那由多の果て

伝埜 潤の遺産。小説になり損なったフラグメントと、日々の連れ連れ。

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犬のいる生活。

前回言ってた誰得な設定資料。書かないけど、何これこの重量感。

犬のいる生活(仮)

人型使役犬
かつては幻想生物=想像の産物とされてきた狼人間を、人間に合わせて家畜化したもの。人型をとり、言葉を解するがあくまで「人型の犬」であり、人権はない。人間に危害を加えれば即、殺処分される。信頼のおける飼い主とバディを結び、それぞれの能力分野で活動する。昨今はバディの人間の中から、彼らへの人権保障を求める声が上がっている。
形態変化の際には体高・体重ごと変化する。また変化する犬種は様々であり、当該者のイメージに由来すると考えられる。人型のときは人間そのものであり、犬型のときは犬そのものである。例えば人型で玉葱を摂取しても問題ないが、犬型のときは命に関わる。いずれかの形態で負った傷は他方にも反映される。人型のときに軽微なダメージが、犬型のときには甚大なものになる可能性がある。
一目で人型使役犬だとわかるよう、ドッグタグの着用を義務付けられている。ドッグタグには識別番号・犬種・バディ名が刻まれている。基本的に人型使役犬は識別番号で呼ばれるが、バディによっては人名風の名前で呼ぶこともある。
犬齢が一定を超えるとブリーディング義務があり、年に数回呼び出しがある。実際の活動の関係上、雌の数が少なく雄が圧倒的に多いため、雌は全てが施設管理され、出産機械の扱いを受ける。交尾・出産は担当者の精神衛生上の理由で犬型の場合が大半だが、犬種や母体の状態によっては人型でも行われる。現在、日本国内には20ほどの雌が管理されている。

幼年機関
生後まもなくから七〜十歳前後までの間、人型使役犬を養育する機関施設。最大の目的は、犬種・性別の「嵌め込み」である。
人型使役犬は基本的に親の犬種を受け継ぐが、当該者のイメージに依るところも大きいため、確定ではない。そのため、訓練のしやすさや用途に合わせて犬種を人為的に「嵌め込み」、確定する必要がある。また人型のときの性別も別れているか、不確定に都度変化するか、或いは両性具有の状態であるため、やはり「嵌め込み」を行う必要がある。
また、人間に対して絶対且つ無条件の服従を刷り込む教化機関でもあり、教化が不可能と判断された場合は不適格犬とされ、殺処分される。
幼年機関を通過してのみ、それぞれの訓練機関に進むことができる。全国には北から「千歳」「多賀城」「会津若松」「北越」「桐生」「富士五湖」「能登」「彦根」「那智」「嵯峨野」「城崎」「土佐」「倉敷」「周防」「肥前」「桜島」の16箇所が設置されている。

大神雅人(おおかみ・まさと)
人型使役犬の人権保障を求める運動の中心人物。幼年機関で不適格とされた、或いは出生に問題のある人型使役犬を人間として扱い、世に送り出した。彼の息子たちは現場でも要注意としてマークされている。ウルフドッグとジャーマンシェパードの兄弟を連れ帰る際に、事故にあい故人となる。

大神雅人の息子たち
第一世代
堺雪俊(さかい・ゆきとし)
犬種 クーバーズ
識別番号K-01848
バディ 千野宗吾(ちの・そうご)
災害救助犬。日本政府から正式に医師免許を取った医者で、外科医。クーバーズらしく家族思いな次男。ただし自分の懐に入れた相手以外に対してはかなり辛辣でシビア。見知らぬ人間への警戒心は人一倍。相手に信頼を与えるまでが長く、その分だけ愛情深い。自分より幼い者への庇護欲が強い。紗弓の身体の傷を本人以上に気にしており、所詮自分たちは人間にとっては犬畜生でしかないと自嘲する。バディの宗吾は看護士で、雪俊とは研修生時代からの付き合い。研修医の閉腹縫合最速記録コンビとして外科ではちょっとばかり有名。黒髪、黒瞳の典型的醤油顔イケメン。身長175センチ、体重66キロ。体高75センチ、体重42キロ。体毛は真っ白。幼年機関は「会津若松」。
野村紗弓(のむら・さゆみ)
犬種 ドーベルマン
識別番号D-01830
バディ 古河清十郎(こが・せいじゅうろう)
爆発物探知犬にして軍用犬。断尾・断耳されており、人型のときはかなり痛々しい。耳は上半分が断ち切られ、尾てい骨から背中にかけて大きな裂傷がある。ドーベルマンは作出犬種であるため、当初は人型使役犬と気付かれず、ごく普通の仔犬として扱われ、断尾されたときのショックで形態変化してはじめて確認された。ドーベルマンらしく極めて温厚。かつ快活で誠実な長男だが、いざというときは果断で手段を選ばない。信頼を置いた相手にはとことん尽くすタイプで、女性だったら家庭的ないい嫁になりそうだと言われるが、実際はかなり逞しい巨人である。日に焼けた茶髪、小麦色の皮膚、栗色の瞳の精悍で鋭い顔だち。身長186センチ、体重78キロ。清十郎とのどつき漫才はかなりの迫力。体高72センチ、体重37キロ、体毛は黒とチョコレートのあれ。ブリーディング義務が厳しく、現在少なくとも十一児の父。幼年機関は中途で入った「桐生」。
宮市京詞(みやいち・たかし)
犬種 グレイハウンド
識別番号G-01869
警視庁捜査一課刑事。幼年機関を脱走し、逃げ切った三男。現在も手配中だが、犬種がグレイハウンドである以外未確定のまま逃げたので、人型使役犬であることを気づかれず人間として生活している。性別は未確定だが、基本的には男性になっている。いかなるときも激昂せず、動揺せず外面を取り繕える冷静さを持つ。気が強く不敵だが、半分以上ははったり。それを気づかせない鉄面皮を装備する。人型使役犬は基本的に身体能力が高く、当然視力も抜群で眼鏡が必要ない。そのためカモフラージュにスクエアフォルムの伊達眼鏡をかけ、いつも目を細めて笑んでいる。柔和な女顔で、相手に警戒心を抱かせない。身長177センチ、体重68キロ。体高77センチ、体重32キロ、体毛は漆黒。犬の中で最速の脚力を持ち、黒妖犬とあだ名される。幼年機関「嵯峨野」から逃亡。

第二世代
鈴村義(すずむら・ただし)
犬種 アラスカンマラミュート
識別番号M-01921
バディ 山野希早(やまの・きさき)
山岳救助犬。犬ぞり向きな犬種でもあり、人型でもがっしりした体格を誇る。雪山にめっぽう強く、海外の山岳でレスキューの一員として活躍中のため、なかなか帰ってこない。物静かで言葉少なく、素朴で不器用な四男。実は甘えただが、面に出せない照れ屋。家事全般は得意で、中でも大量にまとめて豪快に作られる男の手料理は、職場でも家族にも好評。目で語り、包容力があるがやや過保護。恐らく兄弟の中で最も打ち解けやすい。硬めの黒髪、薄茶の瞳、眉のしっかりした男前。身長180センチ、体重80キロ。体高70センチ、体重53キロ、体毛はアイボリーに灰が混じる。幼年機関は「千歳」。
七原歩(ななはら・あゆむ)
犬種 一応ゴールデンレトリバー
識別番号R-01972
バディ 村瀬尚弥(むらせ・なおや)
麻薬探知犬。端正な容姿に釣り合わない人懐こさを発揮する甘えたな六男。現場に出される予定はなかったが、櫻が転がり込んできたために急遽、尚弥に預けられる。元々保健所に保護された捨て犬で、盲導犬になる予定だった。パピーウォーカーが手放す折りに捨てられると勘違いして恐慌を起こし、突然人型に変化し発覚した。その時点では形態変化も理解できず人語も朧気にしか解せなかった。捨てられた理由は不明だが、潜在的に傷になっている。天真爛漫で、底抜けに明るい性格だが、トラウマが陰を落とす=捨てられないために必死になる。蒸栗色の髪、白い皮膚に琥珀色の瞳の美青年。身長184センチ、体重70キロ。体高60センチ、体重31キロ、体毛は髪と同じ。幼年機関を通過しておらず、犬種も人型を取るときの性別も確定していない。人型のときは自覚なく両性具有状態であることが多い。
黒塚勇(くろつか・いさみ)
犬種 ボーダーコリー
識別番号K-01968
バディ 早乙女凛一(さおとめ・りんいち)
地雷探知犬にして遺留品回収犬。ボーダーコリーらしく知的で冷静な五男。行動力は抜群、常識的で良心的であり、確実に任務をこなす堅実さを持つ。観察眼に優れ洞察・分析に長けたせいか、何事に対しても傍観者の立場を崩せない。執着が薄く淡白でしかいられないマイナス面を持つが、本人は無自覚。それはバディについても同じで、ビジネスライクな考え方しかできない。雪俊にまして人間不信。いつもにこやかに笑んでいるが、内心は冷めている。反面、ツッ込まずにはいられない貧乏クジでもあり、苦労性。バディの凛一がボケのため、忙しない。元々は黒髪だが赤っぽい茶髪に染めている。栗色の瞳。猫目のつり目でコケティシュな顔だち。身長168センチ、体重62キロ。体高46センチ、体重22キロ、体毛はモノクロ。幼年機関は「彦根」。

