年下の同級生の頭に掌を置き、宥めるように掻き回した。
「退却に専念しろ。お前が導け」
言い置いてミハイルは踵を反した。
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白肋の記憶7 アスカロン番外

続きです。まだ続きます。



退避の言葉に、バレンシアは従わなかった。黒竜の吐息は拡散する。だがユハの結界からその吐息を逸らすためには、逃げてはならなかった。
――あいつの、盾
その妄執とも言うべき信念が、バレンシアに退くことを躊躇わせた。立ち込める酸の蒸気を切り裂き払いながら、バレンシアは地を蹴る。
同じ長柄の大物武器を扱いながら、エレジアが地に足をしっかりと突き立てて戦闘に挑むのに対し、バレンシアは遠心力を利用して空を跳ぶ。レコンキスタの使い方としては少々異質だ。ぎゃん、と硬質な音がしてレコンキスタの刃が竜の首を抱え込む。下方から無理矢理その顎を閉じさせ、バレンシアは全体重を掛けてレコンキスタの長柄を引いた。黒竜とはいえ準長寿竜――言うなれば幼体である。バレンシア一人でも、首を捻ることは可能だった。
逆流する王水に、竜自身がむせ返る。ぎらりと黄色い目がバレンシアを捉えた。
「睨んだって放してやるかよ!」
叫ぶバレンシアを振り落とし、黒竜が正面を向けた。バレンシアは内心で笑う。これで黒竜はユハに背を向けた。
「さぁ来い!」
バレンシアが咆える。その身体が大鎌を携え、不敵に背中を伸ばした。相対して黒竜は翼を畳む。黒竜は這竜の仲間だ。ゆえに飛ばない。リーチの限られるバレンシアにとっては好都合だった。次は突進が来る。それを掴めれば――
「死にたいのか阿呆!」
怒声と共に強く上腕を掴まれる。そのまま、肩が脱けるような衝撃と痛みを伴い、その場から強制的に離脱させられる。突進する黒い塊が目標を失って勢いを弱めた。
「準長寿竜とはいえ、黒竜の突進をまともに受ければ無事では済まん」
バレンシアを引きずって疾走するのはミハイルだ。ある程度距離を置いたところでバレンシアを投げ出し、仁王立ちする。
「お前は前衛を勘違いしている」
言い捨てて踵を反したミハイルは、もうそこにない。アルケイドの身体が回転し、叩きつけられた足の脛が片方の翼をへし折る。振り向く鼻先。アルケイドは宙空でにやりと唇を歪めた。
「こっちも相手してくれよ!」
ミカの嗜虐的な声に連られ、殺到する銀の蛇。黄色い眼球に突き立ち、開こうとする顎に纏い付く。動きを鈍らせた巨体に降り注ぐ青い火の粉。黒竜の鱗を舐めるようにリチャードの鬼火が勢いを強めた。黒竜の体表面は灼熱だ。だがリチャードの思念の炎がそれを相殺する。次の矢をつがえながらリチャードが怒鳴る。
「ミーヒャ!」
顎の下、一カ所だけ鱗が薄い。それを狙ってミハイルが走る。暴れる黒竜の四肢をかい潜り、ただ一振りの刃を携え。
「前衛は盾であり、刃だ」
愕然と座り込んだバレンシアの傍らにアルケイドが立つ。
「僕たちは後衛を守る盾じゃない。後衛の攻撃を補佐し、時間を稼ぐ。それは間違いじゃない。だけど僕たちは剣だ。僕たち自身が、攻撃の要でもある。それに、」
アルケイドの黒い瞳が、責めるようにバレンシアを射貫く。
「君の行動は、アスカロンとしてのユハを侮辱している」
バレンシアのベリルの瞳が、烈火の如く煌めいた。その視線を受けるアルケイドの黒瞳は凪いでいる。
「君は結界士であるユハが、竜殺士として在る方法を否定したんだ。これが侮辱でなくて何だい?――まぁ、だけど」
言い置いて、アルケイドは背を向けた。
「盾であり剣たることを忘れた同胞よりは、数段マシかな」
凪いだ黒瞳に煌めいたのは、酷く苦々しい感情だった。

戦闘の中心からやや離れた場所で、指の間にピアノ線を張ったヴァイクがぴくりと眉を上げた。
「なかなかいい動きができてるんだがな、効果的な攻撃はまだないか」
腕を組んで呟くのはツァーだ。視線の先では、ミハイルが酸の吐息に肌を焦がしている。顎を抑えていた銀の拘束が解けていた。膝をついたミカが、鼻腔から垂れた血を拭う。
「(離れろミーヒャぁっ!)」
エレジアの警告が遅れ、白煙と共にミハイルの端正な顔が歪む。ミカに気を取られたリチャードが矢を放つタイミングを逸した。黒竜の体温を相殺していた青炎が止み、ミハイルの皮膚が爛れ、野戦服の片袖がずるりと垂れ下がる。足を止められたミハイルの背後からアルケイドが跳躍、だが死角から振り下ろされた尾に脇を捕えられ、地に転がった。
「できているのは一握りだろ。あの学年はたったの七人か?」
顔をしかめるのはエセンだ。四年生は全員で十六人だ。内、半分しか動けていない。学年長のウィンスレイはまともな指示が出せず、後衛の中で戦術眼に優れるのはリチャードだが、その指示を聞くのは一握りだ。
「(エレジア!アルケイドを!)」
「(どうした!?)」
リチャードが叫ぶ。黒竜の尾にに叩き落とされたアルケイドはそのまま動かない。恐らく脳震盪だ。咄嗟にそれを庇ったエレジアは、不自然な姿勢でモーニングスターを投げた。だが一撃必殺の星を避けられれば、エレジアはその瞬間無防備になる。
――血飛沫。
「ヴァリアツィオーニが負傷したかい」
目を伏せていたヴァイクが静かに尋ね、エセンが目を凝らした。
「…いや、あれは」
エセンが呟く。
「まずいな。グラーチアがヴァリアツィオーニを庇って、まとめて負傷した。グラーチアは左腕から背中を裂かれた。ヴァリアツィオーニは左腕…肘が逆方向に向いている」
ツァーが低く呻いた。
「おいおい…何をやってる。そいつはまだ、本当の『篩』ですらないんだぞ…?」
苛々と牙を鳴らす皇帝に、エセンは苦笑いする。
「まぁな。だがお荷物を抱えて七人で、というのは中々に難しかろ。あれで、司令塔としてのリチャードと後衛としてのミカ…あとはあの子、パラスケがまともに機能すれば、もう少し楽なはずなんだが」
鼻を押さえたままのミカがなおも鋼を操り、幾多の穂先を空に浮かべる。それを見たリチャードが制止の声を上げる。
「(ミカ止めろ!)」
伸ばす手がその肩を掴む前に、ミカは銀の蛇を放っていた。バレンシアとエレジアの前にいる竜に殺到したそれは、急激に勢いを失くして地に落ちる。
「(…っ、が…!)」
ミカの眼窩と鼻腔から噴き出した血が、霧のように宙に散る。痙攣し昏倒するミカを抱き寄せ、リチャードは唇を噛み切る。
「どんな状況だ?」
不意にツァーとエセンに背後から尋ねたのは、いつの間にか姿を眩ませていたナーディル・サフィエだ。だがその姿は異様である。血刀を携え、頬に飛んだ返り血を拭っている。既に何らかの戦闘をこなしてきた様子だった。
「良くないね。噛み合わない。前も後ろも、全体の連携も」
「それを明らかにし、適性を欠く者をふるい落とす。それが目的だろうが」
エセンの辛辣な評価にも冷徹に目を細めるナーディルだが、ツァーはさらに首を振った。
「に、しても酷い。今の五年だって、これよりはマシだったかもしれん」
それを眺め、ヴァイクは『篩』へと後輩を突き落とすべく指を伸ばした。
「もういいだろう。これ以上、幾らやっても同じだ」
残酷とも言えるこの言葉は、自分たちにもかけられていたのだろうか。
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白肋の記憶6 アスカロン番外

