那由多の果て

伝埜 潤の遺産。小説になり損なったフラグメントと、日々の連れ連れ。

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人魚の残映1

剥製の鷹の続編。アーヴィングの後追い自殺編とも。



最期に呼んだのが俺の名前であってくれたなら、どんな無茶をしてでも、あなたのために飛べたのに。それなのに、よりによって――よかったね、きっとあの人が迎えに来てくれたんだね、などと笑って見送ることはできなかったけれど。
あなたを、いかせたくはなかったけれど。

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F0016ドラッケンの操縦席から、ひらりと飛び降りた小柄な飛行士は、そのまま毟り取るように飛行帽とゴーグルを外し、あっという間に歩き去った。
「今日の撃墜数もアーヴィング中尉が断突、か」
「あぁ。六機だ」
囁く声には羨望と畏怖。真っすぐ伸びた背筋、俺たちのものとは比較にならないほど汚れた飛行服。全てに興味がないような、あの人の機体の操縦席に、一枚の写真が貼ってあるのは周知の事実だ。しかし誰もそれに触れたことはなかった。
シェイ・アーヴィング空軍中尉は、今年で三十六になる。十六歳で志願して飛行士になったと聞いているから、三十代の若さでありながら既に老練の域だ。実際、達観した黒瞳は実年齢以上の老成を感じさせ、俺たちのような新参の飛行士には少々近寄り難い存在だった。
だから飛行士同士で話題になるはずの、操縦席の写真についても――そんなところに持ち込む写真は大概が恋人か家族だが、アーヴィング中尉は下層階級出身の孤児で、しかも独身だ。自ずと答は決まってくる――本人の目が届かない場所で、下世話な憶測ばかりが飛び交っていた。

俺が飛行士に憧れて家を飛び出したのは、十七のときだった。そのときの俺は、何のためにあの美しい十字形が開発され、空を駆けるのか、考えたこともなかった。ただただあの銀翼に、憧れたのだ。飛翔への渇望を、抑えられなかったのだ。それが戦争の――人殺しのためであると知ってなお、俺は飛びたかった。俺が飛行士を目指すと言えば、下層階級出身でもないくせにと罵られ、両親からは勘当された。
何のために、俺は飛びたいのか。
出撃し、空で戦うようになっても、俺の渇望は止まなかった。何かのために飛んでいるという実感はなかったのだ。無為に銀翼を翻し、無為に空を駆ける。これが俺の望んだことなのか。これが俺の望んだ空なのか。考えてもわからないから、いつしか考えることを止めてしまった。
真っすぐ伸びた背筋、俺たちのものとは比較にならないほど汚れた飛行服。凛々しい眉の下、空に興味がないような、黒い瞳。シェイ・アーヴィング空軍中尉を初めて間近で見たのは、俺が倦んでいた頃だ。達観したような黒瞳に、激しい反感を覚えた。なぜこの人は、こんなに無表情に空を見るのか。アーヴィング中尉が飛翔する姿を実際に見るまで、俺は中尉が大嫌いだった。空に執着していないように見えるこの人が、俺が掴みたい何かに、手を伸ばそうとすらしないこの人が、俺は本当に嫌いだった。

「中尉、」
宿舎に戻る途中に見かけた、小柄な背中に声をかける。短く削ぎ切られた灰褐色の髪。成長期に充分な栄養が得られなかったがための小柄な体格は、下層階級出身者では珍しくない。その体格は皮肉にも、飛行士にとっては都合のよいものだった。
「何か用か、ギア」
「名前、覚えて下さってたんですか?」
見せかけの弾んだ声は無視された。用件を言えと目が促す。畏縮してしまいそうな眼光に晒されながら、俺は口を開くことを躊躇った。
「どうしたらあなたみたいに飛べるんですか?」
結局口を衝いたのは、あまりにも間の抜けた問いだった。俺の嫌いな黒い瞳が、きょとんと瞬いた。

