那由多の果て

伝埜 潤の遺産。主に日々の連れ連れ。

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灰8

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「行かれますか」
「あぁ。止めるか?」
「いたしませぬ」
廊下を歩くことさえ久方ぶりだった。歩みが滞るのは酒のせいだ。俺の不甲斐なさゆえだ。
俺には、約束がある。
ふらつく足を叱咤し進む。傍らに歩くのは、ちょうどさっき見たルークと同じ年頃になった男だ。覚束ない足元の俺に速度を合わせつつ、肩を貸すなどの手は一切出さない。弁えた男だ。俺以上に俺を知っているような男だ。
「ゼク・リザ。俺に失望しているか」
かつてルークの前に立ち、俺を背に庇い、その顔と身体に炎を被った。俺は知らなかったが、その火傷は俺を――首長の子を守った名誉の傷として称えられたらしい。だがゼク・リザは黒髪を長く伸ばし、敢えてその右半面を隠している。
「いいえ」
長身を黒い革鎧に包んだ青年を、ルークは第七の悪魔と呼んだ。その意は『背く者』または『憤怒』。一方的で独善的に付けられたその異名を甘んじて名乗り、今に至る。個人の力量としても将としても、この国の最強であることは間違いない。だが総大将としてのゼク・リザは、あまり苛烈な将ではなかった。
「我が君」
ゼク・リザの声は、慈しみを抱いている。
「止めるな、ゼク・リザ」
「いたしませぬ。お引き留めはいたしませぬ、私は――私は、我が君。ずっと、悔いておりました」
「?」
噛み合うことを避けた返答に、思わず足を止める。日除け布の間から、長い髪がするりと溢れた。眼前に膝を折ったゼク・リザは額づいて詫びの言葉を紡ぐ。
「あなたさまは、何も知らずにあの男と暮らされていた方が――幸せであったのではないか、と。我らは、あなたさまのためと言いながら、あなたさまを苦しめたのではないかと。なれば、あのとき私とシャキュールには、何ができたのか」
ふ、と。ゼク・リザは唇を歪めた。自嘲にも似た表情は、俺に拝謁を請うときにいつしか浮かべるようになったそれだった。
「あの男が、紅い災厄が、王弟ルキウスが、あなたさまを慈しんだことは、あのとき――あなたさまと再び見えたときにわかりました」
お許し下さい、あなたから二度も親を奪ったことを。
「ゼク・リザ」
「…世迷い言を申しました」
再び自嘲する憤怒の悪魔は、紅き災厄と同じ目をしている。
俺は、何をしていたのだろう。俺が何も知らない間に、俺が酒に自らを毒している間に、ルークは、ゼク・リザは、ずっと――悔いていたのだ。
「俺は――」
何をしていたのだろう。ずっと、目を背けていた。ルークが、ゼク・リザが、シャキュールが、与えてくれたものから目を背け、酒の力を借りて己の臓腑を灼いて。その真意を知ろうともしないで。
「俺は、幸せだった。あの頃も今も、俺は充分に幸せだよ、ゼク・リザ。すまなかった。与えられたものを受け取ろうとしなかっただけで、俺は、幸せであれたはずだった」
『血に染まらぬまま、』
ならば俺が果たすべき約束は、
『幸せになりなさい』
「戦争を終わらせよう、ゼク・リザ」
その半面の火傷は消えない。俺の父も母も、還らない。だが、誰かの血によってではなく、終わらせよう。
聖戦を。戦争を。この、嘆きの連鎖を。
「ルークの兄に、会いに行く」
現王エウリウス。ユーリ兄上とルークが呼んだあの人は、俺と同じく血に染まらぬままある。
「剣を交えに行くのではない。ゼク・リザはここに残り、兵たちを抑えてくれるか。他には内密に、俺一人で行きたい」
さすがにゼク・リザの柳眉が寄った。俺が正式に戦場に出向くならば、軍事動員の規模は大きくなるだろう。だが兵を動かし軍事行動を取れば、向こうも応じてくる。それは避けたい事態だった。
「ならば、シャキュールをお連れ下さい」
小さく溜め息を吐いたゼク・リザは立ち上がり、俺の顔を見下ろしながら断固たる口調で言った。
「お言葉のとおり、私はここで他の将を説得いたしましょう。代わりにシャキュールを行かせて下さい。近頃は少しばかり膿んでおりましたので、アルスランさまより遠駆けとでもお誘い下さい。さすれば他の者がとやかく言うこともありますまい」
頷ける。シャキュールとゼク・リザは、俺の乳兄弟として別格の信頼を置かれている。シャキュールならば、事情を把握した上で付き合ってくれるだろう。
「わかった。――長い間、待たせてすまなかった」
ゼク・リザの唇がいいえ、と答える。それを端から知っていた。だからこそ、俺はその信に答えなければならない。

####

『詩人…ひとつ、問いたい』
詩人は、彷徨う。
『お前は恩人だ。お前が過去を見せてくれなければ、俺はルークを知らないまま朽ちていた。俺は、この嘆きを抱えていく。嘆きばかりではない。これが、ルークの証だ。俺の存在が、俺のこの名が、ルークの願いだ。ならば、俺はこの嘆きを手放してはならない。俺がこの嘆きを抱いているなら、和平は成る。俺と、ルークを悼む人が在るなら』
揺るぎない瞳は、嘆きを孕んだまま、それでも未来を見据えて澄んでいた。その瞳が問う。詩人の虚ろを貫き、遥か、遥かな詩人の嘆きを睨み据える。
問う声を聞いた。
『だが、お前は…詩人、お前自身は何を嘆いている?』

――私が?

『お前は誰だ?お前は、何を嘆いている?』

私は――私は、イリアッド。

『お前は誰だ、イリアッド』

私は――誰だ?

私はイリアッド。
吟遊詩人のイリアッド。
嘆きを喰らうイリアッド。私はあなたの嘆きを喰らい、あなたは私に、糧を、与え――

私、は

詩人の虚ろは見開かれる。

私は、嘆いているのか?

何を?

答えはない。詩人は彷徨う。指が弦にかかり、ゆっくりと弾いた。不均衡の和音は、それ自体が答えのように響いた。

「私は、誰だ?」

私の嘆きは、どこにある?

####


「アルスランさま!我が君!お待ち下さい!そちらは…!」
シャキュールの焦る声を後ろに、馬に鞭を当てた。
「シャキュール、言ったろう?遠駆けだと。急がねば今日中に辿り着かないぞ」
声を張るとシャキュールがしかし!と返してくる。
「アルスランさま」
さすがに歴戦の勇将、シャキュールは易々と俺に追い付く。もとより酔っ払いの俺相手では、追い付けない方がおかしい。
シャキュールの顔にある刃の傷は、いつの間にか増えていた。ゼク・リザとシャキュールが、戦場で積み重ねた年月。ルークがいなくなった。それだけで二人が血にまみれずともよい理由は、十分に成り立ったはずだった。
「終わらせるぞ、シャキュール」
「は、」
「俺のこの手で。あの義父が守り、お前たちが救ったこの、俺の手で」

――血に染まらぬまま、幸せになりなさい。

「終わらせるぞ――この戦争を」
血ではなく、愛を以て。かつてこの身に傾けられた、ひたむきな愛を以て。刃ではなく素手で、脅かすのではなく。
「俺は希望なのだろう?」
「…我が君、」
「俺はアッシュ――『灰』だ。戦火の後に残る、灰だ。この灰の上に、新たな色が芽吹く。そのときに輝くのは、決して血の色ではない」
ルークの髪を濡らしたあの紅ではなく。爛々と輝く鬼火の碧でもなく。
ルーク。俺の灰の上に芽吹くのは、あの、木漏れ日に煌めくあなたの色だ。あなたの髪と、瞳の、何物にも変えられない本当の色だ。

俺を包む、あなたの愛の色だ。




終。




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灰7

「なぜだ、なぜ義兄上に続いて、お前まで」
がくりと膝を折るのは、ルークに似た栗色の髪の男だった。
「なぜ、今になって和平など説いた。反対されることは目に見えたろう。反逆者と謗られることすら、わかりきっていたろう。お前がそれを読めないはずがない。なぜ、なぜ…」
それは冷たい地下牢の中、微笑むのはルークだ。そしてまるで己がその内に囚われているかのように嘆き鉄格子を掴むのは、
「ユーリ義兄上」
ルークの、もう一人の義兄――現王エウリウス。血に染まらぬ現王。兄と、弟を亡くそうとする男。ルークと同じ栗色の睫毛を滂沱と濡らし、悲痛に喚く。
「私に、これ以上何を失えと!?私の力では最早止まらぬ、戦場を知らぬ私の声では、誰も止まりはしない!」
対してルークは落ち着いたものだった。家にいた頃のような平服を纏い、石の床に胡座している。
「戦場を知らぬからこそ、義兄上に託すのです。ロラン義兄上も私も、あなたにだけは戦場を知らずにいて欲しかった。それが、希望だと感じたから」
聖戦の担い手に和平など導けるはずがない。それを強く――強く感じたから。あの愛しい日々の中で。
「私は、過ったのです」
ルークは碧の瞳を緩め、呟いた。
「私は、脅やかすことでしか守れなかった。誰も、誰一人をも」
それゆえに殺した。殺し、傷つけ、踏み躙った。死にたいと、殺されたいと思っていた。それがあの子の手で成されるなら、幸せだろうと思っていた。
「だから私は、言い続けてきたのです。いつか、」