番外のはずが、こんなに長引いてどうする。端的に纏められる筆力が欲しい。



第四学年全員での演習が組まれたのは、冬に向かう間際の肌寒い頃だった。相手は準長寿竜、サポートには第六学年から四人が充てられることが知らされた。
リチャードは硬い表情を崩さない。危機感が焦燥に変わり、心拍を上げる。同じ表情をしているのは『刃』寮のミハイルだった。
これは、篩だ。
この先を、竜殺士として生きていくための――或いは生きていかないための、篩だ。つまり、相手は自分たちの手に余る。そのことに気づいている生徒はいる。だが、気がつかない者も多い。
「全員で行え、という意味はわかるな?それだけ危険だ。俺たちもフォローには入るが、くれぐれも気をつけろ。そして――お前たちの真価を見せろ」
告げるのは、『刃』寮寮長のツァー・チェザリーニ。皇帝の異名を持つ長大な戦斧の使い手は、榛色の瞳に期待を込めて告げた。随伴する六年生はツァーに加え、同じく『刃』寮のナーディル・サフィエ、『弦』寮寮長ヴァイク・ラースロー、『杖』寮のエセン・バルトード。
今年度の六年生は豊作だと言われている。ヴァイクはピアノ線を使う。ナーディルは湾刀、エセンは飛雷針とあだ名を貰う雷撃使いである。この他、『杖』寮寮長に当麻師の先祖帰りのオーガスタス・ノヴァ、『弦』寮に狙撃手のマクシミリアン・クリューガー、同じく『弦』寮に腐毒師のハル・コーディアルがいる。
「さて、何人残るかねぇ…ディル、お前はどう見る?」
ツァーの問いに、ナーディルは淡々と答えた。
「『刃』ならフェリス、グレンドルフ、ヴァリアツィオーニは確実に残るだろう。後は期待できないな」
小アジア出身のエキゾチックな横顔は揺るがない。シビアな意見に、ツァーは溜息を吐いた。
「おいおい、うちには第四学年の長もいるんだぜ?」
「ウィンスレイか?あれは無理だ。俺にはあいつが学年長である理由もわからんのだが。なぜパーシヴァルではなかったんだ?」
身も蓋もない言い方、とはこのことである。ツァーの溜息は止まらない。
「『杖』寮なら…オーガスタスはリチャードと、ミカを挙げていた。リチャードは家のことがあるから心配だったけど、今の様子なら大丈夫だろうね」
エセンは切れ長の漆黒を笑ませて言う。編まれた黒髪を揺らし、後輩を見る目には信頼が滲む。
「『弦』、は…」
言葉を濁したのはヴァイクである。
「最悪、誰も残らないかもしれない」
革の指貫きを嵌めていない左手が、栗色の髪をぐしゃりと掴む。
「お前、パラスケに目をかけていただろう?あの子はどうした?」
エセンの問いにゆるゆると首を振ったヴァイクは、煙水晶の瞳に苦悩を浮かべていた。
「力量も適性も、ユハは抜群だよ…でも、あの子はこれ以上ここにいたら、潰れてしまう」
この半年、ヴァイクは寮長としてユハに対する迫害を止めようとしてきた。己とマクシミリアン、ハルの協力も得て圧力をかけ、目を光らせてきた。だがユハは追い詰められていたし、状況は変わらなかった。ユハは有望な生徒である。数少ない竜殺士候補者、そして慈しむべき後輩として、ヴァイクはユハを守りたかった。
「僕の力不足だ…僕がもう少し、ちゃんと」
「言っても始まらん。パラスケが残るにせよ、去るにせよ、お前の責任ではない」
ヴァイクの告解を遮ったのはナーディルだ。うねる黒髪に隠された表情はわからないが、恐らく、常の如く険戒なままだろう。
「でも、」
「いいかヴァイク。とやかく言っている時間は終わった。選ぶのは俺たちではない。パラスケだ」
俺がここにいるように。
ぎしりとナーディルの両腕が軋む。ヴァイクは一瞬目を見開き、力無く笑った。
「そうか…そうだったね」
「あのとき、選んだのは俺だった。お前じゃない」
『切り落とせ、ヴァイク』
二年前、ナーディルの両腕を切り落としたのはヴァイクだった。だが決断したのはナーディル本人だった。その身体でなお、アスカロンに残ると決めたのも、ナーディル本人だ。
「そう、だったね…忘れていた」
ヴァイクは自嘲するように笑み、顔を上げた。
「そういえば、この前の演習で面白いものを見たな」
ふと、エセンが振り返る。薄い唇は弧を描いて、決して悲壮な話ではないことを伺わせた。
「この前と言うと…『爪』『尾』の合同か?」
「あぁ。六年は、私とハルとマックスだ。前衛は五年のラウ、それから四年のグラーチア。『あの』シンリック・ラウが、己と対等に並ばせる前衛など…私は久しぶりに見た気がするよ」
ツァーの問いに、エセンはどこか軽やかに笑った。