第三世代
並木櫻(なみき・さくら)
犬種 ウルフドッグ
識別番号S-02013
バディ 塩見慶(しおみ・けい)
幼年機関ではなく研究機関で「嵌め込み」が行われた、はじめてのウルフドッグ。当初は特殊部隊装備用の強硬制圧犬となる予定だったが、ウルフドッグ特有の気難しさと繊細さゆえに頑なで、誰にも心を開かず訓練にも参加できず、警戒して他者が近づくことすら許さなかった。そのため、身体能力は紗弓と並んで人型使役犬の最高峰と謳われながら、殺処分が決定し、それを雅人が無理矢理に引き取ってきた。現時点での末っ子。精神的に安定せず、雪俊や勇にまして人間不信であり、その態度を隠しもしない。つまり究極にツンな状態。同腹の兄を失ってからはより頑なになった。不本意ながら雅人だけは信用していたのに、不慮の事故で雅人が帰らぬ人となったため、京詞の手回しによって慶のバディとなる。尖った顎と伏せられたつり目、肉付きの薄っぺらい身体のせいで殊更剣呑に見える。黒髪、黒瞳に蒼白い肌で、一見して不健康。身長183センチ、体重66キロ。体高76センチ、体重38キロ。体毛は明るい灰色。研究機関「赤城」出身。
並木吹樹(なみき・ふぶき)
犬 ジャーマンシェパード
識別番号G-02012
櫻の同腹の兄。殺処分された。

バディたち
古河清十郎
自衛隊青年海外協力隊地雷撤去担当(危険区域専門)一応、隊長格。紗弓のバディ。飄々と掴み所のない人物。雅人の古い友人であり、信用されている。仕事に対してはシビアで、隊長としての決断も早い。それ以外に関してはかなり融通が利く、臨機応変を絵に書いたような性格。悪く言えばアバウトでいい加減。紗弓とは夫婦漫才を繰り広げる関係。人型使役犬の最高傑作を謳われる紗弓は頻繁にブリーディングに出るが、それをよく思っていないため度々任務を割り込ませ、阻止している。身長185センチ、体重82キロ。紗弓より11歳年長。最近白髪が見つかって落ち込んだ。
村瀬尚弥
厚労省麻薬取締局関東支部捜査課課長。歩のバディ。真面目で堅物に見える元・麻取りのエース。課長に昇進してから現場での活躍よりデスクワークが増え、エースを譲った。しかし人材不足が祟って今なお検挙率全国トップ。好青年に見えるが、実際は正面切って搦め手で来るタイプの性悪で、非常にイイ性格。上下関係には比較的フランクだが、やっぱり体育会系。身長178センチ、体重73キロ。歩より6歳年長。京詞とは悪友。


ここで力尽きた。
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風切り羽根

シリアス展開ばかり書いていると、ついついこういうB級なノリに浮気してしまう。因みに続かない。たぶん。



「ようこそ、裏切り者のツァン」
たっぷりと侮蔑を含んだ笑声が、ネイとソニアを迎えた。長い蒼髪を垂らした司祭服の青年が両腕を広げる。
「何と言うかだな…お仲間はずいぶんとお前を嫌いみたいだな?」
「それは…そうでしょう。僕は裏切り者ですから。それも、一人めのブルーバードだった。変な崇拝をしてくれていたのも原因です」
ソニアは呟き、歩を進める。
「退いてくれ。僕はセレストに用がある」
言い放ったソニアの足元を、軽やかな火花が抉る。青年の手にはFN-P90の機能美。ネイが反射的にベレッタを掲げ、ソニアがそれを制する。
「裏切り者の分際で、あの方に会いたいなど…よくも言えたものだ。君を失ったあの方が、どれほど嘆かれたことか」
憤怒に銃身を震わせる青年に、それでもソニアは言葉を投げかける。
「セレストは僕の恩人だ。僕の世界は、あのとき、彼と出会って始まった。だけど、それでも僕はセレストに突きつけなければならない。僕らは、幸せの蒼い鳥なんかじゃない、今のままでは!」
「黙れ。ツァン、私は君を信じない。セレストはまだ君に夢を見ているようだが、私は違う。あの方の目を覚まさせるために、私は君を撃つ」
乾いた音に、ソニアの頬が裂けた。青年の緑色の瞳が殺意を宿して煌めく。
「どうするつもりだソニア。あいつはちょっと…いろんな意味で手強そうだぞ」
ネイは顔をしかめて傍らに問う。戦闘に持ち込めば、恐らく制圧できないことはない。だがそれはソニアの願うところではない。
躊躇いを打ち払ったのは、明るいテノールだった。
「ずいぶんと偉そうな口を叩くようになったじゃねェか、ベルディテ?」
ここにいないはずの声に、ネイとソニアが揃って振り向いた。アシンメトリの銀髪、眼鏡のレンズ越しに青鈍色の瞳が瞬く。
「何だお前ら、雁首揃えてこっち見やがって」
唇が半月の笑みを描く。かつてはブルーバード最凶と言われた男――ティールが眼鏡のブリッジに指を当てながら、ごく楽しげに言う。
「負け犬は退がれ。君に今さら用はない」
ベルディテ――ティールが呼んだそれが、青年の名前だった。ティールは唇を歪めて笑う。その眼に灯る酷薄に、思わずソニアが声をかけた。
「ティール」
「あン?何だツァン。まだいたのか。セレストに直に話をつけるんなら、この先の廊下の、左手の部屋だぜ?」
親指でくい、と示された扉の前にはベルディテが立っている。
「そいつには俺が話をつけてやる」
だから、行ってこい。ひらりと振られた掌。ソニアが眉を寄せる。
「だけど、ティール、」
「安心しろよ殺さねェから」
「いや、そうじゃなくて…」
ネイはティールの膝を見やった。膝蓋骨を撃ち貫かれた後遺症は大きい。満足に動かない片足で戦闘の意思ある相手に向き合うなど、狂気の沙汰だ。
「まァ、ベルディテは俺やお前と近い時期にブルーバードに来た、言わば初期メンバーだからな。お前がいろいろ言いたいのもわかンだけどよ、今は止めとけ」
小首を傾げ、ティールはソニアを促す。
「それに、お前はともかく――あいつは俺を殺したくて仕方ねェんだ。たぶん」
「な!?どうして!?」
ソニアが切れ長を丸くして声を上げる。瞬間、空を連射音が引き裂いた。
「私を無視してのお喋りとは、状況がわかっていないな!」
ベルディテがFN-P90の引き金を引いたのだ。
「ほらな?今の射線は俺を撃つためのものだろ?」
「あぁ、だけど、」
容易くそれをいなしながら、ソニアも気づいていた。確かにそれは、ティールを目標にしていた。
「あいつは許せないんだろうよ。セレストに心酔してない俺を、前々からよくは思ってなかったし。その上、ツァンを呼び戻しに行って、そのまま裏切ったんだ。セレスト命のあいつが、許せるはずねェだろ。心配すんな、殺さねェし、殺されねェよ」
片目を眇めてティールは笑い、ソニアが唇を噛んだ。
「あ、そうだネイ、」
ティールは不意にネイの方を向いた。青鈍色が真っ直ぐにネイの翠緑を貫く。
「気をつけろ。セレストの傍には、ヒスイがいる」
「ヒスイ…?」
訝るネイにそれ以上を語る気はないとばかりに、ティールは背を向けた。ひらりと振られた掌。もう一方の掌には愛用の蠍。
「ツァンを、頼むぜ。そいつは、あんたが思うより死にたがりだ」
「ティール!」
Vz85をつい、と掲げ、ティールは唇を歪めた。人差し指のない右手が、ベルディテを招く。動かない足を引きずり、それでもその貌は不遜な笑みに彩られていた。
「そういやァ、その武器を選んでやったのも俺だったな。ちっとは腕が立つようになったのかあァん?試してやるから撃ってきな、箱入りの可愛子ちゃん」
完全にベルディテを下に見た発言だが、ネイは戦慄した。ティールが放つのは紛れもなくかつての、兵士の気配。掛け値なしの本気だった。かつてネイが相対し、それだけで戦闘困難にさせられた、本気の殺気だった。
「舐めてくれたなティール。後悔しろ負け犬がぁぁあ!」
なぜ、お前はその殺気を浴びて、ティールに叫べる?ネイは瞠目する。その傍らで、ソニアが遂に動いた。
「――ティール、」
呼びかけに、青鈍がちらりと視線を投げる。
「無事で」
「あァ?だァれに向かってもの言ってんだ、お前みたいな甘ちゃんと一緒にすんじゃねェよ」
スコーピオンが、毒針をもたげる。
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深夜のテンション。

人間、疲れていると何をしでかすかわかりません。
という訳で、過去の恥を晒してみる。大学三回の就活の頃に書いていた、ブルバのスピンオフという名のほもえろ短編。魔が差したんですよ、魔が。
知っている人はご自由に、知らない人もご自由に。でも18歳以下の方は、ご遠慮いただきたい。などと書く日が来ようとは。