――いつか、

エウリウスが眦を裂くように目を見開いた。
「ルーク、お前は」
「どうか、何も仰らないで下さい。義兄上、私の、不肖の弟の最後の願いをお聞き下さるのであれば、私の首は」
城門の、外を見下ろせる場所へ。
「後を、頼みます」
その言葉を最後に、ルークは会話を打ち切った。頑なに腹を据えたその義弟から、義兄はゆっくりと視線を逸らし――立ち去る。
その足音を聞きながら、ルークは俯いた。
「そうだ、私は過った。ロラン義兄上の真意を汲み損ね、無用に人を傷つけたのだ」
扉を閉じる音、義兄の堪えきれぬ嗚咽を耳に、ルークは目を閉じた。
「ごめんね、アッシュ」
ルークの長い告白は、その言葉から始まった。
「本当は、ずっと君に殺されたかった。私は、君の父上を奪い、母上を殺した。だからアッシュ、いつか戦争が終わるときには、君は私を殺してくれ。私は死ぬから、君が、和平を担ってくれ。身勝手を言っていることはわかっている。けれど私はそのつもりで君を育てた。気に病むことはない。心置きなく私を殺してくれ。全ての紅の根源である私を、君の手で――ずっと、ずっとそう願っていた、はずだった」
手首と喉を繋ぐ枷を鳴らし、ルークは頭を垂れた。自嘲に震える笑声、掠れた声はやがて、
「あぁ、ばかだな、私は――」
あの子に、あの優しい子に、何と惨いことをさせようとしたのか。
獄の中で、頭を垂れたまま、ルークは清しく笑っていた。碧の瞳を濡らして、静かに笑っていた。
「ルーク、」
思わず、その名前を呼んだ。応えるように顔を上げたルークは、再び言った。
「ごめんね、アッシュ」
これは詩人が見せる過去の幻影だ。俺の声はルークに届かない。だが俺はその名を呼ばずにいられなかった。
「ルーク!」
「アッシュ」
涙に咽ぶルークの切れ切れの言葉。それは俺が一番欲しくて、手を伸ばすことを恐れた、答えだった。

君の手を、私と同じ紅に染めることなど、私にはできない。それが例え、私の我が儘でも、間違っているとしても。

「間違って、いるかい?私は、また過っているのか?君を愛し、育てたと思うのは、私の傲慢なのか?あぁ、誰か、アッシュ、答えをくれ。そうだと、言って」
ルークは、辺りを憚らなかった。誰もいない牢獄に、ルークは溢れる涙で海を創る。あのとき流した紅涙とは違う、凄烈な無色。何度も叫ぶように俺の名を呼んで、ルークは告げた。
そうだ。ルーク、間違ってなんかいない。俺は、俺は、俺は――父さん、あなたに、確かに、愛されていた。
「アッシュ。みすみす和平の糸口を手放した私を、愚かだと笑うかい?脅やかすことでしか守ることができなかった、この愚かな私を――」
違う。俺が許せないのは、俺が一番悔しいのは、あなたが死んだことだ。
あなたが、俺と生きてくれなかったことだ。
俺の非力なこの腕では、あなたを止められなかったことだ!
ふっと背中に風が吹きつけた。視界が揺らぐ。ルークの前にある格子が、軋みを上げて開いた。獄卒の言葉を受けたルークが、小さく微笑む。ルークが向かう先は刑場。ルークが死ぬために設けられた、場所。
「ルーク!」
両腕は届かない。俺の腕はあのときよりずっと長く、逞しくなったのに。それでも届かない。救い上げることが叶わない。俺の両腕はいつまでも非力なまま、何度も空を掻いた。
「ルーク!ルーク、ルーク!俺はここにいる!あなたは間違ってなどいない!あなたは、」
喚く声は遠い。聞こえないのだ。わかっている。わかっているが、ならばこの声はどこへ届ければいい。どうやってルークに伝えればいい。
ルークは格子の向こうの光に、そっと両手を組んだ。碧の光が穏やかに、灯のように揺らめいたのがわかった。
「アッシュ、私の願いはただ一つだ。私の我が儘に過ぎなくても、誰が否定しても――紅に染まらぬまま、幸せになりなさい」

父さん、

「ごめんね、アッシュ」
詩人が見せる場面が切り替わる。
手首と喉を枷で繋がれたルークは、交差する刃の前で静かに空を見ていた。ざわめきはやがて罵声となり、斬首台を取り囲む。
「お前のせいで、私の息子は死んだ!」
「英雄気取りの田舎者!」
「お前のせいで!」
「なのに戦を終わらせるだと!?」
「まだあいつらが生きているのに!」
英雄であった紅の天使は、終わらない戦に対する人々の不満のはけ口となっていた。終わらない戦が引き起こした悲しみと憎しみ。それがルークを戦に向かわせた。戦が終わらないのはルークのせいではないのに、人々はルークを責め立てる。ルークを紅の天使に仕立て、今度は殺そうとしている。その、奇妙な連環。断ち切るべきは、忌まわしきこの、
ルークはその罵声を全身に浴びながら、清しく笑っていた。清冽に透明なその表情に、悍ましささえ感じる。理解も同情も、ルークは求めていなかった。ただ、死を見ていた。白い刑服が酷く眩しく、酷く似つかわしくなかった。
「ロラン義兄上。不肖の弟は、最後にしか、あなたの真意がわからなかった。あなたは、ユーリ義兄上だけでない全てを、私をも、守りたかったのでしょう?」
処刑人にさえ聞こえない小ささで呟かれたその言葉が、確かに俺の耳朶を打つ。
「アッシュ。あのときの君の泣き声が、あの日々の君の笑顔が、私を今日まで生かしたんだ。守るべき、私の」
瞬間、ルークの声が途切れた。噴き上がる鮮血。視界の全てが紅に濡れた。

「とう、さん」
俺はあなたの何だったの。憎まれると知りながら、恨まれると知りながら、どうしてあんなに優しく在れたの。俺はあなたの十字架。いつかあなたを殺すために、あなたは俺を育てたの。
俺はあなたに罰を与える存在でしかないの。
それが如何に愚かな問いだったか。
「ルーク、父さん、父さん…!」
詩人の虚から目を逸らし、顔を覆う。叫びだしてしまいそうだった。
俺は知っている。ルークがどんなに戦を厭い、死を悼んでいたか。何を望んでいたか。
どんなに俺を、愛していたか。
ゼク・リザやシャキュールと再会したときの二人の涙。ルークが最後に俺を呼んで流した涙。それはいずれも、あの凄絶な無色だった。あの涙は、同じ味がするはずだ。
「あなたは、絶望などしてはならない」
詩人が竪琴を下ろした。
周囲は元に戻っていた。砕けた杯が転がる床、張りぼての玉座。何もできない、何も変わらない。
ここで俺は、長い間、何をしていた?
「あなたには、為すべきことがおありでしょう」