相手は黒竜だった。しゅうしゅうと蒸気が上がる王水の息吹、高温を噴き出す鱗――だが、ぎらぎらと光る黄色い瞳に落ちた影は、畏れなど見せなかった。
無言で走る一陣の突風はミハイルである。その背を追い越していく刺付き鉄球、そして鋼の奔流。
ぎゃりりりりぃっ!
ミカの操る硬質の蛇が黒い鱗を削り取る。こちらを向いた黒竜の、開こうとする顎を撃ち抜くエレジアの星。走るミハイルの背中を蹴り、跳躍するアルケイド。その身体が空で反転、無防備に伸ばされた首にまともに打撃が入る。鈍い音はしかし、骨にまで届いていない。全く同じ場所を狙って、ミハイルが刃を撃ち込む。ミカの鋼が振り返り、殺到する。それを追って飛ぶのはリチャードの弾丸だ。鋼鎗が削った傷口に潜り込み、燃え上がる。青い炎が黒い鱗を染め上げる。暴れ、首を振る黒竜。その口から王水の息吹がほとばしる前に、エレジアの鎖がその顎を締め上げ、ミカの鋼鎗がその上を戒める。だが保たない。エレジアの足が浮き、跳ね飛ばされて呻く。「ぐっ、ぅう」
ミカのこめかみに青く血管が浮いた。だが竜の顎は止められない。
「退避!」
ウィンスレイの指示に前衛が退る。途端、辺りに酸の蒸気が立ち込めた。
「退がって!」
ユハが叫び、指を組む。空間が遮断され、戻ってきた前衛が激しく咳き込んだ。
「ち、くしょ…!アル、ミーヒャ、出られるな!?」
黒竜の方を窺い、涙目を拭って言ったのはエレジアだ。刹那、身を翻す。
「待て!作戦を…!」
「そんなこと言ってる場合かい?リチャード、ミカを頼むね。余裕ができたら援護をよろしく」
ウィンスレイの怒鳴り声を軽くいなして、アルケイドはエレジアの後を追う。
「フェリスもか…!全く、お前ら連携を何だと」
「緊急だ。さっきまでの作戦では対応できない。指示を出すなら立て直せ」
ミハイルは野戦服の上に付けた肩甲を留め直し、剣の把を握る。
「バレンシア一人であの首は抑えられない。俺も出る」
言い置いて、ミハイルも走り出す。取り残された者の中で、ユハがぽつりと呟いた。
「バレンシア?」
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白肋の記憶5 アスカロン番外

アルケイドとの試合で前衛としての頭角を示したバレンシアは、今までから一躍、有望視され始めた。如何せん粗削りなバレンシアの近接戦闘の資質を鍛えたのは、『刃』寮のアルケイド、ミハイル、エレジアである。特にエレジアは、最初から剥き出しの敵意と闘志を持ってバレンシアの自主訓練に付き合った。
「全ての攻撃を受けようとするな!」
エレジアの怒号を無視し、バレンシアはレコンキスタを捌いた。轟音が響き、エレジアが苦い顔で腕を振るう。鉄球の勢いを殺す両足が砂を撒き上げる。飛来する鉄球をまともに打ち返したため、バレンシアの腕に重い痺れが残った。
「お前の反射なら、余裕で避けられただろうが…せめて受け流せ。それでは攻撃が続かない」
エレジアは苛々と、しかし的確にアドバイスを寄越す。そのエレジアに、バレンシアは内心で頭を下げた。そのアドバイスは聞けない。
バレンシアは今まで、一切の攻撃を避けていなかった。全てその腕で、身体で受け続けている。そのため野戦服はぼろぼろに、バレンシア自身の身体も――特に関節が悲鳴を上げている。
「頑なに攻撃を受けようとするね、バレンシアは」
バレンシアとエレジアの戦闘を眺めていたアルケイドがぽつりと零す。ミハイルはそれを横目で見遣り、何も言わずに視線を戻した。
「バレンシアのセンスと筋の良さならとっくに、避け方や流し方がわかっているはずなんだけどね」
響く金属音に、アルケイドは黒瞳を僅かにしかめた。
「確かに。あれでは腕を潰す。エレジアが攻撃しあぐねている」
「エレジア!代わろう、僕もやりたい」
ミハイルの指摘に、アルケイドは声を上げた。
棒術と体術のアルケイド、クレイモアによる高速の剣撃を得意とするミハイルが本気になれば、バレンシアもさすがに反応が遅れる。だがエレジアのようにタイムラグを伴う大技ばかりならば、バレンシアはかい潜ることができるはずなのだ。
「あいつは本物の馬鹿か。あれでは身体が保たないぞ」
汗を拭ったエレジアが悪態を吐く。
「俺やアルケイドより、お前との模擬戦闘が望みらしいな」
「あいつは壁になりたいんだとよ。そのために、重い攻撃を受ける癖をつけたいらしい」
ミハイルの言葉を受け、エレジアが吐き捨てた。ミハイルが眉を寄せ、小さく反芻した。
「壁、か」
「ところでお前、ユハ・パラスケはわかるか?」
不意に変わった話題にミハイルの秀麗な眉が跳ね上がる。一際鋭い打撃音が響き、バレンシアが呻く声が聞こえた。
「わかるが、それがどうした。アルケイドと同じ班だろう。俺よりあいつの方が良く知っているはずだ」
「…そうか」
ユハ・パラスケは現四年生の中では、傑出した後衛だと言われていた。言われてはいたが、班も寮も違うエレジアには今ひとつぴんとこない存在だ。そのユハに、バレンシアが並々ならぬ執着を持っていることに気がついたのは、ごく最近のことだった。
「私たちの与り知らぬところではあるが…そうも言っていられまい。ミーヒャ、そのユハ・パラスケは少々面倒な事態に追い込まれていないか?」
「…友人は少ないようだ――などと言って、終わらせられない話だな。パラスケは同級生から迫害されている。殊に『弦』の同級生に」
エレジアは緑眼を細めた。
「迫害、ねぇ…」
「少なくともあれは、いじめではないな」
班活動ならば、アルケイドが一緒だ。生粋のヨーロッパ生まれでないアルケイドは、時折はみ出し者扱いを受けていた。ミハイルは図書室でユハに会う。ミハイルは学年こそ四年生だが、実年齢は一歳年長である。それに加えて無口で無表情。近づき難い印象のせいで、友人は少ない。
生徒が集まれば、その輪から必ず弾かれる。そのためユハとアルケイド、ユハとミハイルが近づくのは、ある意味で当然の結果と言えた。
アルケイドの蹴りが顎に入り、バレンシアの唇から朱が糸を引いた。それを見ながらエレジアは苛々と呟く。
「バレンシアは、ユハ・パラスケの壁になりたいんだと」
「…壁。ユハは最後衛の結界士だぞ。ユハを守りたいなら、前衛に出るよりも、近くにいてやるべきじゃないのか」
直接攻撃に晒されなくても傷を負ってしまうユハを守りたいのならば、かえって前衛を志すのは的外れだ。しかもバレンシアは治癒術の使い手である。
訝るミハイルに構わず、エレジアは続ける。
「ミーヒャ、バレンシアの先祖帰りが治癒術だというのは知っているな?その実態が、一時的な細胞の成長促進だということは?」
「…知らなかった」
「ならば、パラスケの先祖帰りが、自己治癒の速さだということは?」
ミハイルは顔をしかめた。ミハイルには薄々、エレジアの言いたいことはわかっていた。だが、エレジアがここまで歯切れの悪い物言いをするのも珍しい。ゆえにミハイルは先を促した。
「つまりは何だ?お前は何が言いたい?」
エレジアは、脇腹を蹴られてのたうつバレンシアを睨みながら、吐き捨てた。
「あいつはユハ・パラスケに治癒術を使えない。使えば、パラスケの寿命を一気に縮めかねないからだ。だから、あいつがパラスケを守りたいなら、あいつ自身が壁になるしかない」