「ガンショットグリッター、」
「あぁ?」
ぽつりとティールがネイを呼んだ。ネイはコーヒーメーカーを止め、ティールのいる窓際へ視線を送る。
ジェイが退院し、ティールが加わったソニアの隠れ家に、ネイも住みつく羽目になった。ネイのアパートはティールが爆破してしまい、今夜の宿にも事欠く状態だったためだ。おかげで賑やかなことこの上ない。
「何かしてほしいのか?それから、俺はネイだ」
マグカップを持ったまま、ティールが埋もれるソファに近寄る。片膝をネイに撃ち貫かれたティールは動き回ることができない。問いかけに、ティールは眼鏡越しにネイを見上げて笑った。
「なー、ネイ、」
無意識の躊躇いから、結局離反者の粛正を果たすこともできず、自身も酷い重傷を負ったティール。狂犬の如き戦闘を展開したが、今こうして動くことすらままならない姿は大人しく、いっそ可愛らしいくらいだ。
その唇がついっと孤を描き、包帯で巻かれた右手がネイを招く。
「えっちいことしようぜ」
ネイは翠緑を凍りつかせた。前言撤回、可愛くない。寧ろ怖い。何、この子。ネイは窓の外を見る。明るい。午後の穏やかな陽気。時計の鳩が三時を告げる。だが今はその声すら、シュールな状況を煽り立てるだけだ。次いでネイはティールの手許に収まっているマグの中身を確認した。やわらかく湯気の立つココアは、さっきついでだからとネイ自身が作ってやったものだった。
にっこりとネイを誘うティール、塩の柱のように動けないネイ。
「お前な…」
「んだよ、俺は至って正気だぜ?」
もともとがあんまり正気とは言えねぇけどなァ、とティールは声を上げて笑った。ネイは額を押さえ、げんなりと言葉を返す。
「ティール。人をからかうのもいい加減にしろ」
「本気なんだけどな」
マグをサイドテーブルに置き、ティールの青鈍色の瞳が笑いを消した。ぞくりと背筋に冷たいものを感じながらも、ネイは抵抗を試みる。
「勘弁しろよ。いくら俺でも、掘られた経験なんか――」
「は?」
ティールは眼鏡の奥で、きょとんと瞬いていた。その反応にネイも混乱する。
「何言ってんの?」
「違うのか?」
そうか、えっちいことイコールセックスと決めつけたのは短慮だったか、とネイが安堵の息を吐きかけた刹那だった。
「あぁ、そうか――こう言った方がわかりやすかったか」
にっこり、この笑顔にネイは覚えがあった。ティールがスコーピオンをぶっ放す直前の表情だ。そして両腕をネイに向かって広げ、小首を傾げて、
「抱いて?」
事もなげにティールは言い、わかりやす過ぎてネイは目を剥いた。



ブルーバード〜ベイリーズ・キス〜



「冗談…!だいたい怪我人が何言って、」
ネイが狼狽の中で台詞を紡ぐが、片足だけで立ち上がったティールに抱きつかれ、声を途切らせる。
「だって溜まるし。あんただってそうだろ、男なんだからさ。だめ?」
首に腕を絡ませられ、上目づかいに見上げてくる青鈍色の双瞳から、必死に顔を背け、ネイは逃れようとあがく。
「だめ、って、六つも年下の子どもに手を出せるか!」
「じゃあいいや」
存外にあっさりと解放され、ネイは翠眼を瞬く。ティールはすとんとソファの凹みに戻った。拍子抜けしつつも胸を撫で下ろしたネイだったが、次の瞬間、衝撃の第二波が襲った。
「二藍に頼もう」
「っ、待て!頼むから待て!二藍は十四歳だろうが!」
思春期真っ只中に男に喰われるとなれば、さすがに二藍でも性格が歪むだろう。しかも、あの妙に男前な十四歳は、ティールの誘いをあっさりきっぱり了承しかねない。
「えー、性教育としちゃあいい年頃じゃねぇ?あいつ絶対、自慰も知らねぇぜ?」
「だとしてもだ!お前のそれは何かちがうだろ!?情操教育上よろしくありません!」
唇を尖らせるティールに噛みつくように返し、ネイは頭を抱えた。何でこんな話してるんだか。
「だってシアンは触らせてくれないしプルシアは腕折っちまったし。あんたか二藍しか残ってねぇ。あ、でもあいつも鎖骨折っちまったか…」
その台詞に、ネイは半ば納得した。HIVキャリアであるシアンは求められても断るだろうし、プルシアの腕を折ったのはティール自身だ。
「ひとりで擦れよ…」
「えー、」
「じゃソニア、」
「やだ」
当然のように除外されていた人物の名前を出すと、間髪入れず否定が飛んだ。あまりにきっぱりとしたあからさまな感情に、知らず苦笑が零れた。途端に仏頂面になった唇を突き、仕返しとばかりにネイはティールをからかう。
「あんなに好きでも?」
ティールがきゅっと眉を寄せた。
「ばか。好きだからだ」
目を泳がせ拗ねたように呟くティールが、思いの他真剣な目をしていたから。絆されてやるための理由をつけ、ネイは溜息を吐いた。
「えっちいことしようか、ティール」
左側の長い髪から覗く耳に囁いて、細いがしっかりとした腰に腕を回す。
「どうした?するんだろ?」
一瞬だけ目を見開いたティールは、訝るように尋ねる。
「経験は?」
「女なら、それなりには」
ネイが答えると、ティールはちろりと舌を出した。
「ん。期待してるぜダーリン」


ティールは一見してソニアよりやや細く、肉の厚みに欠ける。使用する武器の違いもあってか、ソニアの躍動する肉の逞しさに比して、精密機械のような直線の鋭利さが目を惹く。だがインナーを脱いだティールの上体を見て、ネイは考えを改めた。
「何か面白いのか?」
怪訝そうに眉を寄せるティールを制し、ネイは不躾にその身体を眺める。
しなやかな筋肉が張り詰める、綺麗な孤をいくつも持った身体だ。スコーピオンが如何に反動の小さい銃であるとはいえ、サブマシンガンの二挺拳銃などという離れ業を行うのだ。身体が出来ていない訳がない。ティールの、肩と背筋の滑らかな隆起に指を這わせ、ネイは感嘆する。
「左が85か?こっちの方が発達してる」
「それやめろ、こそばゆい」
指先だけを何度も往復させるネイに訴え、ティールはネイの襟元に手をかける。
「ツァンに比べりゃ貧弱だろ」
「あぁ。けど、」
「それがどういうことか、あんたにわかるか?」
ネイの声を遮り、ティールは唇の端を吊り上げる。その間ぷちぷちと釦を外す行為を止めはしない。両手の人差し指が使えないというのに、器用なものだ。
「ナイフか銃かの違いだろう?」
ティールは声を立てて笑った。露になったネイの白い胸元に縋って舌を這わせ、目を細める。
「ちょっ、」
「ハズレ。残念だな」
「そこで喋るな、っ痛!」
素肌に他人の吐息が触れる感触。ぞわぞわと身を震わせたネイは、突然走った痛みにティールの肩を掴んだ。
「〜〜っ、噛むなよ」
ティールの犬歯が鎖骨に喰い込んでいた。皮膚を破られなかっただけましかと溜息を吐く。ティールは歯の形に凹んだ皮膚を労るように舐め、ちゅっと吸いついた。
「答がわかったらいつでも言えよ。御奉仕するぜ?」
ネイは渇いた笑いを零し、曖昧に頷いた。
「そういやお前、肋骨やってたな?胸触らない方がいいか?」
「やだ」
「やだってお前ね…下手したらズレて刺さるぞ?」
ネイはくっきりと残るソニアの手の痕を示す。胸骨の辺り、赤黒く痣になっていた。
「あのばか野郎は、肋を外しただけで折っちゃいない。だからあいつは甘いって言うんだよ」
さすがに俺でも折られりゃ動きも鈍ったさ、とティールは言うが、脱臼で済んだにしても普通は動けない。何より吐血していながら。
「ティール、」
ん、とティールが顔を上げる。その身体に刻まれた銃創と刃創、どうしてついたのかわからない痕の数々。蜘蛛の巣の様に、ティールの身体に張り巡らされたそれは、戦歴を物語るものだ。
「あぁ、それ散弾の痕な。まだ内に残ってんだ」
脇腹に広がる斑点状の奇妙な痕をなぞると、聞かないうちに答が返ってきた。
「散弾て…大丈夫なのか?」
「そりゃよかぁねぇだろうよ。金属が身体の中に潜り込んでるんだから。でも今さら取り出せねぇし」
「痛くないか」
「痛かねぇよ。撃たれた瞬間だって痛くなかったんだか、ちょっと待てネイ、そこ舐めんな、っ、」
ティールが身をよじり、小さく呻く。ひちゃりと音を立てて舌を離したネイは、人の悪い顔で笑ってボトムに手を掛けた。それを見たティールが片目をすがめる。
「いつの間にか乗り気じゃねぇ?」
「お前に主導権やりたくないからな」
「余裕のねぇ大人だなぁ」
「何とでも言え」




魔が差したんです。続きを晒すか、思案しております。
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サンクチュアリ2

昔々、「白い花の咲く杏の木の下で、捨てられていた赤ん坊に乳を含ませる泥棒」という絵本を見たことがある。本当のタイトルは忘れたし、残念ながら中身がどんなストーリーだとかは一切わからないのだが、それをモチーフに書いてみたいなぁと思っていた。