――あぁ、そうだ。

萎えた足を叱咤し、立ち上がる。

俺には、果たすべき約束がある。




詩人、いろいろ反則です。てゆうか、勉強しろよ私。
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灰6

「ルー、ク」
それは、何かの箍が外れた瞬間だった。人間としての、大事な何かの箍。それが外れて、白銀の軍隊は暴走した。殺戮者の集団として、異教徒の街を襲ったのだ。
「殺せ!我らは神の戦士!」
「異教徒を根絶やしにせよ!それこそが主に捧げられし勝利なるぞ!」
「殺せ!殺せ!殺せ!」
引き裂かれるのは、具足を纏った戦士ではない。女子供だ。武器を持たない民衆だ。それを引き裂き、踏み潰し、白銀の具足は進んだ。あちこちで上がる悲鳴と断末魔。それに混ざって確かに聞こえたのは、笑声だ。異常なまでの興奮、それに囚われていたのはルークも例外でなかった。
白銀の具足が紅に染まる。血に酔い、爛々と輝く鬼火の双眸。頬に散る血飛沫をぐいと拭うさま。口に入った返り血を吐き捨て、ルークが振り返る。その唇は笑っていた。
「…っ、っ!」
吐き気がした。これが、俺に隠したかったルークの姿か。ルークは、ルークは、あの男の、これが真実なのか。
「これもまた、ルークです。あなたに伝えるべき、ルークの姿です。けれどこれもまた、一面でしかない」
竪琴が高く高く鳴る。
『私は紅の天使。御使いと人は言う。認めたくない。認めざるを得ない。私はもはや人たりえぬ、異形の戦争狂。でなければ何だ。私のこの姿は何だ。祖国を、義兄上がそうしたように誰かを守るのだと思っていた。そのために人殺しとなるのだと思っていた。そのために、憎まれるのだと覚悟していた。だがそれも青い理想と、戯言でしかなかった。思い上がりだったのだ。今や、私はただの人でなしだ。右往左往しては死体を創る。紅、紅、紅、私の意義は、紅に染まり朽ちることだ。でなければ私は誰に、許しを乞えばいい。誰のために、泣けばいい。浅ましい私は、いざとなれば殺すのに。白々しく、誰のために祈ればいいのだ――』
血を吐くような慟哭。魂が、信念が、引き千切れる音がした。目の前が、真っ暗になるような錯覚。それはルークの絶望だった。白々しいと言ってしまえばそれまでの、深い深い悔恨。それもまた、ルークだった。
「あなたは、誰を憎みますか」
詩人の問いに、俺は咄嗟に答えられなかった。
自棄を覚えたようなルークは、躊躇わなかった。誰を斬っても、誰を殺しても、ルークの表情は微笑。碧の鬼火を灯すルークを、誰も止めなかった。止められなかった。白銀の軍隊を率い、無慈悲に刃を下す紅の天使。熱狂がルークを称賛する。歓呼に答える笑顔の後ろで、ルークは己の心臓を切り刻む。
「さて、」
自失するようにルークを見つめた俺に、再び詩人が声をかけた。
「これからお見せするのは、あなたがルークに出会ったときのこと――あなたが封じた記憶です。あなたにはかなり大きな負担になるでしょう。わかっていて、その目でご覧になりますか。それとも、見ないまま、私にその嘆きを下さいますか」
戦慄く両手を、きつく握り締めた。目眩がする。だが、俺は見たいと思った。見なければならない。俺が、ルークを未だ、
「見せてくれ」
語尾が、嗚咽で掠れた。
刹那、ゼク・リザの絶叫が俺の名を呼んだ。ルークが切り裂いた背中に、隠れるようにして泣いていた幼子。あれは俺だ。
『構わない、切り捨てろ。いらない慈悲などいらない。それは私には必要ない。ただ紅であれ。否、私はもはや人には戻れぬ――』
ルークの魂が、断末魔を上げる。その心臓が黒い血を吐き出し、ルークは嘲るように笑った。その、ルークの鬼火を見つめて、幼子は、俺は、
「かあさま」
ルークが、ひたりと動きを止めた。凝視する碧瞳は、零れそうなほど見開かれ。その手がだらりと垂れ下がる。

あぁ、これが、私を終わらせるのだ――

ルークの眼窩から、真紅が滴る。白い頬に筋を作ったそれは、幼子の顔にぽつりと落ちた。目の前の幼子が呼ぶ、いとけない声。その声が、断崖に立つルークをこの世界に呼び戻したのだ。

いつか、いつか、いつか、君の手で、私を殺してくれるね、いつか、私が全ての戦の罪を背負ったら、君が、君が、君の手で――

それは歓喜、絶望、救済、破滅、全てを孕んで回りだしたルークの願いだった。酷く重く仄暗い歓びだった。ぞっとするほど空虚な。
「は、はは…これが、ルークの望みか」
その笑声は俺の唇から溢れていた。
真綿の優しさで、生かされたのだと思っていた。ルークは、俺を愛してくれたのだと。だがルークが真綿の中に隠した茨が、これだ。俺は楔、俺は十字架。殺されるために、ルークは俺を育て上げたのだ。真綿の愛ではなく、茨の願いを以て。それなのに、俺はルークを殺せなかった。ルークは俺の知らない場所で独り死に、俺は存在意義を失った。
ルークは、満足だろう。望んだ死だ。それを俺が与えたのではないだけで。未だ戦争が続き続けているだけで。
「もういい、もう嫌だ。忘れさせろ詩人――俺は、この嘆きを、これ以上抱えられない。忘れたい。頼む――」
詩人は手を止めた。
顔を上げた俺の空虚と、詩人の空虚がぶつかり合う。詩人の暗い深淵に、不意に閃く感情がある。
「嘘を、お言いなさい」
吐き出されたのはそんな言葉だった。
「あなたが忘れたいなどと、思っているはずがないのです。本当に忘れたいなら、私より先に、あなたは信仰に縋っているはずだ」
空虚なはずの詩人の双眸が、微かな紅に燃えていた。滲むような灯火の色、懐かしいような、厭わしいような、その色。
「なぜあなたは酒を煽るのですか。口では忘れたいなどと仰りながら、毒のような酒を煽り臓腑を焼いて、その痛みは、あなたにあなたのかつてを刻み付ける行為だ。あなたがルークを忘れたくないからだ。彼が負った業苦を、忘れたくないからだ。あなたは酒に溺れたが、決して偉大なる神に縋ろうとはしなかったでしょう」
偉大なる神は、この国の信仰の拠り所だ。あの国の十字架と同じか、それ以上に篤いこの国の神。幼くしてルークの許に在った俺には、どちらにも然したる理解はなかった。
「人が如何にして神に縋るかをご存じですか。絶望を知って、です。絶望は、信仰への路を最短で拓く。けれどあなたは偉大なる神の名を唱えながら、縋ろうとはしない。信仰にすり替えて、己の心の方向を変えてしまえば、あなたは楽になれたはずだ。だが、あなたは神に縋らない。救いも赦しも求めようとはしない。救われたくないのでしょう?救われて、忘れようとする己に怯えている。だから酒で誤魔化すように偽って、己に傷を刻むだけなのです結局は。ご覧なさい、焼け爛れたあなたの臓腑は、紅の色をしているはずだ。ルークの色を、しているはずだ。あなたは忘れない。忘れようとしていない。許されようとしていない――私のようには」
ガラス細工の杯が、床に落ちて割れ砕けた。ぐらぐらと視界が歪む。
「俺、は」
忘れたいのだ。そう思っていた。だが――
「ルークの最期を、ご覧なさい」
詩人は、訴えた。ルークは、最期に何を叫ぶのか。それを目の当たりにして、俺は何を知るのだろう。指が震えていた。竪琴が、再び旋律を奏で始めた。



予想外によく喋りました、詩人。
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灰5

「これが、俺とルークの結末だ」
不様で無惨な、結末と決別だ。俺とルークが出会ったあのときに、既にわかりきっていた終幕。
高い弦の音。一定の間隔で鳴らされるそれは耳障りでなく、詩人の指先は紡ぐように動く。
紅の天使に二親を殺された異教徒の子。俺はルークを殺し、その死の上に和平を築く。それがルークの描いた終局だった。それがルークの望んだ予定調和だった。
『いつか、君の手で、私を』
「だが、俺はルークを殺せなかった」
ルークがいなければ、十字架にして楔たる俺など、俺の存在意義など、無に等しい。それなのに、
「ルークは二度と戦場に出なかった。戦場に出ることなく、死んだ。俺の知らない場所で、たった独り」
地を這うような嗄れ声は何を恨んでいるのか。俺にはもうわからなかった。
「それは、なぜ」
詩人が問う。全てを見透かしたような声音が癇に障る。顔を上げれば、虚のような両目を見開き、詩人は唇を笑ませていた。それを呆然と見つめながら、俺の口を衝いたのは無情なる事実。
「処刑、されたからだ。和平を直訴したルークは、反逆者として――さらには戦争犯罪人として、斬首された」
ルークの首が晒されたあのときの衝撃は、俺から全てを奪った。それはあの国の、徹底交戦の意志を俺に伝えた。
終わらない。
ルークが、紅の天使が死んでなお、聖戦は終わらない。ならばどうしろと言うのだ。ルークは俺に何を望んで、俺を育ててきたのだ。俺はルークを殺してその血の上に和平を築く、それがルークの残酷な理想だった、はずだ。
「その日から、俺は現実を見るのを止めた。なのに、考えてしまう。ルークのこと、戦争のこと、この身を灼くのは酒だと思い込んでしまいたかったのに!」
渇いた喉が裂けそうに痛む。灼け爛れる臓腑の痛み。ルークの紅は今も、俺を染め上げる。
「忘れたくはありませんか」
詩人が弦を弾き、尋ねる。
「その痛みを、その悲しみを、その紅を、あなたの嘆きを、忘れたくはありませんか」
詩人の虚に吸い込まれるように、震える唇が声を紡ぐ。
「な、に?」
「私はイリアッド。吟遊詩人イリアッド。あなたは私に糧を与え、私は嘆きを歌い続ける」
喉が痙攣するように、笑声が溢れていた。
忘れたい。忘れたかった。ルークを、あの優しい碧を。そのために俺は酒に溺れ、この世を諦めたのだ。
「忘れさせて、くれるのか」
頬を生温い雫が伝った。詩人が笑む、三日月の唇。みしりと圧力を増した暗闇を引き裂いて、詩人は竪琴を鳴らした。
「その前に、お聞きいただきましょう…ある男の歌を」
詩人の声は朗々たる旋律を紡ぐ。それはある男の一代記。ある男が、剣を取り死に逝く物語。
同時にそれは、酷く懐かしい調べだった。