ユハは何も言わない。バレンシアは何も訊けない。人間関係を築くことが苦手になっていたバレンシアには、ユハを守る手だては愚か、ユハに友愛を唱えることすら難しかった。
『俺はお前に守られたくない』
ひねくれたバレンシアの、それが精一杯だった。
入学早々、寮の部屋割で問題が起きた。散々たらい回しにされたユハが、荷物を抱えて部屋に転がり込んできたときの、疲れた笑顔で発された第一声をバレンシアは忘れてはいない。
『ごめんね』
何がごめんね、だ。何に対するごめんね、だ。お前が何かしたわけではないくせに、なぜ謝罪する。
あのときの、言いようのない怒りを、バレンシアは忘れてはいない。
実のところ、バレンシアは学年で最も素行の悪い生徒の一人だった。主に喧嘩である。『弦』寮の生徒どころか、『杖』『刃』の生徒にも噛み付き、殴り合い、大抵相手を保健室送りにしてきた。ひとえに、ユハに対して心ない言葉を吐いた相手ばかりを殴った。バレンシア自身はそれで退学になっても何ら構うところなどなかった。それは己の境遇を受け入れるユハへの抗議であり、己の境遇への反抗のつもりだった。
だがそれも最早、意味を為さないのだと思い知った。四年の間、部屋に帰っては唇を噛むユハの、傷ついては治っていく手足を見て過ごした。卑屈な主張を続けるのは無駄なことだと知った。だからバレンシアは、再びレコンキスタを取った。己の境遇を、切り開くために。
「おかえり」
寮に帰れば、ユハの朱眼がバレンシアを出迎える。エレジアの星を受け止め続け、アルケイドに滅多打ちに打たれた全身は、ぎしぎしと軋む。蹴られた顔面は腫れ上がっているはずだ。ユハの心配の目が痛い。
「…ただいま」
「バレンシア」
名を呼ぶ声に、バレンシアは顔を上げる。
「その。…大丈夫?」
労りの声に、バレンシアの眉が寄る。大丈夫じゃないのはお前の方だ。それを見たユハは苦く笑った。
「ごめんね。余計なことだった?…よね」
「…いや、」
それきりバレンシアは言葉を発せない。それが、ユハに何を抱かせるか、バレンシアにはわからなかった。
――それが君の答えか、バレンシア。僕に守られたくない君の、それが答えか。僕にはそれしかできないのに。それが、僕がアスカロンでいられる唯一の方法だというのに。この、人に在らざる身の上の、僕が、君に受け入れてもらえるただ一時だというのに。
それすら君は、否定するのか。
バレンシア。
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白肋の記憶4 アスカロン番外

思いの外、長引いている。



バレンシア・グラーチアはユハ・パラスケが嫌いだった。
そもそもバレンシアは、アスカロンが嫌いだった。それ以前に実家が嫌いだった。古臭いレコンキスタの伝統と矜持が、バレンシアには鬱陶しく、重苦しかった。実家の威信にかけて入学させられたために、アスカロン闘竜学園が好きになれなかった。そこで重宝される己の能力も嫌いだった。ましてバレンシアの治癒術は、己に対しては使えない。同級生と馴れ合うつもりもなかった。ゆえに無愛想に振る舞い、最低限のやり取りに徹した。次第に近づいてくる友人などいなくなっていった。それでも苦手だったのがユハ・パラスケだ。ユハはバレンシアの態度を歯牙にもかけずに近づいてきたのだ。
いつも同じ顔で。
いつも同じ声で。
いつも同じ態度で。
いつも、誰に対しても。
白い髪をふわふわと靡かせ、笑顔を貼り付けたユハが、バレンシアは殊更に嫌いで苦手だった。

「起きたかグラーチア」
緑の瞳を瞬かせ、眩しさに顔をしかめたバレンシアに、声をかけたのは見慣れない少年だった。
「…?」
「残念だったな。もう少しでアルケイドの無敗記録を破れたのに。あぁ、申し遅れたが、僕は『杖』寮第四学年、『鱗』班のリチャード・パーシヴァルだ。ちなみにここは保健室で、君は脳震盪でぶっ倒れて運ばれてきた。まだ起きないほうがいいと思う」
確かに起き上がろうとすると眩暈がした。バレンシアは天井を仰いだまま、リチャードに尋ねる。
「俺の負けか?」
「あぁ。手加減したろう?あのあと、アルケイドはすぐに立ち上がったよ」
バレンシアが、もしも渾身の力であの大鎌を振り抜いていたなら、アルケイドの胸部は散々にへし折れていただろう。四本の肋を脱臼させられ、苦笑いしたアルケイドを思い出し、リチャードはバレンシアに目を落とす。
「なぜ、今さら前衛に転向なんかした?お前、後衛でも充分以上にやっていたろう?」
バレンシアは口を開かない。リチャードは小さく溜息を吐いた。
「だんまりか。お前は本当に幼いな」
やれやれ、と言わんばかりに呟かれたリチャードの言葉にバレンシアは緑眼を見開いた。
ガキだ、と言われたのだ。
「お前に俺の、」
「いつまで拗ねてるつもりだ。お前くらいの柵、背負ってる奴は幾らだっている」
リチャードの眉間に刻まれたしわは、リチャード自身がその「柵を背負ってる奴」であることを窺わせた。品行方正な副学年長が、だ。
「俺の勝手だろうが」
「僕らの戦場が、個人の勝手が許される場所だと思うか」
「喧しい。詮索好きは男を下げるぜ、副学年長。それに俺が前衛になりたいのは、っ」
バレンシアは言葉を呑んだ。リチャードの指摘は若干的を得ていた。だがバレンシアは今、その実家の柵を破り捨てようと必死なのだ。言ってしまってもよかった。バレンシアが再び大鎌を、あれほど嫌った実家の象徴を翳してでも欲しかったのは、何か。
「俺は――」
バレンシアの視線の先では、青白い肌を包帯に埋めて眠る白い少年がいた。
倒れる間際に、バレンシアはその姿を見ていた。車椅子から身を乗り出し、手を伸ばして名を叫ぶユハの姿を。
「俺は、あいつに守られたくないんだ」
厳密に言えば、守られたくないのではない。守りたいのだ。