「で、あんたは?」
「ただの通りすがりだ」
痩せて禿げた神父は、赤ん坊と若い男を交互に見、眼鏡をずり上げた。
「よく似とるが、あんたの子じゃないのか」
言われて目を落とせば、双子の目は翠緑で、髪はふわふわの栗毛。確かに、クリスの容貌も翠眼に茶髪だが、そんな子どもは世の中にたくさんいるはずだ。申し訳ないが、と神父が背を向ける。
「うちは孤児の引き取りはやってない。世話する人間がいないからな」
「待て待て待て!だからってこの雪の中どこへ行けってんだよ!」
足の裏が痺れるようだった。寒さからではない。罪悪感からだ。教会などクリスが――殺し屋が、踏み込んでいい場所ではない。百も承知だが、仕方がなかった。ただこの雪が止むまでは屋根を貸してほしいと、クリスは切実に願った――腕の中にいる、ふたつの温もりのために。
「雪が止んだら、都市の大きな孤児院に連絡するさ。それまではあんたもここにいろ。俺みたいな年寄りひとりじゃ、赤ん坊ふたりも面倒見られないからな」
神父はそのまま、ミルクを温めに行ってしまった。
「よかったな、お前らちゃんと行くところがあるらしいぞ」
両腕にそれぞれひとりずつ、抱いた赤ん坊に話しかける。両腕を完全に塞いでしまうなど、本来なら絶対に避けるべき行為だというのにクリスは構わなかった。むにーっと頬を引っ張られ、思わず苦笑を零す。
赦されたいわけではない。今までやってきたことから、逃れるつもりもない。罪滅ぼしなんて、それこそエゴだ。赤ん坊ふたり助けても、クリスにはそれ以上に殺してきた過去がある。今夜にしてもそうだった。教会など踏み込んでいい場所ではない。わかっている。
わかっているけれど、ジーザス――俺はここにいてもいいのだろうか。
感傷的なクリスの気分に、赤ん坊の体温は心地よく染みた。教会の中は暖炉のおかげで温かい。さっきよりも活発になった双子は、やりたいほうだいにのクリスの頭を掻き回した。その産着に、よく見れば刺繍がしてある。
「ニールと、リーアムか…お前ら、本当に俺と同郷だな」
いずれも故郷の名前だった。懐かしい響きに、今日の俺はどうかしているとクリスは頬を緩めた。ライ麦で中毒になるほど、この国に染まったつもりはなかったのに。
「おい、」
やわらかな感情が明確になる前に、老神父の厳つい声が思考を遮った。
「悪いが表に警察が来てる。出てくれないか」
哺乳瓶を手に戻ってきた神父の台詞に、クリスの笑顔が凍りついた。

『逃げろクリス、』
冷えていく腕から赤ん坊を解放し、言われたとおりに表へ向かう途中だった。電話越しに聞こえる仲介屋の声は、いつになく引き攣っている。
『あンの依頼人、自首して洗いざらいぶちまけやがった。ルートを割り出されちまって、危うく捕まるとこだったぜ。確定じゃあないが、誰かが情報を売りやがった。お前もすぐに逃げねぇと危ねぇぞ』
「あぁ――もう、手遅れだ」
完全に、手遅れだ。連絡感謝するとだけ告げ、クリスは電話を切った。
「坊や、お前は仲介しただけだし、業界の情報を持ってる。利用価値は高いから、何とかなるだろうさ」
ひとりごち、クリスは手袋のない両掌を広げた。大きな正面扉の前に立ち、掌を見つめ、自問する。
俺は実行犯だ。この手で、殺した。金のためにしたことだ、酌量の余地はない。逃げるなら今だ。今しか、逃げられない。今なら、逃げられる。この扉を開ける必要も、俺がここにいる必要も、ない。

それなのに、どうして、

「神父さーん、凶悪な殺人犯が入り込んでる可能性があんだよー。中を見せてもらえたらすぐに帰るからさー…うー寒ィ」

どうして俺は、逃げようとしないのだろう。

「神父さーん、頼む寒いから早く開けてくれー…!」
間延びした声は、警官のものらしい。顔まで知れているとは思わないが、クリスはは扉を開けられなかった。開けられないのに、なぜ、逃げようとしない。クリスの自問は続く。矛盾している。矛盾している、のに――ふにふにした掌だとか、故郷の名前だとか、焦ってしまうくらい盛大な泣き声だとか、ほこほこ湯気が立つくらい温かい身体だとか、ぱたぱた動く手足の小ささとか――やわらかい感情は、明確になってしまった。
あの赤ん坊たちが、ニールとリーアムが、愛おしい。ふたりをここに置いて逃げたくない。
「性質が悪ィ、」
両手で顔を覆って、クリスは自分を嘲笑した。咎められるべき、この俺。やりなおしができる人生だったとは思えない。誰も傷つけずにここまでくることは、クリスにはできなかった。自分のエゴで人を傷つけてきた存在が、あのふたりを愛おしい、なんて――性質の悪いお笑いだと、自嘲する。
「おい、あの赤ん坊ふたりとも、お前さんの姿が見えなくなった途端に泣き出しやがって――どうした?」
追いかけてきた神父の険しい表情を見返し、クリスは小さく笑った。
「俺を捕まえに来たらしいんだ」
親指で扉を示し、銃を取り出して見せる。それで全てを察した神父は、がしがしと白髪頭を掻いた。
「で?俺を殺して、逃げるつもりかい?」
落ち着き払った態度に面食らいながら、クリスは首を振った。
「あんたに死なれたら、あいつらふたりはどうなるんだよ」
「なら奥へ戻れ。ミルクやってこい」
「――ちょっと待て、何言ってんだよ、俺は、」
言い募るクリスに、神父はずいと人差し指を突きつけた。
「教会は聖域だ。ここにいる間は罪を犯していても、聖なる保護が与えられ、世俗権力からの干渉を免れることができる――随分と古臭い考えだがな」
「っ、」
息が止まる。ずきずきと痛むのが何なのか、わからなかった。赦されたいわけでも、逃れたいわけでもなかった。それなのに、クリスは守られていた。この教会に、あの赤ん坊ふたりが導いた聖域に。
「――ニール、リーアム…かみさま、」
愛してる。ならば尚のこと、思い知る必要がある。
「あの赤ん坊たちを、頼むよ爺さん。名前は産着に刺繍してあるから、見てやってくれ」
清しい思いで、クリスは扉に手をかけた。
俺は、俺の罪咎を思い知らなければならない。
ここから出て、向き合わなければならない。この場所にいれば、俺は安心していられる。ふたりの赤ん坊への愛しさを、ただ噛み締めていられる。だが、それではだめなのだ。
「せっかく逃げ道を用意してやったのに、難儀な性格だな」
神父がやれやれとばかりに笑った。赤ん坊の泣き声が大きくなっている。踵を返しながら、神父は不意に聞いた。
「お前さん、名前は?ファミリーネームは持ってるか?」
「――オブライエンだ。クリストファー、オブライエン」
答えながら、クリスは手に力を込めた。遠ざかる神父の足音。一度だけ振り返れば、ひらひらと手を振られた。
「赤ん坊ふたりは老体には厳しいが、何とかするさ。心配するな」
ふたりの小ささ、やわらかさ、温かさ――それに対する愛しさを、クリスは噛み締める。
愛してる。会って間もない双子、けれど際限なく愛おしい。だからこそ、俺はここから出る必要がある――次に出会うとき、ふたりを躊躇いなく抱けるように。
ただそれだけを思い、クリストファーは安心を手放した。
「メリークリスマス、御勤めご苦労様」
眠たげな警官に明るく声をかけて、両手を差し出す。
「俺はクリス――あんたらが探してる、凶悪な殺人犯だ」

次に出会ったときには、ふたりを躊躇いなく抱けますように――そのためなら、たとえ、聖域と引き換えにしてでも、



終。

BGM:kokia『安心の中』
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サンクチュアリ

来年はもう少し真っ当な生き方ができますように。呟いたが『真っ当な生き方』がどんなだったか、思い出せなかった。よくよく考えれば、これ以外の生き方など、クリスは知らない。知りようのないことを、願うだけ無駄である。口に入った返り血を吐き出し、手の甲で頬と唇を拭う。真っ赤なオーナメントは血で染められていた。殺し屋とは、誰かの呼吸を奪って生きる存在だ。
「ごめんなぁ、聖ニコラスじゃなくて」
嘯いたクリスは、眠る子どもに向かって引き鉄を引く。消音器のくぐもった銃声。部屋の隅では、小さなツリーが変わらず電飾を瞬かせていた。


サンクチュアリ


「よぉ珍しいじゃねぇか」
仕事を終えた足で、クリスは仲介屋を訪ねた。聖夜に受けるには少々気分の悪い仕事だった。ある一家の惨殺。クリスは、業界では安いランクの殺し屋であり、依頼を選べない。依頼人はクリス程度の相手ならば、顔も見せない。普段は気にも留めないことだが、今回は無性にその顔を拝んでみたかった。
「聖夜に仕事たぁ勤勉だなぁクリス。名前が泣くぜ?」
「煩い黙れよ坊や。それより先方は?どうなってる?」
顎を擦りながら嘲笑するヤンキーに毒を返しながら、内心で自分の名前を嘲った。
クリス。正しくはクリストファー。クルスにもクリスマスにも通じる音だが、まるで似合わないと思う。
「もう硝煙の臭いもしねぇなんてな。怠惰なカトリックとは思えねぇ」
「――金は?」
「おいおい、いいのか?清貧の徒たるカトリックが聞いて呆れるぜ」
「そりゃてめぇの勝手な思い込みだ。本気で神さまを信じてたら、今頃こんな職に就いちゃいねぇだろ。違うか?」
肩をすくめ、クリスと仲介屋は笑いあった。これくらいが丁度いい。神さまの敵には、これくらい滑稽な現実が似合っている。
「渋ってんだよ支払いを。ふざけやがって」
「――坊や。てめぇの持ってきた仕事だ、責任を持てよ?」
目を細めて薄く笑ってやると、舌打ちが返る。持ってきた仕事の支払いが成されない、すなわち契約不履行。それを発生させたとなれば、仲介屋の信頼に傷がつく。
「わかってるさ。きっちり揃えて明日の朝だ。靴下用意して待ってろ」
どこまでも今日に――クリスマスに固執する仲介屋に苦笑しながら、クリスは踵を返した。こんな『悪い子』にプレゼントもないだろう。下らないジョークだ。