『愚かしいとわかっていても、私は戦わなければならなかった。殺されるわけにはいかなかった。私はいつか、私が殺してきた人々よりずっと虚しく死ぬだろう。恨まれて、憎まれて死ぬだろう。死んだ後まで罵られるだろう。それでも、私以外の人が手を汚さないために、私以外の人が憎まれないために、私はこの国を護って殺し続けるのだ。あの白髪の義兄のように。いつか戦が終わったとき、私は殺されればいい。全ての憎しみが私に向けばいい。憎まれるべき私は、全ての憎しみを背に負って死ねばいい――』

それは紛れもない、懐かしく懐かしく慕わしく忘れたい、胸を抉るあの紅の、
「ルー、ク…?」
旋律が繰り返される度、目に映る情景は時を遡った。詩人の指先は踊るように時を紐解く。やがて俺が辿り着いたのは、あの紅の日よりも前――ルークが紅の天使となった、そのときだった。
「そうか。ロラン義兄上が――」
悼みに顔を歪めたのは、幾分年若いルークだった。
「逝かれて、しまったか」
ロランとは、話にだけ聞いていたルークの義兄だろう。異教徒の血を引く鬼子、白髪のラウレンティウス。戦場に散ったこの義兄を、ルークはいつも愛しげに語っていた。
「ならば、私が征くしかあるまいな」
苦く笑みながら、ルークは言った。
「義兄上が為せなかったならば、跡を継ぐは私だろう」
この聖戦を終わらせるのは。
先代の王は、異教徒との戦で功を為した英雄だったが、それは続き続ける血塗られた未来を用意した。さらに、捕虜として連行した各地の姫にことごとく子を生ませたため、王位継承権は混乱した。それが白髪の義兄であり、ルークだった。ルークをはじめ、王の庶子の多くは王位を望まず、辺境の農村に隠棲していた。王座に近く残り、義弟たる現王を支えたラウレンティウス、その白髪の義兄の死が、ルークを戦場へ向かわせたのだ。
場面は頁を捲るように切り替わり、ルークは白銀の具足を身につけた。燦然と煌めく十字の意匠。
「国境防衛に徹せよというのが、義兄上のお考えであったろう?」
「それではもはやどうにもなりますまい!我らは父祖の代より始めし聖戦の担い手です。今攻めずして、何時」
ルークは溜め息を吐いた。
それは奇妙な光景だった。幾分年若い、今の俺と変わらない年齢のルークは、義兄の率いた兵の先頭に立って十字を掲げている。俺が見ているのは、詩人が見せるルークの過去。竪琴の調べが高らかに不自然にに響いているが、気に留める者はない。当然だ。これは光景だけ、既に過ぎ去った過去だ。俺は張りぼての玉座に座したまま、目にしているのは真実か、虚構か。
「戦場に出たこともない若造が!憶測で物を言えるは今のうちぞ!」
吐き捨てられ、ルークは顔を微かに歪めて笑った。
「仰る通りだ…私は、戦場を知らぬ。義兄上が如何なるお人だったかも、実はわからないのだ」
寂しげに笑ったルークは、酷く痛々しく見えた。
「――虚構の幻と、お思いですか?」
詩人の声が届く。見やれば、虚ろな眸が此方を射る。
「幻、なのか?」
「どう思われても構いません。ですがあなたの嘆きをいただくためには、これをお見せしない訳にはいかないかと」
詩人の笑み、竪琴が紡がれる。調子を変えた旋律と共に、目にする場面も変わっていった。

『紅の天使』――その異名は、ルークの第二戦にもたらされた。戦場で、ルークの表情は能面のように固まり、振るわれる腕ばかりが鋭さを増していく。切り裂かれるのは黒い具足ではなく柔いヴェール――国境を越えたルークの兵は、異教徒の街を襲撃したのだ。



今までの主人公と違って、忘れたいアルスラン。イリアッドの動き方も違ってくる。さてはて。
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灰4

伏線て、どうやって張るの。全編回想のフラグメントゆえに、先が読めてしまうのはある程度仕方ないのか。私の技量の問題なのか。
以下、私信です。
真砂ちゃん、コメントありがとうです。気づくのが遅くなり、ごめんなさい。ぼちぼちと展開していくので、今暫くお付きあい下さい。今回も救われているのかいないのかわからない終わり方だと思われ。辿り着けるかしら。




「そうして俺は、俺の乳兄弟であるゼク・リザとシャキュールによって自分自身の正体を知った。俺はルークと敵対する異教徒の、首長の子だった」
「なるほど。今、乳母子のお二人は?」
自嘲が唇を彩る。
「戦場だ。俺のために、命を刃に晒している。ゼク・リザは偉大なる神に誓って、この国の最強だ。無論、シャキュールも有能な将軍だよ。二人揃って、俺のために命を張る馬鹿者だ」
この俺にそんな価値などないのに。玉座は張りぼて、名ばかりの王に過ぎない俺を、二人はアルスランの名に相応しい果敢なる王者の器だと信じている。俺には何もないというのに。
「あなたは何を為すべきだったと?」
詩人が問う。それは、俺自身も問い続けてきた終わりのない自問自答。答えは出ている。だが認めたくなかった。認めてしまえば俺の中で、あの頃のルークが死ぬからだ。
「ルークが俺に求めたのは、」
復讐だ。

###

「嘘だ!」
ルークが、俺を拐った?俺の母親を殺した?嘘だ、嘘だ、そんなはずはない。ルークは、俺の救いだ。異教徒の言うことなど信じない!ルークを殺そうとする者の言葉など信じるものか。
「嘘、ではない」
シャキュールが溢れる涙を拭ってきっぱりと言った。
「俺と我が兄ゼク・リザが戦場に出たのは、ひとえにあなたを探さんがため。我が君、どうか」
「嘘だ…だって、お前は、ルークを、ルークに剣を向けるだろう!?今、その人を殺したじゃないか…!」
地に伏せられたシャキュールの剣には、紅が纏い付いている。その背後には、ルークと同じ白い具足の騎士が倒れている。
「その男は、」
ゼク・リザの声音がすうっと冷えた。立ち上る殺気に、俺だけでなくシャキュールもたじろいでいた。
「兄者、」
気遣わしげに声をかけるシャキュールに、ゼク・リザは顎を引くことで答えた。だが、殺気は衰えない。黒瞳に激怒を宿し、ゼク・リザは言い切る。
「その男は、あなたさまを射るつもりでした。その手の弓を御覧下さい。死体には触れないように。鏃に毒が仕込まれています」
ぞわりと背中が粟立った。白い具足。十字の意匠が入った、ルークと同じ具足。その手の中の弓矢、鏃には確かに得体の知れない滴に濡れている。
「で、でも、」
食い下がる自分の声が弱くなる。
そうか、俺を拾ったルークがわざわざ村外れに新しい家を持ったのは、俺を隠すためか――俺は黒い髪に濃い色の肌をしているのだ。
気づかなかったのではないだろう。気づかないようにしてきたのだ。
「そう、か」
俺はルークの敵か。ルークは、俺の仇か。だとしたら、ルークは。
「どうか、我らと共にお戻り下さい。これ以上あなたさまに振りかかる、如何なる災厄をも滅ぼして御覧に入れます。あなたさまが悲しまれることのなきように、」
ゼク・リザの嘆願が途切れる。上げられた黒瞳が、剣を抱いた。
「兄者」
シャキュールが土に耳を付け、兄に目配せをする。
「近い」
何が?問うまでもなかった。それはすぐに姿を現したからだ。
「アッシュ…」
それ――即ち、戦場からとって返したルークと白い具足の一軍だった。
「ルー、ク」
ルークの姿は、正しく紅の天使だった。白い具足も、十字の意匠も、栗色の髪も、全て、全てを深紅に染めた。

紅の、天使。

記憶が逆巻く。深紅に彩られた記憶。そこは戦場だった。やわらかな腕に抱かれて震えていた、遠い日。投石機から発射された巨石、破砕される家屋から悲鳴が上がった。ギリシャ火が撃ち込まれ、街並みが燃え上がる。
『アルスラン』
優しげな声が真上から降りてくる。アルスラン。俺の、名前。母から与えられた、はじめての恩寵。
『偉大なる神よ、思し召しを…』
城壁を打ち破る槌の音に、荒々しい雄叫びが重なる。逃げなくては。やがて歓声が上がり、石の道路を叩く蹄の音が響き渡る。
『奥方さま!お逃げを!』
駆け込んできた乳母に促され、裏口から外へ出た。白い石造りの道は死体に満ち、紅の血飛沫が流れを作るほどだった。紅に滑る足を踏み締め、必死に細い手にすがる。
背後で甲高い断末魔と、骨が砕ける音がした。ははうえ、と叫ぶ声。あれは、額から流れる紅に顔を汚した少年は。シャキュールか。ならば今の音は、
『振り払ってはだめ』
ゼク・リザの獣のような怒号。振り返らずにはいられなかった。俺の乳兄弟。ゼク・リザの右半身は、ギリシャ火を浴びせられて燃えていた。肉の灼ける凄まじい臭い。それでもなおゼク・リザは立っていた。背中に俺と母とシャキュールを庇ったまま。その手前に倒れているのは、縦に身体を押し潰された死体は、
『振り払ってはだめ、アルスラン。あなたはこの先を見続けなさい。来るべき反撃の日を、』
断ち切れた言葉。不意に強く抱き寄せられ、二人して濡れた地に倒れ込む。ゼク・リザの、シャキュールの呼ぶ声が聞こえた。
『アルスランさまぁ!』
ざくり、と引き裂ける感触。抱き締める腕が、力を失った。