ユハ・パラスケが同級生から何と呼ばれているか、バレンシアは知っている。
白髪。赤目。奇子。鬼子。不気味。化け物。
全て、ユハの容姿に――白い髪に朱眼という白色変異の、唯一無二の姿に託つけた醜い陰口だった。加えて、ユハは優秀な生徒だった。座学ならばリチャード、ミハイルに次ぎ、実技ではその能力を――結界士としての技を遺憾無く発揮した。それがますます同級生の嫉みを買ったのだ。
陰口だけではない。ユハがその陰湿な呼び方で呼ばれるときは、決まって暴力を伴った。皆と違う。それは、それだけで、迫害の対象になるのだ。
『気持ち悪いからこっち見るなよ』
『ほら、さっさと守れよ。それしかできないんだろうが』
そんな暴言を吐かれ、小突かれ、蹴られ、突き飛ばされ、それでも、高い自己治癒能力を誇るユハの身体には、痕が残らない。証拠が残らない。だからユハはいつも同じ顔で、いつも同じ声で、いつも同じ態度で、いつも、誰に対しても、白い髪をふわふわと靡かせ、笑っていた。全てを受け入れて、笑っていた。
全ての、理不尽を。
その笑顔を貼り付けたユハが、バレンシアは嫌いだった。

「あいつを見てりゃ、嫌でも自覚するさ。俺は現実を受け入れられない、ただのガキだって。だがあいつの恭順だって、ただの諦めだろうが」
バレンシアとユハは『弦』寮では同室だ。入学当初は違ったのだが、ユハの同室になった生徒が泣いて部屋割りに抗議をしたため、了承を得るまで延々と部屋替えが続いたのだ。そして、相手に無関心なバレンシアが、ユハの同室に落ち着いた。
「俺とユハは真逆だよ。両極端だ。拒絶と許容の、最悪の形だ。だから俺はあいつが嫌いだし、ガキ臭かろうがこの態度を変えなかった」
バレンシアにとって、実家の思惑どおりにならないことは一つの戦争だった。だがそれに込めたものは、ユハへの抗議だ。
「グラーチア、」
「だから俺はあいつに守られたくない。あいつが許す現実を、決して認めない。だから俺は前衛になって、あいつを――」
守ってやりたい。
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白肋の記憶3 アスカロン番外

ようやく続き。



「やぁ。ちゃんと顔を合わせるのは初めてだよね?」
バレンシアの正面に立ったアルケイドは、黒耀石の双眸を瞬かせ、そう言った。
「『刃』寮第四学年、『鱗』班のアルケイド・フェリス。体術には自信があるよ」
鞭のようなしなやかな身体つきに長杖を携え、アルケイドは微笑む。
「…『弦』寮『爪』班、バレンシア・グラーチア」
がしゃりと掴み上げた大鎌を掲げれば、アルケイドは首を傾げて頷く。
「さすがだね。それだけの大物武器を持ち上げて、腕が震えないなんて――ついこの間まで最後衛にいた、なんて思えないな」
バレンシアはこの大鎌とは既に九年の付き合いになる。バレンシアの意志に関わらず、グラーチアの家にいる以上、扱えることを必須としなければならない武器だった。そのことにバレンシアが感謝を抱いたのは、人生で今が初めてである。
「始めよう。お手柔らかに頼むよ」
いけしゃあしゃあとよく言う。バレンシアが顔をしかめた瞬間、長杖の先端がぶれた。

「パラスケ」
呼ばれたユハは白い髪を揺らして振り返る。背後からユハに声をかけたのは、第四学年の副学年長であるリチャード・パーシヴァルだった。
「起きて大丈夫か」
「大丈夫だよ」
ユハは笑って答えた。額に包帯、頬にガーゼが当てられ、ぐるぐる巻きの上半身には広範囲の火傷がある。先日の対竜戦闘で負ったものだ。ここは保健室だ。そしてユハの負傷は、保健室にベッドが与えられるレベルだった。
「見に行かないの?」
「あぁ、終わらせてきた」
何を、とは言わずともわかった。前衛の演習である。後衛は決められた前衛の動きをレポートにまとめ、より効果的な援護を考えるのだが、リチャードの組み合わせはミハイル・グレンドルフだ。既に試合を終えている。
「面白いものが見られた」
椅子を引き寄せながら、リチャードは唇を吊り上げる。ユハは頭の上に疑問符を浮かべながらリチャードを見た。
「あんな顔で負けるエレジアなんか、久しぶりに見たな」
「エレジア?」
首を傾げたユハに、リチャードは説明する。
「あぁ、『刃』寮のエレジア・ヴァリアツィオーニ。前衛としての実技成績は学年で二番目」
「あぁ!あの、モーニングスターの。あの人に勝った人がいるのか…アルケイドかい?」
アルケイド・フェリスの無敗は第四学年では知られたことだった。相手によるが、アルケイドは二つ上の上級生にも勝つことがある。
だがリチャードは首を振る。
「いや。お前はよく知ってるだろ?『弦』寮のグラーチアだ」
「グラーチア…?バレンシア!?」
ユハの朱眼が見開かれる。
「あぁ。大鎌使いだとは思わなかっ」
「何でバレンシアが!?」
リチャードの声を遮り、ユハは手を伸ばす。その手を受け止めながら、リチャードは怪訝に眉を寄せた。
「どうしたんだ。まだ急に動いたらだめだろう。皮膚が裂けるぞ」
「いいよそんなことは!何で、どうしてバレンシアが前衛に!?」
リチャードが困っている。だがユハに、それに気づく余裕はなかった。
『お前なんかに守られたくない』
ユハの全身に刻まれた火傷を見たバレンシアは、苦々しい顔でそう言った。
ユハは結界士だ。結界にかかった負荷は、術者の肉体に反映される。負荷を負い過ぎれば、最悪死ぬこともある。ゆえに結界術は廃れていった。しかしユハには、結界術を扱うに足る特殊な体質がある――自己治癒能力の異常である。恒常的な治癒能力の高さゆえ、ユハは結界の負荷に耐え得るのだ。
『だって、僕にはこれしかできない』
そう言ったユハに、バレンシアは吐き捨てた。
『馬鹿か。自己犠牲の博愛なんか、お前の我が儘だ』
これが答えか、バレンシア。僕に守られたくない君の、これが答えか。前衛として、僕の前に立つことが。
「パラスケ。ラースロー先輩の許可を得てくる。動けるなら、見に行くか?」
リチャードの申し出に、ユハは一も二もなく頷いた。
ヴァイク・ラースローは第六学年、『弦』寮の寮長だ。保健医のアイザック・ブリレの良き片腕でもある。今回の六年生の実戦演習はつい先日だったから、学園内にいるはずだ。リチャードは保健室を出ると、すぐさま『弦』寮へ走った。