少し呑み過ぎた――思いながらパブの扉を押す。背中に響くどんちゃん騒ぎ。この国の連中は本当にお祭り好きだと嘲りを零すクリスは、ここの出身ではない。連中が呑んでいるのはシャンパンではなく、ライ・ウイスキー。ウイスキーなら、クリスが生まれた国こそ本場だ。麦角中毒を起こして死ぬがいい。白く立ち上る息を眺め、クリスは顔をしかめた。火照った頬を冷ますどころか、一気に体温が奪われる。
「ホワイトクリスマスか」
温暖化の最近では珍しい、細やかな雪。薄いコートの内側でぴりぴりと皮膚が攣る。クリスは指先を動かし、手袋を引っ張り出した。手は商売道具、かじかんで動かないでは話にならない。だが今夜は聖夜だ。銃を抜くような事態が起こるなら、神さまは相当な性悪だろう。思った矢先、クリスの耳に不気味な物音が届いた。
「おいジーザス、」
今日は復活祭ではなくて聖誕祭だ。殺し屋であるクリスには山ほど憑いているだろうが、死霊の復活は御遠慮願いたい。へらりと笑いを零した途端、また聞こえる。中毒を起こしているのは俺の方か。アルコールで耳が馬鹿になっているのだと自分に言い聞かせながら、クリスはコートの中に手を忍ばせた。か細い呻きのような、女の泣き声のような、声が、確かに、
「、ひゅー。頼むぜ…せめて銃で退治できるやつにしてくれよ」
信心深いのはクリスの故郷の美徳である。仲介屋にはああ言ったが、クリスも例外ではなかった。しかし殺し合ったとして、エイリアンに勝てる自信はあるが、ゴーストやバンシーには間違いなく、負ける。
がさり、と植え込みが揺れた。咄嗟に振り返ったクリスは、愛銃に手をかけたまま拍子抜けする。
ふにふに泣きながら手を振っているのは、赤ん坊だった。それもふたり。一枚の毛布の両端を握り締め、ぴったりくっつきあっている。
「はは…驚かせるなよ」
片方の産着に留められたクリップには走り書きがあった。
「『可愛がってやって下さい』…おいおい、こんな日に外に放り出したら、可愛がってやる前に凍え死ぬぞ」
いっそ無責任ささえ感じるメモ書きに呆れていると、赤ん坊の鼻の頭に白い結晶が張りつき、くちゅんと小さなくしゃみを生んだ。むずかるそれに手を伸ばし、抱き上げようとした刹那、脳裏を鮮やかな紅が過ぎる。
「――な、に、やってんだ俺は」
フラッシュバックするのは、今夜の仕事だった。眠る子どもの穏やかな顔。それに、クリスは弾丸を撃ち込んだのだ。何も知らない子どもを殺したこの手で、なぜ、赤ん坊を抱き上げることができる?放置した相手を責めることができる?お笑いだと思った。こちらの方がよほど性質が悪い。咎められるべきは、
「お、ぁ」
みぃみぃ鳴いていた赤ん坊の片割れが、不意に呼吸を止めた。焦って覗き込んだ瞬間、聖夜を突ん裂く泣き声が盛大に響き渡る。片方が泣き出せば、もう片方もじわっと涙を溜める。
「ちょっ、まて、な、あ、ぁぁあぁ畜生どうしろってんだよ…!」
焦っている間に、泣き声が二重奏になっていた。目を閉じて呼吸をひとつ、躊躇いをかなぐり捨て、毛布ごとふたりを抱き上げる。
「なぁ泣くなって」
小さなふたつの丸い生きものは、容赦なくクリスのセーターを掴み、涎を垂らし、髪を引っ張る。ほこほこ湯気が立つくらい、熱を発して泣き喚くのをやめない。これでは体温が下がっていくだけだ。
「あ、」
幸いにしてクリスの目線の先には、ちゃんと明かりのついた教会があった。





季節外れにもほどがあるが、イリアッド兇膿斥佑砲弔い峠颪い討燭藥廚そ个靴織侫薀哀瓮鵐函
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Beautiful day

過去フラグメント再掘。



俺の兄は三歳年上で、名前を縁という。家族の中でこの兄は、ひとりだけ姓が違った。

「いってきます、母さん」声をかけると食器を洗う音が止んで、母が暖簾の隙間から顔を覗かせる。
「今日は遅いの?」
「いつも通り」
「そ。いってらっしゃい、歩くん」
スニーカーの先を地面に打ちつけ、ドアを開ける。外は泣き出しそうな曇り空。はらはらと落ちる薄紅の花弁は、明日にはもう水溜まりに浮かんでいるのだろう。一旦頭を引っ込めて紺色の雨傘を掴み、今度こそ家を出る。何もかもいつも通り、これが俺の日常だ。
――兄がいないことすらも含めて。

父が再婚したのは二年前、俺が十六歳のときだ。
俺の実の母は、俺の出産によって亡くなった。父はそれを感じさせない育て方をしてくれたが、いずれは知れることで。そうしてそれは俺のトラウマになった。新しく母ができると同時に、兄ができた。三歳年上の兄は、父と養子縁組をせず、家族の中でただひとり違う姓を名乗った。
『いつかのためさ』
兄はいつも、そう言っていた。
『いつか訪れるいつかのために、俺はこの方がいいのさ』
言葉遊びのようなそれが、結局何のことかわからないまま『いつか』は訪れたらしい。一年前に短大を卒業し、就職と同時に家を出た兄は、それっきり音信不通になった。兄の後ろ姿を彩ったのは、灰色の曇り空と散り逝く薄紅。門出には不似合いだと、笑って、見送った。

思い当たる理由が、ないわけではない。母は、前夫の暴力に耐えきれず離婚していた。そして兄は、母よりも兄の実父――暴力的な前夫に似ていた。それは、母が怯えるほどに。

雑踏を歩きながら、いつも視線を送る場所がある。自転車通学だった兄が、雨の日に利用していたバス停。徒歩で高校まで行く俺の頭を撫でて、手を振って、別れる。あの日もそうだった。そうやって、別れた。
俯いて本を広げて、立ったまま読みながらバスを待っていた。その、くせっ毛が風に煽られる様子だとか、顎のラインだとか、眇められた目だとか。曇り空に兄の姿を追って、朧な記憶はその度に温い痛みを伴い、俺の胸を灼く。
けれど今日は、
「ゆかりさん!」
実体を持ったその姿は、俺の心臓を貫くようだった。
「――あゆむ、か」
躊躇いがちに俺の名前を呼び、兄は困ったように微笑んで、本を閉じた。
「縁さん、」
兄は一度も『兄』と呼ぶことを許してくれなかった。名前で呼んでくれと言われたときには、わからなかった。それが『いつか』のためなのだと――いつかの訣別のためなのだと。それなのに癖というのは恐ろしい。俺は兄を、名前でしか呼べなかった。
「縁さん、」
「歩、学校は?遅れるぞ?」
「誤魔化すな!」
泣き出した空、湿気た風のせいで、兄の髪はぺたんと寝ていた。黒く艶やかに、豊かにうねるくせっ毛。母のやわらかな猫っ毛とは似ても似つかない、兄が『父』から継いだもの。
「何で連絡寄越さないんだよ!教えてくれたアパートも引っ越して、転職までして!」
「ん、まぁ…いろいろ思うことがあってさ、」
目を眇めて笑い、俺の頭を撫でる。少し痩せたのかもしれない。会わない間に兄は、少し、変わったような気がした。全く変わっていないような気もした。
「思うことって何だよ…それは母さんを――あんたが守ってきた人を置いてくほど、重要なことなのかよ!」
噛みつく俺に、兄はあくまで冷静だった。ひっそりと、自嘲するように微笑み、
「母さんが一番怖がってたのは、俺だよ」
息を呑んだ。そんなことはないと叫ぶには、心当たりがあった――あり過ぎた。
『今ここにないものは、必要ないものなんだ』
俺と父だけの寂しい家に、来たばかりの兄は言った。実の母を殺した俺は今、新しい相手を見つけた父さんにとって、必要ないのだと思い込んでいた。その俺に、兄は言ったのだ。
『だから俺にも母さんにも、あいつは必要ない』
その『あいつ』こそが兄の実父。兄を生み出した人なのに、それでも兄は必要ないと言い切った。
『だけど歩と父さんはここにいる。母さんにはふたりが必要なんだ』
無理のある理論だった。高校生にもなれば、すぐに気づくことのできる矛盾だった。反論もすることはできたが、俺は黙って頷いた。兄が俺を思って言っているのだと知れたから。
けれど、兄は、
「俺がいなくなって、歩、お前は何か変わったか?」
兄は静かに諭すように、尋ねた。変わらない。兄がいない、それすら日常になってしまった。だが俺は唇を鎖し続けた。
「なぁ、歩、あの家族は変わったか?」
変わらない。変わっていない。それは父と母の努力の結果でもあるし、兄の根回しのせいでもある。だが変わらないと、言えば、兄の無茶苦茶な理論が成り立ってしまう。今ここにない兄は、必要ない人になってしまう。それだけは赦さない。それでは、兄が、
「縁さん――兄さん」
兄さんと、呼んだとき。兄は小さく微笑み、目を背けた。
「呼ばないでくれよ。錯覚しちまう」
あの場所に、俺の居場所がある、みたいに。