そして、視界を奪う碧の鬼火。

「あ、ァ、ルー、ク…」
悲愴な顔をしたルークが、目線を外して俯いた。あぁ、真実なのだ。ルークが俺の母親を奪ったのは。ゼク・リザとシャキュールの母親を奪ったのは。だとしたら、あの約束は、
連鎖するように不可解がほどけていった。ルークが俺を養った、真の思惑。ルークが願う先。ルークが、俺にさせようとしていたこと。真綿にくるまれていた茨が、やわさを突き破って喉に刺さる。
「紅き災厄、王弟ルキウス…貴様がそうか」
ゼク・リザの誰何にルークはゆるりと面を上げた。
「いかにも。君がエメリタを越えた第七の悪魔、か。意外に若いね――一応聞いておこう、名は?」
ゼク・リザが微かに笑む。シャキュールが一歩後退し、俺の前で剣を構えた。
「ゼク・リザ。第七の悪魔とは光栄…ミーカールを気取る貴様よりましと言うものだ」
ゼク・リザの背中を見るのは、はじめてではなかった。あのとき、今の俺と同じ年頃だったゼク・リザ。長い髪に隠された右の顔は醜く爛れていた。
「この方を存えてくれたことには、感謝を申し上げる」
「…その子は、」
会話が一瞬停滞した、その空隙を突いて白い具足が散開した。
「黙れ異教徒。その子どももろとも、白銀の錆びにしてくれよう」
向けられる槍の穂先は、陽光を反射して煌めく。落ち着きをなくした馬を抑えながら、シャキュールが舌を打った。
「兄者!」
ルークは何かを堪えるように俯いたまま、顔を上げなかった。シャキュールの腕の隙間からルークだけを見ながら、俺は叫び出したかった。その名を呼びたかった。まだルークを、信じたかった。
ゼク・リザが剣を抜く。左手に湾曲した刃、ゆらりと持ち上がった右手には戦槌が握られていた。
「…――めろ、」
一触即発の空気。びりびりと肌が強張る。じり、と狭まる白銀の包囲。
「止めろ!」
痛いほどの緊張を打ち破ったのは、ルークだった。
「ルキウス殿下!?」
隊を乱した騎士が非難を叫ぶ。ルークはそれに首を振った。
「いやだ」
それはまるで頑是ない子どものように。
「殿下!」
「嫌だと言っている!」
顔を上げたルークの碧瞳が、爛と輝いた。
「刃を退け。命令だ。聞こえないのか、王弟ルキウスが命じる!今すぐ槍を退け!」
ルークが腹の底から響かせた怒声は、張り詰めた空気を震わせる。
「ゼク・リザ。少しでいい、その子と――アッシュと、言葉を交わすことを許してもらえまいか」
ルークの頼みに、ゼク・リザはややあって刃を退いた。シャキュールが渋々ながらそれに倣う。
煩いくらいの静寂の中をまっすぐ俺に向かって歩いたルークは、はじめて、血に塗れた腕で俺に触れた。
「ごめんね、アッシュ」
紅に汚れた腕で、頬で、無理矢理に微笑んだルークは俺を強く抱きしめた。
「ごめんね、アッシュ。私は、君の父上と母上を殺した。君の大切な人たちを、たくさん殺した。赦してくれとは言わない。赦されたいとも思わない。君を育てたのは、そんなつもりじゃあない。私は戦わなければならなかった。誰かが死なないために、誰かを殺さなければならなかった。だから私が殺した。アッシュ、君は私を憎めばいい。全ての紅の根源である私を、憎めばいい」
紅の天使はそう言って微笑んだ。俺にはそれが、酷く痛々しいものに見えた。

ルークは聖戦を終わらせるつもりだ。己が命を、俺に絶たせて。戦争を終わらせるつもりなのだ。

「行きなさい、アッシュ。君の在るべき場所へ」
ルークは言うなり、俺を突き飛ばした。よろめいた俺の前にゼク・リザが進み出てルークを睨み据えた。
「幼い異教徒の子よ。両親の仇を、私を、討ちたくば、」
ルークは碧の双眸を傲然と笑ませた。
「五日の後、戦場にて」
白い具足を鳴らし、ルークは俺に背を向けた。

###

「それが、俺とルークの、今生の別れだった」

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灰3

ルークが再び戦場へ向かってから、五日が経った。ルークの戦いはあくまで防衛戦だ。国境を拡大するのではない。だから大丈夫だ。それよりルークがいない間、俺には重要な仕事があった。家を守ることだ。ルークと俺の家。ルークはここに帰ってくる。俺がここにいる限り、ルークは約束を破らない。
ルークに拾われて、十年が過ぎていた。俺が幼子だった頃のルークは笑えなかった。もっと荒んでいた。だから俺は自分のことを、いつかきっと捨てられるに違いないと、気まぐれで連れてこられた厄介者なのだと感じていた。そんなだから、家出をしたことだってある。家を出て、森を抜ける前に、結局帰ってきたルークに捕まったのだが。あのときのルークときたら、世の終わりのような顔をして俺の両肩を掴み、泣き笑うような奇妙な表情で懇願したのだ。
行かないで、と。
『いつか、戦争が終わったら』
ルークがそれを言ったのは、そのときが初めてだったと思う。
『――君が、私を』
それを言うときのルークは酷く愛しげで、俺は何も言えなくなってしまう。何も言えなくなった俺を、切ない表情でルークは眺める。
本当は、叫んでやりたい。俺は、ルーク、あなたの望みなんか知らない。俺はルークに生かされて、救われてここにいるのに、どうして。

だがルークは戦場へ向かう前に、必ず俺に言うのだ。

『いつか、君が、君の手で』
そして俺は、何も伝えられないまま、その背中を見送るのだ。真綿を纏った茨に首を絞められる感覚。焦燥に声が出ない。俺の声は喉の奥に絡め取られ、ルークには届かない。

『私を殺してくれ』

その言葉を、否定できないまま、また、あの背中を見送った。

###

戦況は、辺境の村であるここまでは届かない。都へ出ればまた違うのだろうが、俺にそこまで行く気はなかった。ルークは帰ってくる。それがわかっているから、俺はここを動かない。だが、わかっているのとルークが心配なのは、全く別の問題だった。ルークは紅に濡れて帰ってくるが、掠り傷以上の傷を負ってくることはなかった。
でも今回は?
斬られているかもしれない。貫かれているかもしれない。腕を足を、失っていたら――恐ろしい想像を振り払うように首を振る。
そのとき不意に、音がした。顔を向ける。洗濯物が手を滑り落ち、土にまみれてしまった。だが、異質な音が再び響き、俺の意識は完全にそちらに捕らわれた。
鈍い金属音。ざりざりと擦れる耳障りなそれは、ルークがたまに立てる具足の音に似ていた。だがルークなら、真っ先に声をかけてくるはずだ。違和感。俺は身を翻し、家の扉へ走った。
だが、
「…え、」
背後から響いたのは、水分を含む塊が土に叩きつけられる打音。金属の軽やかな音が、それを彩る。振り返れば、人影が二つ、倒れたもう一人を見下ろして立っていた。傍らには馬が二頭、落ち着かなげに鼻を鳴らしている。がっしりとした体格は、村にいる農耕馬とは比べ物にならない。あれは軍馬だ。蹄の音は、柔らかな土に吸われてしまっていた。
倒れているのは、白い具足の――ルークと同じ具足を纏った男。既に事切れている。具足の隙間から流れ出る紅に、俺は戦慄した。紅い。紅、紅、紅、戦場の色。ざり、と後ずさる足が滑った。死体を見下ろす男が、音に気づいて顔を上げる。滴る紅。血振りの済んでいない、湾曲した刃。黒い瞳。目線が克ち合う。
「あ、あ…!」
褐色の肌、黒い革の鎧を纏って――ルークを殺そうとする異教徒たちが、そこにいた。
後ずさる足が何かに引っ掛かり、後ろに倒れ込む。悲鳴のような音を立てたのは、体重がかかった家の戸だった。この戸を開けて中へ逃げ込んでも、無駄だ。俺の姿を見たのだ。あの異教徒の騎士は!黒鎧を纏ったあの騎士は、俺を見つけたのだ!萎えた足は動かない。逃げられない。