バレンシアが相手にしているのは、黒いつむじ風だった。
アルケイドの身体が揺れた。その次の瞬間、バレンシアに叩き付けられたのはその脛だった。次いでもう片足が、咄嗟に頭を引いたバレンシアの眼前を横切り、前髪を幾筋か掠っていった。
アルケイドの野戦服はデザインが若干他と異なる。緩めのサイジングで作られた下衣を、膝下のブーツのベルトで纏めているのだが、バレンシアはようやくその理由を知った。両足が自由に動かせるように、股関節周辺にタイトさを持たせないようにデザインが変更されているのだ。ただでさえ動きやすく機能的に作られた野戦服を更に、だ。
肩に受けた蹴りは重い。両足に何か仕込んでいる。
「っ、てめぇ!加減してるだろ!?」
バレンシアは大鎌を旋回させ、アルケイドの動きを牽制する。怒鳴られたアルケイドは、上体を元に戻すと息も切らさずに平然と言い返した。
「だって骨折したら復帰に時間がかかって仕方ないじゃないか」
元々沸点の低いバレンシアの額には青筋が浮いたが、それは攻撃に結びつかない。バレンシアは既に防戦一方になりつつあった。百八十度の角度で開くアルケイドの足は、いつ何時放たれるかわからない。加えて鋭く突き出された棒の先を、辛うじて大鎌で払う。振りが大きくなり、隙のできた腹に正面から爪先が減り込む。喉奥に上がる胃液を嚥下しながら、バレンシアは呻く。
あいつに、比べたら。あいつが負う苦痛に比べたら、この程度だ。
「前衛の、壁の痛みなんざ、比較にならねぇんだよ…!」
ユハの負う痛みに比べたら。
バレンシアが大きく上体を捻り、アルケイドの胴を刈る。遠心力で加速する大鎌の速度は、刃の重さに比例する。
だがアルケイドは動じない。刃が回転する前に止めてしまえばいい。大物武器との戦闘ならば、エレジアで慣れている。アルケイドの上下が反転し、右のブーツの踵がバレンシアの頬をえぐる。次いで左の爪先がこめかみを打ち抜く。
「――あー…ありゃ脳震盪だな。アルケイドの勝ちだ」
高見の見物を決め込んでいたエレジアが呟く。隣に立ったミハイルがくっと眉を寄せた。
「そうでもなさそうだぞ」
バレンシアは、顔を歪めながらも姿勢を崩さなかった。回転する大鎌の刃がアルケイドの野戦服の裾を裂く。飛び退くアルケイドを追尾する刃。鎌の遠心力を利用してバレンシアが跳躍、アルケイドの頭の上を飛び越える。それを見たミハイルが愕然と呟いた。
「アルケイドの背後を取った、だと…?」
「嘘だろ、私でもあいつの後ろなんか――あ、」
エレジアが声を上げた。その視線の先で、アルケイドが振り向こうと上体を捻る。それよりも早く、着地したバレンシアが振りぬいた鎌の長柄がアルケイドの脇を捉える。
「かっ、」
小さな呻きと共に、アルケイドの身体が吹っ飛んだ。元々さして体重のないアルケイドの身体は、存分に勢いの乗った大鎌の遠心力に耐えられなかったのだ。
アルケイドが土埃を巻き上げて倒れたのを見届け、バレンシアも地に伏した。
「バレンシア!」
呼ぶ声を、聞いた気がした。



こう、臨場感のある戦闘シーンが書きたいもんです…。アルケイドの足技は、現実的なサンジ(?)を想像すべし。

追記:ヴァイク・ラースローは、ビルヘルムたちの一代前。『刃』寮寮長であるツァー・ツェザリーニをはじめ、比較的多くの竜殺士を輩出した学年。
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白肋の記憶2 アスカロン番外

続いちゃった。二ツ鳴りと違って大まかな流れを考えないで済むので、書きやすいこと書きやすいこと。
別タイトル・バレンシアの事情。




アルケイド・フェリスは汗にまみれた黒い髪に水を被った。愛用の杖は傍らだ。
アスカロンでは模擬剣等は一切使わない。普段手に馴染んだ実用の武器をそのまま使う。当然、エレジアは凶悪なモーニングスターを、ミハイルはクレイモアを、アルケイドは長杖を扱う。
「あれ?」
次の試合の相手を確認し、アルケイドは首を傾げた。
バレンシア・グラーチア。『弦』寮の同級生である。
「エレジアじゃないのか…」
確認すれば、エレジアは一つ前の試合でバレンシアに負かされていた。アルケイドは面白そうに唇を吊り上げる。
エレジアは強い。何より、並大抵の相手はエレジアの得物と不遜な態度に威圧されてしまう。同級生にはそれが酷く顕著だ。臆せずぶつかれば、エレジアが勝てる――倒せる相手だとわかるだろうにと、アルケイドは常々思っている。
「アルケイドぉぉお!」
「うわっ」
エレジアのことを考えている最中に、当人が現れた。思わずアルケイドは飛び退り、エレジアはお構いなしに距離を詰める。
「お前、絶っっっ対負けるんじゃないぞ。いきなり前衛転向した『弦』の奴なんかに、お前に土を付けられてたまるか…!」
「落ち着けエレジア」
アルケイドに詰め寄るエレジアの首根っこを掴んだのは、ミハイルである。頭一つ背の高いミハイルは呆れたように苦笑する。
「まぁ、お前を負かされたくないのは俺も同じだがな」
アルケイドは苦笑する。
「君たちの中の、僕の立ち位置がよくわからないよ…まぁ、」
杖をひょいと持ち上げ、アルケイドは微笑んだ。
「ご期待に沿えるように努力するさ」