空が緩やかに泣き出して、しかし兄は傘を持っていなかった。
「歩、もう行きな。遅れるだろう?」
ぽつりと、兄の頬に落ちたのは降り出した雨粒で、涙ではなかっただろう。だが俺にはそれが、泣かない兄の涙に思えて仕方なかった。帰れないことを、己の意志だと思い込みたいこの人が、決して自分に赦すはずのない涙。それが悔しくて、俺は兄に傘を差しかけた。
「持って行けよ」
「歩、」
「いつか俺に返しに来いよ」
きょ、と兄の目が見開かれる。同時に傘を拒む手の力が強くなった。
「無理だ。できない。それにお前が、」
「俺のことはいいから、持っていてくれよ。それを返しに来たときに、見ればいいんだ。あの家にあんたの居場所が、本当にないのかどうか。あの場所にいないあんたが、本当に必要ないのかどうか――兄さん、」
押し黙る兄に無理やり傘を握らせ、俺は雨の中を駆け出した。紺色の雨傘が、遠ざかる。バスが来た。兄は行ってしまう。けれど俺は振り返らなかった。兄は来るだろう。あれで律儀な人だ。そのときに、思い知るがいい。

美しい日だった。
空は泣いて、俺は傘を持たずに走っていて、それでも美しい日だった。
錯覚すればいいんだ。あの家に、あんたの居場所は確かにあるんだ。ここにないから必要ないなんて、悲しいことを言わないでくれよ。
あんたが帰ってくる『いつか』のために、兄さん、もう名前でなんか呼んでやらない。



終。
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人魚の残映3

どうも口説いフラグメントになってきた。ディズニーが童話の続編を創っては、いまいちにしかならないのと同じだ。



「お前馬鹿だなぁ。みすみす寿命を縮めたんだぞ」
そう声をかける同僚に、俺は肩を竦めた。話が通じないのはわかっている。最早否定することすら面倒だった。メロウの優位の絶対を、誰もが信じて疑わなかった。俺にはそれが信じられない。アーヴィング中尉が、十四年前を生き延びたあの人がだめだと言うのだ。これ以上の確証があろうか。
「ドラッケンで戦うさ」
そう笑った俺に、同僚は憐れむように言った。
「それが馬鹿だって言うんだよ」
「なら俺は馬鹿でいい」
「ギア…あの人に操立てするのは勝手だが、それで死んだら話にならな――」
そのとき、作戦番号47の実行を告げるサイレンが鳴った。メロウの、初の実戦だ。俺は、この作戦の行き着く先を予感していた。
「中尉」
あなたがどんな思いで、メロウの試験飛行に携わったかくらい、俺にも想像できる。あなたを見る度、その背を覆う銀の残映を、あなたの中に燻る慟哭を感じては、あなたの魂に触れたかった。
「アーヴィング中尉」
あなたはもう誰も、あの人の二の舞にしたくないのですね。
「すみません、中尉…俺には、止められない」
メロウは墜ちる。だが俺には何もできない。主力と目されているメロウが墜ちれば、ドラッケンに搭乗しているこちらの身も危険に晒されることになる――けれど、墜ちることなく帰ってきたら、せめて笑顔を見せて下さいますか。
「あなたのために、帰ってきます。だから、あの人の代わりでいいから、シェイ――抱き締めさせて下さい」
飛行帽を被り、ゴーグルを下ろす。出撃の刻はもうすぐそこにあった。
フットバーを踏み込み、加速する。空に昇る刹那、視界を駆け抜ける銀の光。それは確かに、鋼銀の翼を反射する光だった。あの翼を、俺は得る。あの翼を得て、あなたのもとへ帰る。

シェイ・アーヴィング空軍中尉の謹慎は、空軍にとって想定外だった。作戦番号47は、アーヴィングがメロウに乗ることを大前提として立案された。
「アーヴィング」
アーヴィングの直接の上官であるブラッドベリ少佐は、営倉の中で沈黙を保つアーヴィングに静かに呼びかける。
ジェフェリー・ブラッドベリはかつて正規軍のエースと言われ、リドリー・ホークアイと並べられる腕の持ち主だった。ブラッドベリは既に飛ばない。自ら階級と引き換えに、翼を失った。それは下層階級民への差別のない社会を創る、礎のひとつだった。
「君がドラッケンにこだわる理由が、わからないではない」
かつて下層階級出身の飛行士が、正規軍と差別されていた頃、ドラッケンは正規軍の宝だった。そして、シェイ・アーヴィングにとっては盟友を象徴する機体だ。
「水臭い口調になったな、ブラッドベリ」
営倉の中で、アーヴィングはくつくつと笑う。
「アーヴィング中尉」
「お前がいながら、なぜ止めなかった。かつての軍とは違う。俺たち捨て駒の下層階級民だけがいる軍ではないんだぞ」
詰る口調に、ブラッドベリの唇が引き結ばれる。諦観を孕んだ苦笑が聞こえ、アーヴィングが扉の向こうで謝罪する。
「今さらか…すまん。お前はもう飛べないというのに」
「いや、それよりアーヴィング」
「ひとつでいい。答えろジェフ」
かつての愛称でブラッドベリの言葉を遮り、アーヴィングは問いを投げた。
「俺が謹慎を解かれるためには、メロウに乗ればいいのか」
ブラッドベリの青い目が見開かれた。
「シェイ!」
「お答え下さい少佐。私がこの謹慎を解かれるために必要な唯一は、メロウに乗ることですか」
思わず名を呼んだブラッドベリに対し、アーヴィングは上官に対する口調で尋ねた。私情を挟むなという、暗黙の牽制だった。
「メロウは!お前が最もよく知っているはずだ!」
「お答え下さい、ジェフェリー・ブラッドベリ少佐」
扉越しのその強い声に、ブラッドベリは天を仰ぐ。灰色の天井は、あの日の残映すら見せてくれない。だが営倉の中の彼女は、確かにそれを見ている。十四年前の、あの日の空を――あの日から変わらぬ天藍を。
「お前ひとりが墜ちたとて、今さら何も変わらん!俺も臓腑が煮える思いで、今まで過ごして来たんだ…!」
「俺が受けたような仕打ちを、今の飛行士連中は知らない。それは確かにお前のおかげだ。ジェフ、今さらこの身体に未練などないさ。この身体以上に亡くしたくないものがある。リディが死んだときの、あんな痛みはもうたくさんだ。もう二度とごめんだ」
そこまで言い切り、アーヴィングは一言謝った。
「すまない…もうひとつだ。エゼルレッド・ギアはメロウに乗っているか?」

確かに速い。メロウの飛行速度を間近で確認し、俺は驚嘆する。メロウは機体を軽くするために極力部品を減らしてある。ドラッケンを駆り、その速度に追い縋る。風圧と重力加速度が身体を叩き、シートに背中が食い込んだ。操縦席の中で何度も思い返した感触だ――棺桶に入れられた感触とはどんなものだろう。
『散開しろ。来るぞ!』
無線が告げた瞬間、天藍を裂いて光の弾が走った。ドラッケンの翼を翻す。敵機の白い胴体がドラッケンの腹を掠める。操縦桿を引き付け旋回、機銃の発射ボタンを押し込む。金属の悲鳴が音高く響き、白い胴体が黒い煙を吐き出した。
鋭い風切音に目を向ければ、白い機体の間を疾駆するメロウ。機銃が無尽に白を蹂躙する。
『さすがに速いな』
「あぁ。――!」
頷いた途端、視界の外で、銀の欠片が宙に舞った。
メロウの速さは、その儚さゆえのものだ。部品は少なく、装甲は薄い。雷のような音を立て、銀色の胴から鱗が剥がれた。しかし最悪はそれだけではなかった。
『いぎぁぁあぁあ!?』
無線が零した凄まじい悲鳴は、重力加速度によって骨を圧し折られる音を伴っていた。飛行士が、メロウの速度に耐え得る身体を持っていないのだ。飛行士が声を発さなくなると、銀の機体は一直線に墜ちていった。
ぞっとした。一歩間違えれば、ああなるのは俺だった。だがそれ以上の恐怖は、アーヴィング中尉がああなっていたかもしれないということだ。中尉はメロウの開発段階から、あれに乗っていたのだ。
『ギア、正面だ』
メロウに気を取られながらも、無線の声に機体を振る。何もない空間を、機銃の吐き出す光弾が彩る。擦れ違う刹那、敵機の翼をこちらの機銃がもぎ取る。くるくると墜ちる白。黒煙が一瞬視界を遮る。
『ギア!』
警告に身構える。黒煙の向こうには白い編隊。咄嗟に機首を上げ、垂直上昇する。尾翼の真下を白い機体が過ぎる。操縦桿を引き付け、捻りながら後方に一回転する。身体を斜めに引き千切る加速度。俺がドラッケンに乗って、初のアクロバット飛行だった。思わず苦鳴が喉を衝いた。
「っぐあ、ぁ!?」
アーヴィング中尉は平然と熟す技だというのに、こんな苦痛を伴うのか。真っ赤に染まる視界に、白い編隊の背中が見えた。指の感覚は生きている。機銃の発射ボタンを強く、強く押し込んだ。頭上から降り注ぐ弾丸に、白い機体が乱れる。編隊を立て直す時間稼ぎに、一機がこちらへ向かってくる。
『ギア!応答しろ!ギア!?』
警告を発する無線は無視した。歯を食い縛り、喉奥に感じる血の味をも無視する。墜落と紙一重の一騎打ち戦法。敵はそれを望んでいる。否、ぶつけてでも俺を墜とす肚だ。だがドラッケンに乗っている今、俺は負けるわけにはいかない。
特攻をかける白い機体をかわし、交差する一瞬に命をかける。風防の外を流れる空気が、酷くゆっくりと動いて見えた。
――今、
耳元で、声が聞こえた気がした。一撃離脱戦法の方が生還率が高いと言われながら、一騎打ち戦法に拘ったあなたの。導かれるように、ボタンを押し込む。
破砕音、破裂音、爆音。白い胴が弾ける爆風に乗り、その場を離脱、態勢を立て直す。その脇を、残映が駆け抜けた。
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人魚の残映2