ごめんなさい。ルーク、ごめんなさい。俺はこうして死ぬためにここにいたの?これで終わり?あなたが帰ってくるのに、約束したのに、いつか、いつか戦争が終わったら、いつか聖戦が終わったら――あんな約束を守りたくなどないけれど、それでも、
 
近づく跫、馬蹄は柔らかい土に吸われて鳴らない。近づいてくる黒い騎士。黒い髪の、褐色の肌の、異教徒たち。ルークと戦い、殺そうとする輩。精一杯睨みつける先には、二人。逃げられない。影が落ちる。眼前に迫る、二人の若い騎士。ルークよりも一回りは若い。一人は長い黒髪を編んで顔の右側にまとめ、もう一人は額の左から目尻にかけて傷を持つ。だが、奇妙だった。幼い記憶に灼きついた、戦場の気配がない。肌が粟立つような殺意がない。抜き身を携えた二人、紅の血飛沫は確かに異教徒の頬を濡らしているのに。
「あぁ…神よ偉大なる神よ、思し召しに感謝いたします…!」
終焉は訪れず、異教徒の騎士たちは、呆気に取られる俺の前で、伏して祈り始めた。南への礼拝を終えた騎士は立ち上がり、腰の抜けた俺の前に膝をついた。
「十年間、あなたさまの無事を願い、お探ししておりました。我が名はゼク・リザ、これなるはシャキュール。共に、あなたさまと偉大なる神の忠実な僕にございます」
編んだ髪の騎士が革の胸甲に拳を当てて名乗る。騎士の――ゼク・リザの左瞳には涙が浮かび、傷を持つ騎士シャキュールに至っては既に号泣していた。
「あの日、紅き災厄が我が故郷を襲った日、我ら兄弟の目の前で、あなたさまは奪われました。我ら一族はそれを消えざる汚名とし、あなたさまを取り戻すために、」
「ま、待って、待ってくれ!何を、言っているんですか、俺が、何だって?あなたたちは、何を、」
半ば悲鳴じみた問いに、ゼク・リザは悲しげに眉を寄せた。
「無理もない、か…あのとき、あなたさまは四歳…覚えておられぬのですね」
ゼク・リザの長い前髪の奥から、熾火のような黒い右瞳が覗く。
「あなたさまは、紅い災厄によって奪われたのです。彼らは街に火を放ち、軍馬を乗り入れ、ことごとく殺し漁った。あなたさまの乳母であった我らの母は、紅い災厄の眼前を塞ぎ、そうして軍馬に踏み殺されました。あなたさまの御母君はあなたさまを抱いたまま、背中から斬られて逝かれました。その腕の中から、あの男は――」
ゼク・リザは、そこまでを激情に震える声で途切れなく紡ぐと、小さく息を吐いた。
待って、待ってくれ。その続きは、口にしないで。言わないで、言わないで、終わってしまう。終わってしまう、から。思い出してしまう。身体を駆け巡る鼓動が煩い。あの日、あの日の紅、迫り来る奔流の中に灯った鬼火にも似た碧の光。あれは、あれは、俺はあの輝きに救われて、

「紅き災厄、将軍ルキウスは、あなたさまを拐っていったのです」




急転直下。
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灰2

ルークの全身にこびりつく紅は俺を圧倒した。肌の色さえ見えないほどの濃い紅が、俺を阻む。
「ごめん」
ぽっかりと浮かぶ碧の双眸が和む。ルークは外に出て鉄瓶に雪を詰めると、それを火にかけた。
「井戸が凍っているんだ。だからもう少し待って」
ルークは言い置いて外へ出た。俺はその背に追い縋るように手を伸ばす。
「ルーク!」
「大丈夫、すぐに戻るよ」
ルークは決して、紅の手で俺に触れない。俺は紅を纏ったルークには近づけない。
王弟ルキウス。それがルークの素性だ。現王エウリウスの腹違いの弟。異教徒との戦争――聖戦の旗印。国境とこの国の存在の是非を問うその戦争は、俺の両親を奪った。背中から斬られ殺された母の亡骸の下、何もわからず泣いていた俺を拐ったのがルークだ。あのままでは、俺は母の血にまみれたまま軍馬に踏み躙られて死んでいたか、雑兵に殺されていただろう。そのときのことは朧気にしか覚えていないが、俺にとって紅の色は忌避すべきものであり、恐怖の対象だった。

「次はしばらく戻れないと思う」
ルークが戻ってきたのは、鉄瓶の雪が湯に変わり、粗末な小屋が温まった頃だった。ようやくルークの紅は拭い去られ、穏やかな栗色の髪の青年が佇むだけだった。
「…え、」
「戦況が厳しくてね。大分、押し込まれてしまった。早晩、彼らは此岸に上陸し…エメリタに侵入する。川を越えられたら――」
豆のスープを啜るルークの表情は固かった。
ルークに教えてもらったこの国の歴史は、悲惨な侵略と略奪と虐殺から出来ていた。元々、この国は聖戦という名の侵略戦争によって建国された。聖戦の熱狂が落ち着いてからは、異教徒の国の中で細々と存えていたが、事情が変わったのは先代の王――ルークの父親の代のことだった。
勇者と呼ばれた王は再び聖戦を開始し、異教徒から国土をもぎ取った。決して肥沃でないこの国が、豊かになるにはそれが最も確実な方法だった。国境を巡る戦争は、父親からルークの兄へと受け継がれ、今に、ルークに辿り着く。
「ルーク」
「…あぁ、ごめん。暗い話になってしまった。大丈夫だよ。今は向こうに動きはない。拠点を築いているのだろう。こうして帰って来られるのだから、まだ大丈夫だ」
「違う、ルークは大丈夫なのか?」
俺が知りたいのは戦況などではなくて、ルーク自身のことだった。ルークが家に帰ってきたのは七日ぶりだ。疲労の色濃いルークはしかし、きょとりと碧瞳を瞬いた後に、情けなく笑った。
「大丈夫だよ。私は大丈夫、アッシュが待っていてくれるから。必ず帰ってくる」
ルークが笑っている。それだけが救いだった。
かつてルークは笑えなかった。白髪の将軍亡き後、この国に舞い降りた救いの光。深紅を纏って聖戦を率いる。人々はルークを天使と呼んだ。御使いだと。だがその名を負ったルークは笑えなかった。
『いいかい、アッシュ』
ルークは言う。
『いつか、戦争が終わったら』
いつか、聖戦が終わったら。




モチーフとネーミングがそぐわない違和感。後、気候も。
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じりじりと喉が、胃が、身体が内から灼けていく。干した盃の底、僅かに残る蜜色の雫が煌めく。酔いはまだ回らない。冴え冴えと澄んだ思考は、決して忘れさせてくれない。胸の奥に燻る問いを、ひたすらに突き付ける。
どうしてあなたは俺を育てたの。あなたにとって、俺は何だったの。
そんな答えは既に出ているのだ。俺は楔。俺は十字架。あの人は、殺されるために俺を育てた。俺に殺されるために、微笑み、慈しんだ。いつか俺に、殺されるために。残酷なまでに明確な答えだった。いっそ酔いが回れば、澱んで思考が止まれば、俺は目を閉じられるのに。
「上等の酒」
不意に、声がした。不揃いな前髪の間から垣間見る。そこに立つのは、異装の男だった。埃に塗れた旅装束、片手には小さな竪琴を携えている。目深に被ったつば広の帽子から、長い白髪が流れていた。
「誰だ」
力無い問いは空気に溶ける。酒の飲み過ぎで嗄れた声。問いかけたのは義理だ。もとより答えなど期待していない。俺が欲しい答えは一つだけ。相手が何者だろうが、現世に生きることを諦めた俺には関係ないのだ。
「あなたはどうして酒を?」
問い返す声はくわん、と反響して聞こえた。
「酔えもしないのに、なぜ酒を?過ぎた酒は毒にしかならない」
いっそ、毒なら。俺は楽になれただろうか。この身を内から灼く酒。足りないのだ。俺を殺すに足りない。俺を、壊すにも、足りない。忘れるなど以っての外だ。
「酒浸りの俺に何の用だ。言っておくが、俺には何の力もない。この戦は終わらない」
そうだ。この戦は終わらない。あの人が死んでも終わらない。あの人が、俺が、ここで終わっても。
城の外は荒廃している。俺が生まれる以前から続く戦は国を疲弊させ、民を圧迫している。誰もが戦を疎んでいる。だが終わらない。俺は終わらない戦を、張りぼての玉座から眺めることしかできない。
うなだれる俺の背を、澄んだ音が撫でていった。竪琴が鳴っている。詩人らしく竪琴を掻き鳴らしながら、白い男は問うた。
「あなたは何を嘆いているのですか」