バレンシア・グラーチアは回癒術の使い手だが、生憎とその能力は己には使えなかった。
「〜〜〜っ、」
エレジアのモーニングスターが掠った部分は、痣になるか皮膚が爆ぜるかのいずれかだった。消毒液の痛みにバレンシアは呻く。
そもそもバレンシアは、前衛としての基礎の基礎すら学んで間もないのである。攻撃の流し方、受け身の取り方、後退の仕方。それらが完全に身に染みついていない。そのため、本来負わずともいい打撲傷を全身に負ってしまっていた。
「全く…何だっていきなり前衛転向なんか考えたんだよ?」
バレンシアの頬にガーゼを貼付けるのは、『杖』寮のミカ・バーテライネンである。早々に戦線離脱したミカは、その後は救護所に釘付けになっていた。
「放っとけ。俺の勝手だ」
ぶっきらぼうに吐き捨てるバレンシアに、ミカはめげない。この無愛想が災いして友人の少ないバレンシアには、貴重な相手だった。
「しかも『弦』寮で。アラン先輩みたいに、前衛から後衛に転向するならまだわかんだけど」
「だから放っとけって」
「まぁエレジアに勝ったんだから、お前きっとセンスがあるんだな」
ミカは水色の瞳を細めて笑い、バレンシアの背を何気なく叩いた。バレンシアは激痛に息を詰め、顔をしかめる。
そうなのだ。これだけの傷を負いながら、バレンシアはエレジアに勝ったのだ。前衛としての実技成績学年二番手、エレジア・ヴァリアツィオーニに。単純な破壊力なら学年一、しかもエレジアはそれだけに頼らない戦い方を知っている。そのエレジアになぜ勝てたのか。
「ヴァリアツィオーニに勝てたのは、ただのまぐれだ。俺がいること自体がイレギュラーだったし、得物だってこれだしな」
傍らに伏せた大鎌を示して、バレンシアは自虐した。
「同じ長柄武器だ。ヴァリアツィオーニの戦い方は、俺と鏡写しだからな。だいたいわかる。それに、こいつは…俺にとっては慣れた得物だ」
大鎌という変則武器との戦い方に、エレジアが戸惑った可能性はある。それに比べ、バレンシアは幾分冷静だった。
イベリア半島出身のバレンシアが大鎌を持つとき、それは確たる伝統を背景にしている。かつて欧州最強の戦法は、重装歩兵による集団戦法だった。その全盛は銃という近代兵器の発明まで続いた。イベリアではそれをさらに強化し、異教徒との戦争に用いた。すなわちレコンキスタである。イベリアの重装歩兵が相手にしたのは騎馬である。ゆえに前進しつつ前列の後ろから大鎌を振るう、凶悪な戦法が生まれたのだ。そしてバレンシアの大鎌は、代々受け継がれる名残である。
相いれぬ者を薙ぎ払う大鎌、またの名をレコンキスタ。だがバレンシアがこれを手にするには葛藤があった。
「結局、俺は実家の手駒にしかなれないのか。こいつを手に取るとそればかり考えちまう」
没落した一族の期待を一身に背負って、バレンシアはアスカロン闘竜学園に送り込まれた。その場所に本人の意志はなく、ゆえにバレンシアは決して積極的な生徒ではなかった。反抗的でもなかったが、ただただ無気力だったのである。
「そうか?でもなぁ…」
その体質と能力のせいで、バレンシアよりも生きづらいミカは、ふと思案顔になる。訝るバレンシアににかりと微笑み、
「でも俺は前までのお前より、それを持ってるお前の方が好きだな。させられてるんじゃなくて、自分でその大鎌を取ったんなら、それでいいだろ」
そう言って背中を押した。刻限が迫る。
「行ってこい。アルケイドは強いけど、先輩方に比べればまだマシだ」
応援か慰めか、よくわからないミカの台詞に、バレンシアは初めて苦笑した。片手を上げる。大鎌を携え、向かう先にいるのは学年最強の前衛、アルケイド・フェリスだ。
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白肋の記憶 アスカロン番外

何か、あんまり知らないうちに書いていた第五学年の過去エピソード。いまいち続きが思い出せないので、このままアスカロン番外ということにして投下してみる。何という無理やり感。




『弦』寮第五学年のユハ・パラスケとバレンシア・グラーチアは、入学当初から仲がよかった訳ではない。今でこそ、白い髪を揺らしてふわふわ歩くユハの隣には、常にバレンシアの豊かな黒髪があり、その仲は裂き難く、また近づき難い。ユハとバレンシアの世界は穏やかで完結していた。
だが、それはあくまで今でこそ、成り立つものだ。四年生になるまでのバレンシアは、世間を斜めに眺めた暗く内向的な性格だった。ユハは、張り付いた笑顔で常に笑っている子どもだった。

額の汗を拭い、試合の相手と挨拶を交わすと、『刃』寮のミハイル・グレンドルフはふらりと歩きだした。同輩の健闘をその目で確認したいと思ったのだ。
四年生になると模擬戦闘も増える。正に今行われているのはそれだった。トーナメント方式の勝ち抜き戦。寮も班も関係ない、個と個のぶつかり合いだ。因みに、ミハイルは現在三戦三勝だが、次を棄権した。先日傷めた右足を庇った判断である。
ミハイルの炯眼が、一人の少年を捉える。先の試合で敗れたらしく、不機嫌を隠そうともしないその様に、ミハイルはそっと声をかけた。
「アルケイドか?」
「野暮を聞くなよ。…アルケイドじゃない」
ぶすくれてしゃがみ込む焦香色の髪の少年は、『刃』寮のエレジア・ヴァリアツィオーニ。足元には長い鎖がとぐろを巻き、その先端は長柄に繋がっている。反対側には、凶悪な棘に覆われた鉄球が転がっていた。
「驚いたな…。アルケイド以外がお前に勝ったのか」
エレジアが緑の目を眇める。ミハイルの呟きは至極真っ当だった。
エレジア・ヴァリアツィオーニは、現四年生の中で最重量級の前衛である。実技成績は次点、生半可では負けない身体能力と攻撃力の持ち主なのだ。扱う得物はモーニングスター、それだけで相手を威圧し、打ち砕く。そのエレジアが負けた。ならばその相手は実技成績トップ、『刃』寮のアルケイド・フェリスしか考えられなかった。だがアルケイドではないらしい。
「ならば誰だ?ミカあたりに油断したか?」
ミカ・バーテライネンは『杖』寮である。人間磁石という特性から、前衛もこなす。普段は棒状の金属を投鎗として使っているが、その気になれば蛇の如く縦横に走らせることも可能だ。「ミカなら、最初にアルケイドに当たって負けていた」
エレジアは首を横に振り、溜息を吐いた。
「『弦』寮の、バレンシア・グラーチア。得物は大鎌だ」
「…グラーチア?」
ミハイルは眉を寄せた。少し前まで、バレンシアは最後衛にいたはずだった。回癒術の使い手で、典型的な『弦』寮生のイメージがある。
「得物の大鎌は、これと同じくらいの長柄武器だ。それに湾曲した両刃が付いている。いわゆるレコンキスタだな」
面白くなさそうにエレジアが説明する。要するに、似通った大物武器を使う相手に負けたことが許せないのだ、とミハイルは当たりをつけた。
「勝てばアルケイドが相手だったのに…!今日は私が勝つつもりだったのに!」
エレジアの呻きに、ミハイルは眉を上げる。アルケイド。学年最強が当たるのか、エレジアを負かした相手に。
「それは…楽しみだな」
「あーあーそうだな、せいぜいアルケイドに頑張ってもらうさ。あいつに土を付けるのは私だ」
アルケイドは、学年では全戦無敗である。
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緋の眼4 アスカロン17