続き。



帰投命令を受け、帰ってきた後も、俺はしばらくそのままドラッケンから降りなかった。操縦桿を手放し、深く溜息を吐く。身体が泥のように重い。中尉はもう機体を降りただろうか。いつものように、颯爽と歩き去ってしまったのだろうか。
敵国との戦闘は日に日に激化していた。今日は、共に入隊した新米が逝った。銀翼の破片を振り撒いて、ドラッケンを棺桶に墜ちていった。
――あなたの夢ばかり見る。
ゴーグルを外し、飛行帽を外し、操縦席の中で丸くなる。共同墓地の墓標の中、そのひとつがあなたで俺だ。俺は楔になれない。あなたを地に縛る楔になれない。
――あなたが墜ちる悪夢ばかり見る。
戦争の激化は、地上で日常を暮らす住民たちには、まだ何の影響も出ていない。それだけが幸いだった。

新型戦闘機の披露式典は、素晴らしく大々的なものだった。戦局を打開すべく推し進められたのは、戦闘機及び戦術の改良だ。そして完成した新たな武器は、やはり美しい十字を描いていた。
N0008メロウ。それは我が国初の水上戦闘機だった。着水が可能で、エンジンを停止させれば電池の温存も可能になる。編隊による攻撃を仕掛ける敵国に対して、数で劣るこちらは奇襲と一対一で戦うしかない。万一深追いしても、無茶な切り込みをしても、逃げきって生還するための機体だ。速度に関する性能は、敵国のそれとほぼ同じにまで引き上げられた。最高到達速度に至っては、敵国をはるかに凌駕する。
それが披露されたとき、軍内で唯一、歓声を上げなかった人がいた。
「メロウは駄目だ!実戦で使える機体じゃない」
式典の最中に設計師に詰め寄ったアーヴィング中尉は、拘束されて引き剥がされ、そのまま謹慎を命じられた。
「どういうことだ。俺に試験飛行させておいて、全く改良がされていないじゃないか!言ったはずだ。この強度では、少しでも無理な運動をした途端、空中分解するぞ!」
羽交い絞めにされながら、中尉はそう叫ぶ。この人が新型の試験飛行などという危険な任務に就いていたことなど、はじめて知った。俺には一言だって言ってくれなかった。何度も抱き合って過ごしたのに。やはりこの人は俺を対等と見てはくれない。今そんな些細なことを気にしている場合ではない。だが俺の心臓には小さなしこりが残った。
「無理な運動などしなければいいのです。我が国の空軍飛行士たちは優秀だ。シェイ・アーヴィング中尉、あなたを含めて、ね」
開発責任者が自信たっぷりに言う。その言葉は飛行士たちを称えるものだ。飛ぶことに並々ならぬ誇りを抱いている飛行士たちが、喜ばないはずがなかった。再び歓声に包まれた会場で、中尉ががくりと項垂れる。
機体の駆動不良で親友を失った中尉は、知っているのだ。どんな技量を持っていても、どんなに優秀であろうとも、墜ちるしかないときがあるのだと。
「エゼル、エゼルレッド、お前はあの機体に乗るな。メロウには、絶対に乗るな!」
必死の形相でただそれだけを告げ、中尉は引き摺られていった。開発されたばかりのメロウの機体数は限られる。それに搭乗するために、いわゆるエース級の飛行士のみが選抜された。アーヴィング中尉を筆頭に、俺もその中に含まれていた。
「辞退申し上げます」
俺の言葉に驚いたのは、空軍大将だけではなかった。資格証を手渡そうとした姿勢のまま、大将は俺の正面で困惑している。
「何をふざけたことを。中尉の言うことなんか真に受けるなよ」
周囲の同僚たちは、口々に俺を諭す。
「エゼルレッド・ギア、N0008メロウへの搭乗を辞退させていただきたく思います」
俺は繰り返した。アーヴィング中尉が乗るなと言ったのだ。中尉が俺を思ってくれている証があの言葉なら、俺は死んでもそれを守る。たとえそれが世界の正しさに反抗しても、貫いてみせる。
頑なな俺の様に業を煮やしたのは、メロウに搭乗できない飛行士たちだった。
「色惚けしてんじゃねぇぞ若造!」
「あの売女にみすみす名誉を奪われるつもりか!それでも市民階級出身者か!」
口汚い罵りは、中尉が下層階級出身であること、数少ない女性飛行士であることを蔑む。地上では未だに差別は消えない。施策は改善されたが、人の心は十年以上経っても簡単には変わらない。だが空では、あの人に敵う相手などいないのだ。中尉より高く飛ぶ人間はいないのだ。
ホークアイ大尉がそうであったように。
「辞退申し上げます、大将」
俺は決して、資格証を受け取らなかった。それが今、俺が中尉に捧げられる精一杯だった。
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人魚の残映1

剥製の鷹の続編。アーヴィングの後追い自殺編とも。



最期に呼んだのが俺の名前であってくれたなら、どんな無茶をしてでも、あなたのために飛べたのに。それなのに、よりによって――よかったね、きっとあの人が迎えに来てくれたんだね、などと笑って見送ることはできなかったけれど。
あなたを、いかせたくはなかったけれど。

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F0016ドラッケンの操縦席から、ひらりと飛び降りた小柄な飛行士は、そのまま毟り取るように飛行帽とゴーグルを外し、あっという間に歩き去った。
「今日の撃墜数もアーヴィング中尉が断突、か」
「あぁ。六機だ」
囁く声には羨望と畏怖。真っすぐ伸びた背筋、俺たちのものとは比較にならないほど汚れた飛行服。全てに興味がないような、あの人の機体の操縦席に、一枚の写真が貼ってあるのは周知の事実だ。しかし誰もそれに触れたことはなかった。
シェイ・アーヴィング空軍中尉は、今年で三十六になる。十六歳で志願して飛行士になったと聞いているから、三十代の若さでありながら既に老練の域だ。実際、達観した黒瞳は実年齢以上の老成を感じさせ、俺たちのような新参の飛行士には少々近寄り難い存在だった。
だから飛行士同士で話題になるはずの、操縦席の写真についても――そんなところに持ち込む写真は大概が恋人か家族だが、アーヴィング中尉は下層階級出身の孤児で、しかも独身だ。自ずと答は決まってくる――本人の目が届かない場所で、下世話な憶測ばかりが飛び交っていた。

俺が飛行士に憧れて家を飛び出したのは、十七のときだった。そのときの俺は、何のためにあの美しい十字形が開発され、空を駆けるのか、考えたこともなかった。ただただあの銀翼に、憧れたのだ。飛翔への渇望を、抑えられなかったのだ。それが戦争の――人殺しのためであると知ってなお、俺は飛びたかった。俺が飛行士を目指すと言えば、下層階級出身でもないくせにと罵られ、両親からは勘当された。
何のために、俺は飛びたいのか。
出撃し、空で戦うようになっても、俺の渇望は止まなかった。何かのために飛んでいるという実感はなかったのだ。無為に銀翼を翻し、無為に空を駆ける。これが俺の望んだことなのか。これが俺の望んだ空なのか。考えてもわからないから、いつしか考えることを止めてしまった。
真っすぐ伸びた背筋、俺たちのものとは比較にならないほど汚れた飛行服。凛々しい眉の下、空に興味がないような、黒い瞳。シェイ・アーヴィング空軍中尉を初めて間近で見たのは、俺が倦んでいた頃だ。達観したような黒瞳に、激しい反感を覚えた。なぜこの人は、こんなに無表情に空を見るのか。アーヴィング中尉が飛翔する姿を実際に見るまで、俺は中尉が大嫌いだった。空に執着していないように見えるこの人が、俺が掴みたい何かに、手を伸ばそうとすらしないこの人が、俺は本当に嫌いだった。