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寒い日だった。その日は雪が舞い散る寒い日だった。がたがたと凍えながら、それでも俺は炉に火を入れられなかった。
「アッシュ、ただいま。アッシュ?」
その声は俺の救いだった。
「ルーク」
「アッシュ、ごめんね。遅くなった。寒かったろう?」
歯の根が噛み合わないのを押し隠し、首を振る。開いた扉の向こう、外は雪明かりに白んでいた。幻想的なその明かりを背負って立っていたのは、真っ黒い影。目を開いたその影に、俺は一瞬、呼吸を止めた。
鬼火のような、碧の光。それは俺の導きだった。あの紅の奔流の中で、俺を救い上げた光だった。

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「俺は戦で二親を亡くした。その俺を拾ったのが、ルーク――王弟ルキウスだった。聖戦のために担ぎ上げられた、国王の妾腹の弟。ルークは王位継承を混乱させないために、辺境に身を引き、農民として暮らしていた」
そのルークが、戦場では比類なき名将だったというのは、幸か――不幸か。ルークは何も語らなかった。だが母を戦で失ったルークにとって、それが幸せだとは俺には思えなかった。
「そして、ルークはその戦績と戦場での姿からこう呼ばれた」
詩人は高音を一つ、投げるように鳴らした。
「何と?」
俺は喉を鳴らして笑った。それが如何にルークに似合わない異名だったか。そして如何に、残酷なまでにルークにそぐっていたかを、俺は知っている。
碧の光が眼裏に瞬いて、消えた。
「紅の天使」


というわけで、難産のイリアッド三。続きが書きたいよ〜。
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神が愛なら6

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「――以来、あいつは壊れたままだ」
告解は終わった。
詩人の視線がリヨンへと移る。痩せた頬、虚に微笑むリヨン。その腹を膨らませるのは、リヨンを輪姦した異端審問官の子だ。逃げ出して、ここに辿り着いて数ヶ月後に発覚した。あの子は、神の愛し子であるリヨンに遣わされた子は、紛れも無い、俺の罪の証だった。
「あなたは。神を信じていますか」
詩人は尋ねる。それはそれは、残酷な問いだった。
「昔、リヨンに面と向かっていったことがある。神なんていない、と」
けれどこの悲劇は、誰かのせいにしなくては、苦し過ぎた。
「今は信じてるよ。人は都合のいい生き物だ。世の中の理不尽は全て神の責任にする」
所詮、俺はそのひとりだ。リヨンを連れて逃げたことで、リヨンを守ったと勘違いしている。愚かしき信仰の徒、堕ちたる信仰の徒。不意に、詩人が歌うように言葉を発した。
「私はイリアッド。吟遊詩人イリアッド。嘆きを喰らうイリアッド」
面食らう俺に、詩人は慈悲に満ちた微笑を投げてきた。
「あなたは、その嘆きを忘れたくはありませんか」
それは、確かに人によっては、誘惑に近い申し出ではあっただろう。
「その嘆きを忘れ、再び歩き出すつもりはありませんか」
一瞬にして、思考が目まぐるしく展開する。使っていなかった頭が急に回って、酷く痛い。
忘れるとはどういうことだ?神を嘲りジェラールを殺しあいつを壊したことを、忘れていいと?耐え難く痛む嘆きを、忘れてもいいというのか?そんなことがあるはずがない。そんなことが赦されるはずが、ない。
「私はイリアッド。私はあなたの嘆きを喰らい、あなたは私に糧を与える」
そうして忘れさせてくれるというのか。それは確かに誘惑だ。今さら俺がそれに屈したところで何も変わりはしない。そうだ、
「これは、罰だ」
壊されたエリュシオン。
「俺が救いを裏切ったから――俺は、この罰を受けなきゃならない。忘れるわけには、いかない」
詩人は静かに、鎮魂の歌を弾き終えた。
「あなたは今、悲しいのですか」
虚のような瞳に見据えられ、自嘲に頬が痙攣した。あれ以来、俺は泣くことも怒りを覚えることもない。できないのだ。俺にできるのは己を、己の罪を、堕ちてゆく世界を嘲り笑うことだけだ。
「あぁ、もしかしたら、」
俺は悲しいのかもしれない。けれど俺に悲しむ資格はない。神は俺を生かすという罰を下した。自分のしでかしたことを、壊したリヨンを見つめて生きろと。それは、何と慈悲深い残酷さだろう。
「神が愛なら、せめて、」
神が、愛なら。
殺してくれ。俺も、リヨンも、重ねて引き裂けばいい。
「なぁ詩人…喰らうなら、俺じゃなくてリヨンの嘆きにしてくれ。あいつを解放してやってくれ。あんたが、神が遣わした御救いなら、」
神がまだリヨンを愛しているなら。あの朽ち果てようとする楽園を、どうか救い上げてくれ。俺の汚れた手では、あの子を殺すことさえおこがましい。ジェラールがしたように、やわらかな腕で抱き締めてやってくれ。この世で一番の優しさを、あの子に――それだけが今、俺の望みだ。
「あなたが気づけば、そんな必要はないはずだ」
「…なに?」
リヨンはぼんやりとこちらを見ている。ゆるゆると、膨らんだ腹を撫でながらこちらを見ている。
「り、よん、」
「あなたの願いは、リヨンへの償いではない」
詩人の声に眉が寄る。
「――俺には、もう何もない。せめて、この子が」
「それが、あなたの愛」
「…は?」
詩人の言葉に、間抜けな声が零れた。この男は何を聞いていたのだろうか。俺は愛を知らないし、誰かを愛する術を持たない。愛する資格もない。愛とは何だ。俺の知る愛は、この身に受けた理不尽の全て。あれが愛なら、俺は誰も――、
「あなたはリヨンを愛している」
「あの子を愛したのはジェラールだ。俺は、」
声を遮るように、竪琴が鳴く。
「フェリックス」
小さく、俺を呼ぶ声。
「り、」
声が潰れた。煌めく紺青の瞳は、俺を射抜いていた。椅子から立ったが、膝が崩れる。這いずるようにしてベッドに寄り、痩せた白い手に縋った。
「ジェラールはね、」
白い手が、髪を撫でた。膨らんだ腹を撫でるのと同じ、優しい手つきだった。
「ジェラールは俺を抱いたよ」
俺が目を見開くのを、リヨンは穏やかに見つめていた。
「俺は、俺もフェリックス、神を呪って生きてきたんだ。この身体を見世物にされ、犯されて生きてきたんだ。ジェラールは俺に神を説き、愛を説いた。だから俺は、ジェラールを堕とした」
衝撃はそれだけで終わらなかった。リヨンは天使の表情などしておらず、生身の人間だった。
「自分から股を開いて、ジェラールに跨がって、腰を振ってあんあん言ってやった。罪に塗れさせてやった。同性と女性と交わらせて、二重に堕としてやったんだ。なのにあいつは、笑いやがった」

神とは、愛とはね、リヨン。

「愛はここに、神はきみの中に――と。あいつは生臭司祭だったんだよ、フェリックス」
とん、とリヨンの手が胸を突く。
「愛はここに、神はフェリックス自身の中に」
俺の知る愛は、この身に受けた不条理の全てだった。俺は愛など捨てたはずだった。要らない。いらない、いらない。
「ち、が…俺は、神なんか、」
溢れ出した涙を白い手が拭う。
「だってフェリックス、充分証明してきただろう?」
リヨンは俺の頭を撫でる。いつかと同じように、娼館の姐さんのように、優しくやわらかく。ひたりとその掌が、俺の両頬を包んだ。けれど俺が、焼き尽くされて灰になることはなかった。
「俺を愛してくれているじゃないか」
 楽園の名を冠する天使は、紺青を細めて言った。
「自分を貶めるのはやめにしよう、フェリックス。確かに、神はいないかもしれない。あんたが思うような神は、いないかもしれない。だけどあんたは、本当は信じたいんだろう?信じたくて仕方ないんだ、愛されたくて仕方ないんだ。それは罪でも何でもない、人間なら当然のことだろう?誰の神も、あんたを拒みはしない。だってあんたは、こんなに優しいじゃないか。信じられないならそれでもいい。けれど、だったら俺があんたを愛するまでだ。ジェラールがしたように、俺があんたを愛すよ」
リヨンが俺の頭を抱き締める。リヨンは天使ではなく、楽園でもないのかもしれない。けれど俺にとっては大切な人だった。恐らくはジェラールにとっても。
「なぁ詩人さん、あんたにだってわかっただろう?」
リヨンの声に詩人は寂しそうに笑った。
「だったら、ここにあんたの糧となる嘆きがないことも、わかるよな?」
詩人が頷く気配がした。
俺の視界は涙で滲んで何も見えない。感じられるのは、リヨンの掌と鼓動がふたつ。
「俺はあんたと、腹の子を愛するよ。誰だって愛されるために生まれるんだ。だからフェリックス、あんたも俺を愛してくれよ。この子を、愛してくれよ。それが証明だ」
それが、証明だ。理不尽でもない、世迷い事でもない、それが愛だ。リヨンは天使ではなく、楽園でもない。けれど俺にとって、紛うことなき大切な人だった。
「リヨン、俺は、」
あぁ神よ、俺は誰かを愛することが、
「愛は優しいだけじゃない。誰かを傷つける理不尽なものでもある。神は残酷なときに強く意識されて、愛されていると感じることは少ない。けれどそれは俺たちの中に確かにいる、何かの確固とした拠り所なんだよ。それは俺たちが一番よく知ってるだろう?」
――できるのでしょうか?
「フェリックス、」
詩人が小さく旋律を爪弾く。それは酷く愛しい音だった。