ナイゼルはミネストローネをすくいながら顔を上げる。正面に座っているのはヤンだ。栗色の髪を揺らして、濃い灰色の瞳を細めて、控えめに笑っている。
アスカロンにいる以上は、全員が同士だ。敵にはなりえない。なってはならない。だが、もし万が一にも、そんなことがあるとして――世界の誰が敵になっても、俺だけは、掛値なしにヤンの味方でありたい。
ぎゅ、と唇を引き結んだナイゼルの様子にヤンが首を傾げる。
「ナイゼル?」
「うん?」
「…僕は大丈夫だよ、ナイゼル」
ナイゼルは青を見開く。ヤンは唇を緩めて、小さく笑った。
あのときの狭窄した視界の中で、冗談ではなく緋に染まっていく視界の中で――ヤンの意識を貫いたのは、鮮やかな青だった。鮮やかな熱を持った、青い瞳だった。あの青が、ヤンを繋ぎ留めた。そうでなければ、すべてが壊れていたような気がする。すべてを、壊していたような気がする。
あの青が、ナイゼルの青い瞳がこちらを見ていた。一度も逸らさず、この緋い目を見てくれたから、だから大丈夫だよ、ナイゼル。
「僕はもう大丈夫だよ」
ヤンが繰り返すと、ナイゼルはぽかんと口を開けた。やがて、くしゃりと顔を歪めて笑う。
「おう。なら、よかった」
「うん」
『弦』寮の五年生二人はそれを見て、どちらともなく目線を合わせて笑った。
「ごちそうさまでした…あ、ヤン、あれ」
一足先に食事を終えたシャリースは、食堂の大扉を見て目を丸くした。シャリースに促され、そちらを見たヤンが凍りつく。
そこにいたのは実習後に退学した、『弦』寮の一年生――シドニオ・ブラガだった。
「シドニオ…」
シドニオはきょろきょろと辺りを見回し、ヤンと目を合わせた。びくりと身をすくませたのはヤンの方だった。シドニオはそのまま、込み合う人の波を縫ってヤンに近づいてくる。
シドニオは、ヤンの『緋の眼』を見ている。ヤンが屍喰鬼を虐殺する様を、間近で見ている。なのにどうして近くに来るの――僕が怖くないの。僕から遠ざかるために、アスカロンを去ったのではなかったの。
ぐるぐると考え込み、スプーンを握り締めたまま冷や汗を流すヤンに、正面のナイゼルが焦る。
「おい?ヤン!?大丈夫じゃないだろお前、」
「ドライスラフ」
ナイゼルの言葉を遮り、シドニオは声をかけた。ヤンがぎこちなく振り返る。大丈夫だと言ったものの、ヤンの灰色の目は落ち着きなく泳いだままだ。
「ブラガ、お前――」
「戻ってきたんだよ。僕は、アスカロンだ」
ナイゼルの声に、シドニオは凛と答えた。
「退学届を出して、家に帰ろうと思った…屍喰鬼が、怖かった。死ぬかと思った。死ぬのが怖かった…でも、僕は」
きゅ、と一旦唇を噛み、シドニオは続けた。
「僕は、アスカロンだ。こんなところで折れてたまるか」
アスカロン。竜殺しの剣、人の護り手。
人に知られることのない存在だ。だが確固たるその存在が、この世界を保っている。その誇りを胸に、人知れず、生きていくのだ。
「だからさ。またよろしく、ドライスラフ、アーネンベルク。それだけ、言いたくて。二人は残ったって聞いたから。もう再入学の手続きも済んでるんだ」
薄い紫の瞳を細めて、シドニオは言った。ヤンは呆気に取られてシドニオのリシア輝石を見上げた。
「シド、は…僕の目が怖くないの?」
きょとんとした様子のシドニオに、ナイゼルは内心安堵の溜息を吐いた。
「何で?」
「あのとき、屍喰鬼を殺したのは、僕だ」
「…?うん」
「僕は、昔はアスカロンの敵だったんだって」
「うん。それで?」
「だから、」
「じゃあさ、」
ヤンと目を合わせるだけで、死ぬかもしれないのだ。ヤンはかつて竜として討伐された能力者なのだ。怖くないの、と続けようとしたヤンを、シドニオは遮った。
「ドライスラフは、人の心が読めてしまう僕が怖くないの?」
ヤンの曇天が見開かれる。ナイゼルも青を見開いた。
シドニオは、サトリだ。先祖帰りの能力。他人の心がわかってしまう能力。実習のときも、シドニオは己の能力を進んで明かしたわけではなかった。
「僕は嫌だよ、他人に心を覗かれるなんて。だけど僕はサトリだ。意識を開けば、この食堂にいる全員の心がわかってしまう。これは僕が望んで手に入れた能力じゃない。ここでは先祖帰りは、稀有な才能として認めてもらえるけど――スヴェン先輩も、同じことを言ってた。能力があることが、必ずしも幸せじゃないって」
『弦』寮のスヴェン・オールセンも、シドニオ・ブラガも。そして、ヤン・ドライスラフも。
「ドライスラフは、僕が怖いかい?僕の能力は、気味が悪いとは思わない?」
ヤンは首を振った。シドニオの能力は、味方であるならばこの上なく頼もしい。
「それと同じだよ。ドライスラフが、今、ここにいるなら」
さらりと言ってのけたシドニオに、ヤンは微笑み、ナイゼルは若干むくれた。さっきまでナイゼルが言ったことは、なかなか信用しようとしなかったくせに。面白くない顔をしているナイゼルを見てシャリースがひっそりと笑い、青い目に睨まれて口を押さえた。それを目にしたヤンは眉を下げて苦笑した。
ヤンの居場所を示してくれたのは、道標は、あの青だ。ヤンはそれを、永劫忘れはしないだろう。




ようやっと、ヤンが主人公になりました。今までどっちかと言えば、ビルヘルムが主人公らしかったような。第六学年のアクの強い連中が、自己主張し過ぎてたような。アクならヤンも強い、というか、間違いなく能力的には将来最強になれる。ヤンの『緋の眼』は、瞳術と同じ。甲賀忍法帖の弦之助と同じ能力だと思えばわかりやすい、かな?
アスカロン / comments(0) / - / 伝埜 潤 /