「中尉、」
宿舎に戻る途中に見かけた、小柄な背中に声をかける。短く削ぎ切られた灰褐色の髪。成長期に充分な栄養が得られなかったがための小柄な体格は、下層階級出身者では珍しくない。その体格は皮肉にも、飛行士にとっては都合のよいものだった。
「何か用か、ギア」
「名前、覚えて下さってたんですか?」
見せかけの弾んだ声は無視された。用件を言えと目が促す。畏縮してしまいそうな眼光に晒されながら、俺は口を開くことを躊躇った。
「どうしたらあなたみたいに飛べるんですか?」
結局口を衝いたのは、あまりにも間の抜けた問いだった。俺の嫌いな黒い瞳が、きょとんと瞬いた。

『さぁな。ギア、お前は何のために飛んでいる?』
アーヴィング中尉が笑った――だがその微笑みには哀切が満ちて、とても見てはいられなかった。微笑みと問いかけを残して立ち去った、あの人の背中越しに見えるのは残映だ。天藍と、それを染める黒煙、銀翼の破片。空戦の記憶と、飛翔への――空への渇望。
シェイ・アーヴィング中尉は、空を望んでいないわけではなかった。手を伸ばそうとしていないわけでもなかった。寧ろ全くの逆だったのだ。この人は、空しか見ていない。地で生きようとしていない。
『俺はあの場所で、いき方を探しているんだよ』
――お前は?
問いかけが、胸の奥で反響する。
「中尉――それはどちらの『いき方』ですか」
生か、逝か。
目を閉じて自問する。当直に無理を言って入れてもらった格納庫の中、愛機の操縦席に潜り込み、シートに背を預ける。風圧と重力加速度を思い出す。棺桶に入れられた感触とはどんなものだろう。
死ぬとは、どんなものだろう。
「中尉、」
格納されたF0016ドラッケンは、静かに並んで出撃を待つ。百数十の十字が連なる。まるで共同墓地のようだ。今までなら思いもしなかったことだ。並ぶドラッケンは壮観で、誇らしくあれど怖いなどと感じたことはなかった。だが俺たち飛行士にとっては、間違いなく棺桶と紙一重なのだ。そのことに、遂に気づかされてしまった。
『俺はあの場所で、』
操縦席から飛び下り、薄闇の中でドラッケンを見比べる。中尉の機体はドラッケンの中でも初期生産のもので、古いには古いがその分造りがいい。その操縦席に貼られた写真のことを思い出したのは偶然だった。思い出したら今度は気になって離れない。
「すみません中尉、」
後ろめたい気持ちで、操縦席を覗く。操縦席は殺風景だった。普段使っている形跡が、あまりに乏しい。操縦席には搭乗者の性格が表れるというが、だとしたらこれはどう受け止めればいいのか。
その中に、たった一枚貼られた写真。
ひとりの人物が笑っていた。灰色の短い髪、琥珀色の双瞳を細めて破顔する青年は、二十歳を超えたくらいだろうか。同じくらいの身長の女性と肩を組んでいるが、枠に入っていないため相手はわからない。飛行服に付けられた階級章は大尉、縫い取られた刺繍は名前だった。
『ホークアイ』
ホークアイ。俺はその人物を知っていた。
鋼銀の鷹――剥製の鷹、リドリー・ホークアイ空軍大尉。

十四年前、停戦が破棄された直後の戦闘――俺がまだ八つの子どもだったときの話だ。最も大規模で悲惨なその戦闘に、アーヴィング中尉は参加していたのだという。敵国の新型に翻弄され、こちらの戦闘機――当時は、今や骨董品であるグリフォンさえ現役だったらしい――は、半数以上撃墜された。
しかしこちらには、ひとりの飛行士がいた。味方の飛行士の希望となった銀翼――鋼銀の鷹と呼ばれたその飛行士は、戦闘の後、機体の駆動不良により、大地に激突して死んだ。
リドリー・ホークアイ。この国でその名を知らない者はない。彼が空を翔け、大地に眠って以来、この国の下層階級民に対する施策は、大きく転換したからだ。
「――ッ、」
理解してしまった。涙が止まらなかった。中尉にとっては空にいる間だけが『生』で、手を伸ばして渇望しているのは『逝』なのだ。
「ちゅう、いッ…!」
中尉、アーヴィング中尉、シェイ・アーヴィング空軍中尉。あなたは、この人に会うために飛んでいるんだ。この人の、リドリー・ホークアイの銀翼を追っているんだ。あの空に、それだけを見ているんだ。あなたは、『逝き方』を探しているんだ。
あの人は今も、あの頃の、十四年前の空戦を生きている。

ベッドから這い出して、サイドボードに置いたボトルを手にする。心地よい倦怠感に起き上がる気は失せた。そのままボトルに口をつけ、水を煽る。
「エゼル、」
ひとくち燕下したところで、上掛けの中からくぐもった声が名前を呼んだ。
「水、」
伸ばされた手を自分のそれで絡めとり、もう一度水を煽る。ボトルを放した片腕を上掛けに差し入れ、小さな頭を持ち上げてくちづける。黒い瞳が見開かれ、すぐに音もなく閉じられる。ゆっくりと温んだ水を流し込めば、意外にすんなりと嚥下してくれた。唇を離すと、どちらのものともつかない唾液が一筋、唇に垂れた。けほ、と咳き込むのを見ながら、親指でそれを拭う。
俺と中尉が抱き合う関係になったのは、俺が写真を見た、数日後のことだった。
気がついてしまったのだ。アーヴィング中尉が何のために飛ぶのか――それはあの人に、ホークアイ大尉に逢うためだ。空でいき、大地へ散った盟友の翼を、中尉は追い続けているのだ。それがどうしようもなく、愛しかった。切なかった。俺の我が儘であの翼を、縛りつけてしまいたいと思った。あの人を空へいかせないための、ホークアイ大尉に逢わせないための、楔になりたかった。その思いは、留めようもなかった。
「どうした?」
ゆるりと伸びた掌が頬を包む。その温みを感じながら、俺は瞬いた。つうっと目蓋から肌を滑る恋水の感触。
「あなたが、俺のものになってくれない」
ぐずるように訴えれば、凛々しい眉がハの字に寄った。頬から後頭部へ回った掌、引き寄せられるに任せて顔を落とせば、唇が合わさる。なだめるようなくちづけ。慈しむように与えられるそれを、喰らうようにして貪った。
「頼むから、泣いてくれるなよ」
その黒い目が、微笑みが、恋人に対するものではないのだ。アーヴィング中尉が俺に向ける視線は、愛し子に対する母親のそれなのだ。
「あなたが、」
「ん」
「あなたが俺のものになればいいのに」
「――うん、」
あの日確かに、中尉は関係を了承した。それは恋慕の情ではないと否定しながら、俺に寄り添うことを自分に許した。俺を楔にしてくれた、はずだった。
「あの人のことなんか忘れればいいんだ、」
「――…、」
「ぜんぶ、ねぇ、」
「――それは、無理だよ」
不毛な会話を幾度、繰り返しただろう。この人の中から銀の面影を消すことなどできない。この人の隣に在るべきはあの写真の、
「ホークアイ大尉は、どうやってあなたを抱いたの」
「――エゼルレッド、」
愛称ではなく真名を呼ばれるが、咎める色はない。
中尉とホークアイ大尉に身体の関係があったことは、初めに聞いた。それどころか、中尉が入隊直後に先輩飛行士から輪姦されたことも、聞かされた。
『使い古しで悪いな』
女の飛行士は俺だけだったから。そう言った中尉を、抱きしめて俺はいいえと首を振ったのだ。
その場所に俺がいれば、あなたを守れたなんて言わない。ホークアイ大尉が何もできなかったのだ。それがどうにかできたなど、考えることもおこがましい。その理不尽を受け入れたあなたを不潔だなんて思わない。あなたがここに、俺の腕の中にいてくれることだけが、安らかな事実であってほしい。そしてその事実が、永く続いてほしい。
フラグメント / comments(0) / - / 伝埜 潤 /

剥製の鷹3

過去のフラグメント。これで終わり。


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『アーヴィング、帰投命令だ』
「了解」
フットバーを踏み込み、腕に力を込める。感傷は風に散じ、テープで貼り付けたホークアイの写真がはためいた。
あれからどのくらい時間が経ったのか、今日も俺は空を飛ぶ。
ここで生きたい。常に底無しの天藍へ墜ち続ける錯覚。空を這い回って見上げる大地。そこではホークアイが、墜ち続ける俺を俯瞰している。自らの翼を掻きむしり、空へ墜ち続けたホークアイは今、大地の彼方で眠る。飾られることも謗られることもなく、ただ眠るのだ――天藍の煌めく空を眺めて。
逃れるために翼を求め、剥製になることを選び、けれどあいつは最期に空を掴んだ。あれが、藻掻くように羽撃き続けたホークアイにとって最良のいき方だったとしても、俺は許せなかった。剥製となっても、俺はホークアイにここにいてほしかった。それは俺のエゴに過ぎず、ホークアイが求めるものではない。それでも、眩しい天藍のどこにもホークアイがいないと思う度、俺は一雫の痛みを胸に抱く。

その痛みを抱いたまま、俺は空へ向かう。

銀の翼を翻して。



終わり。スカイク○ラの映画をやってた頃に、独自のゴーグル&プロペラを求めて書いてみた、ある意味オマージュ。因みにアーヴィングのその後も書いたが、後追い自殺にしかならなかった。が、よく考えたら、私はス○イクロラをちゃんと読んだことはない。森作品で読んだのはトー○の心臓だけ(そのチョイスも何だかなぁ…)喜嶋先生も読まないと。
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