終。




やっと、ここまで漕ぎつけた…。相変わらず、フェリックスの扱いづらさはデザートイーグル。おおぅ。まぁ何が酷いかって、気持ち悪い描写が多過ぎる。なるべく気持ち悪いのを目指したので、あながち失敗ではないあたりが何だかなぁ。因みに私に、キリスト教を揶揄したり批判したり、魔女狩りについて考察したり、神について論じたりするつもりはありませんので悪しからず。
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神が愛なら5

度を超えた暴力的な性行為の描写あり。注意。









そして俺が目覚めたとき、全てが終わっていた。
「いや、ゃ…ゃあ、」
泣き声にも似た嬌声に薄っすらと目を開ければ、そこにあったのは目を疑うような光景だった。床に飛び散る半透明の液体。独特の、饐えた臭い。縛られたリヨンの掠れ声と舞い散るような涙。審問官の、悦楽に染まった表情。
「ぅ、ンん、」
リヨンが頭を振って嫌がるのを分厚い手が押さえつけている。いつもいつも俺を苛む、あの憎らしい手が。
「副審問官、ようやく気がついたか」
「大事ないか?」
「あぁ例の司祭の件だが、」
「報告は後で構わんだろう、」
口々に言ったのは、ふたりの審問官とひとりの副審問官だった。俺と共に仕事をこなす連中で、俺と最も親密な――つまり俺を抱いたことのある奴らだ。はっきりと覚醒した意識は、それでもこの状況を拒否しようとした。
どうしてお前らがここにいるお前らはどうしてそいつに触れているお前なんかがなぜリヨンを抱いている!?
「り、よん…!?」
見れば審問官がリヨンの身体に肉塊を突っ込んでいる。前の、女性の膣へ。そしてもうひとりが後ろの、薄い尻の肉を掴み割って、
「やめ、」
ずぶりと、簡単に突き刺さり、埋められていく肉塊。抜き差しされるたびに零れる精液。リヨンの中から大量に溢れるそれによって俺は、リヨンが相当の時間を掛けて弄ばれていたのだと知った。
『楽園なんてね、フェリックス』
陵辱される天使は、涙で濡らした頬を俺に向けた。紺青が虚ろに揺れる。
『楽園なんて、何処にもないのよ』
「っ、の、豚どもがぁあ!」
喉を裂く勢いで叫び、起き上がろうとして叶わないことに気づく。腕と肩、胸に食い込む細い紐。寝台に縛り付けられているのだ。
「そいつを放せ!」
「口を慎め、副審問官」
拳が左頬に入った。がちんと音がして、血の香りが口内に広がる。
「いいや、そうか。すまなかったな、羨ましかったか?」
いつもの豚に似た審問官が分厚い手で腫れた頬を撫でる。
「さすがに魔女だ、少々疲れた。やはり馴れた肌が恋しいな」
言うなり膝を開かれる。既にそこを覆うものなどなくて、不意打ちの羞恥に眩暈がした。
「あう、」
リヨンの声に目を向ければ白い乳房の先端、薄桃色にに醜悪な舌が絡み付いていた。瞬間かっと視界が紅く染まり、俺は声を上げる。衝撃と共に、審問官が俺に突き込んでいた。いきなり拡張されたそこは、裂けはしなかった。だがかえって、そうまで馴らされていたのかと歯噛みする。
「フェリックス、きみに我々を弾劾する権利などないんだよ。こんなに悦さそうに咥えて、締めつけて、喘いでいるじゃないか。そうでなくとも我々とお前は同罪だ、違うか?ん?それとも魔女の仲間入りをしたいのか?」
違う。違う違う違う。
耳元に流し込まれる言葉の毒。耳殻を舐め上げる温い舌。擦られる身体の内側が甘い悲鳴を上げる。気持ち悪いのか気持ちいいのかわからない。喘ぎが零れ、閉じることができない唇から唾液が糸を引いた。
「あの司祭のように、火刑を下されたくはないだろう?神は我々を愛しておられる。我々は裁かれない」
違う。叫びたいのに、何処かで納得している俺がいた。
「愛し続けてあげよう、憐れなフェリックス。君には似合いの姿じゃないか」
顎を掴まれ、ぬるりと口づけられる。目の前の、ぼってりと醜い唇に歯を立てた。ぶつりと皮膚が切れる感触。豚が悲鳴を上げた。
「この、身の程知らずが!」
横面を殴られる。縄で縛られた上体に触れるほど下半身を折り曲げられ、息が詰まる。ひくつく結合部を俺に見せつけながら、審問官は激しく腰を打ちつける。
「あの貧民街から拾い上げてやったのは私だ。君には最初から、教会の救いなどないのだよ。私の側で、黙って抱かれていろこのあばずれめ!」
神よ、あなたが愛なら、今ここで、あなたが、愛なら。
ここで、殺してくれ。

「時間です」
戸の向こうから聞こえた声によって、最悪の宴は幕を閉じた。べたべたの白濁に塗れた俺とリヨンは、互いに死んだ魚のような目で見つめあった。衣服を整えた審問官たちが出ていった後、俺は身体を起こす。
「りよん、」
掠れた声にリヨンは答えなかったが、やがて擦り寄ってきた。白い肌はやわらかく押しつけられ、腕が俺の首に回る。耳元で啜り泣きが聞こえた。綺麗なその体を抱き返し、俺も小さく泣いた。凌辱に涙するなど、久しぶりだった。
神は、いないのか。俺はともかく、リヨンまでこんな目に合わせるなんて。神は俺たちを愛していないのか。
「ふぇり、くす」
リヨンが俺の髪を引き、訊ねる。
「かけいって、だれの、」
その言葉に、俺は青ざめた。

裂かれた襤褸のような衣服をどうにか纏って、リヨンとふたり、這いずるようにして辿り着いた広場。その奥で既に火が上がっていた。そして火の中にいるのは無惨な姿の、メイエのジェラールだった。リヨンが歩み寄ろうとする、俺はそれを必死に押さえる。このままではリヨンは火の中に飛び込みかねない。
「リヨン、」
怒号が飛び交う中、その声だけ妙にはっきり聞こえた。
「おい、で、リヨ…ン」
焔に舐められ、半ば熔け崩れたその貌。燐光のように揺らめく琥珀の双瞳。叩き潰された両手両足はなお、十字架に括られたままだというのに。関節を脱かれ、ぐだぐだにされた身体だというのに彼は、ジェラールは慈愛に満ちて、微笑んでいた。
「リ、ヨン…わ、たしの、エリュシオン、」
俺はリヨンを解放した。白濁が伝う足をゆっくりと動かし、リヨンは火刑台へと歩み寄る。纏ったぼろが解け、白い裸体が露わに曝け出される。白い乳房、華奢な肩、筋張った腕、白濁に塗れた内腿、薄い尻、アンドロギュヌスの身体。伝い伝うのは涙の雨だった。
動く者はひとりとしてなかった。畏怖に縛られ、動けずにいた。それはリヨンがあまりにも、
「綺麗、だよ…リヨン、はとても、き、れい、だ」
ジェラールは掠れた声で囁く。計らずも、同じことを思った。汚れないエリシオン。不意に涙が、溢れた。
あぁ、神よ。父なる神。あなたが愛なら。なぜ、
リヨンがふわりと微笑み、躊躇うことなく焔に踏み込んだとき。業火が、不意に勢いを弱めた。観衆がざわめく。慌てた執行官が薪を増やすように命じた。
「リ、ヨン…、」
がさ、り。音を立てて十字架が崩れた。焼け焦げたジェラールを抱き締め、リヨンは微笑む。
「わ、たし、の愛、しい、リヨン…、」
それが魔女と交わり異端とされた司祭、メイエのジェラールの最期だった。リヨンは叫ぶことも、喚くこともしなかった。ただ壊れた微笑みを浮かべるだけだった。
「退けっ!」
俺は人波を掻き分けた。リヨンまで死なせたくなかった。唇を噛み千切る。苦い。苦い血の味が広がる。
あぁ、神よ。リヨンがあなたに遣わされた楽園なら。あなたが愛なら、どうしてこんな悲劇が起こるのか。どうしてこんな悲劇を起こすのか!
「リヨン!」
呆けたリヨンを十字架から引き離し、胸に抱え込む。
「見るな!」
これから焼死体を解体するのだ。
「見るな…すまない、リヨン、すまない…!」
小首を傾げて俺を見上げるリヨンの目に、光は既になかった。
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