『さぁな。ギア、お前は何のために飛んでいる?』
アーヴィング中尉が笑った――だがその微笑みには哀切が満ちて、とても見てはいられなかった。微笑みと問いかけを残して立ち去った、あの人の背中越しに見えるのは残映だ。天藍と、それを染める黒煙、銀翼の破片。空戦の記憶と、飛翔への――空への渇望。
シェイ・アーヴィング中尉は、空を望んでいないわけではなかった。手を伸ばそうとしていないわけでもなかった。寧ろ全くの逆だったのだ。この人は、空しか見ていない。地で生きようとしていない。
『俺はあの場所で、いき方を探しているんだよ』
――お前は?
問いかけが、胸の奥で反響する。
「中尉――それはどちらの『いき方』ですか」
生か、逝か。
目を閉じて自問する。当直に無理を言って入れてもらった格納庫の中、愛機の操縦席に潜り込み、シートに背を預ける。風圧と重力加速度を思い出す。棺桶に入れられた感触とはどんなものだろう。
死ぬとは、どんなものだろう。
「中尉、」
格納されたF0016ドラッケンは、静かに並んで出撃を待つ。百数十の十字が連なる。まるで共同墓地のようだ。今までなら思いもしなかったことだ。並ぶドラッケンは壮観で、誇らしくあれど怖いなどと感じたことはなかった。だが俺たち飛行士にとっては、間違いなく棺桶と紙一重なのだ。そのことに、遂に気づかされてしまった。
『俺はあの場所で、』
操縦席から飛び下り、薄闇の中でドラッケンを見比べる。中尉の機体はドラッケンの中でも初期生産のもので、古いには古いがその分造りがいい。その操縦席に貼られた写真のことを思い出したのは偶然だった。思い出したら今度は気になって離れない。
「すみません中尉、」
後ろめたい気持ちで、操縦席を覗く。操縦席は殺風景だった。普段使っている形跡が、あまりに乏しい。操縦席には搭乗者の性格が表れるというが、だとしたらこれはどう受け止めればいいのか。
その中に、たった一枚貼られた写真。
ひとりの人物が笑っていた。灰色の短い髪、琥珀色の双瞳を細めて破顔する青年は、二十歳を超えたくらいだろうか。同じくらいの身長の女性と肩を組んでいるが、枠に入っていないため相手はわからない。飛行服に付けられた階級章は大尉、縫い取られた刺繍は名前だった。
『ホークアイ』
ホークアイ。俺はその人物を知っていた。
鋼銀の鷹――剥製の鷹、リドリー・ホークアイ空軍大尉。

十四年前、停戦が破棄された直後の戦闘――俺がまだ八つの子どもだったときの話だ。最も大規模で悲惨なその戦闘に、アーヴィング中尉は参加していたのだという。敵国の新型に翻弄され、こちらの戦闘機――当時は、今や骨董品であるグリフォンさえ現役だったらしい――は、半数以上撃墜された。
しかしこちらには、ひとりの飛行士がいた。味方の飛行士の希望となった銀翼――鋼銀の鷹と呼ばれたその飛行士は、戦闘の後、機体の駆動不良により、大地に激突して死んだ。
リドリー・ホークアイ。この国でその名を知らない者はない。彼が空を翔け、大地に眠って以来、この国の下層階級民に対する施策は、大きく転換したからだ。
「――ッ、」
理解してしまった。涙が止まらなかった。中尉にとっては空にいる間だけが『生』で、手を伸ばして渇望しているのは『逝』なのだ。
「ちゅう、いッ…!」
中尉、アーヴィング中尉、シェイ・アーヴィング空軍中尉。あなたは、この人に会うために飛んでいるんだ。この人の、リドリー・ホークアイの銀翼を追っているんだ。あの空に、それだけを見ているんだ。あなたは、『逝き方』を探しているんだ。
あの人は今も、あの頃の、十四年前の空戦を生きている。

ベッドから這い出して、サイドボードに置いたボトルを手にする。心地よい倦怠感に起き上がる気は失せた。そのままボトルに口をつけ、水を煽る。
「エゼル、」
ひとくち燕下したところで、上掛けの中からくぐもった声が名前を呼んだ。
「水、」
伸ばされた手を自分のそれで絡めとり、もう一度水を煽る。ボトルを放した片腕を上掛けに差し入れ、小さな頭を持ち上げてくちづける。黒い瞳が見開かれ、すぐに音もなく閉じられる。ゆっくりと温んだ水を流し込めば、意外にすんなりと嚥下してくれた。唇を離すと、どちらのものともつかない唾液が一筋、唇に垂れた。けほ、と咳き込むのを見ながら、親指でそれを拭う。
俺と中尉が抱き合う関係になったのは、俺が写真を見た、数日後のことだった。
気がついてしまったのだ。アーヴィング中尉が何のために飛ぶのか――それはあの人に、ホークアイ大尉に逢うためだ。空でいき、大地へ散った盟友の翼を、中尉は追い続けているのだ。それがどうしようもなく、愛しかった。切なかった。俺の我が儘であの翼を、縛りつけてしまいたいと思った。あの人を空へいかせないための、ホークアイ大尉に逢わせないための、楔になりたかった。その思いは、留めようもなかった。
「どうした?」
ゆるりと伸びた掌が頬を包む。その温みを感じながら、俺は瞬いた。つうっと目蓋から肌を滑る恋水の感触。
「あなたが、俺のものになってくれない」
ぐずるように訴えれば、凛々しい眉がハの字に寄った。頬から後頭部へ回った掌、引き寄せられるに任せて顔を落とせば、唇が合わさる。なだめるようなくちづけ。慈しむように与えられるそれを、喰らうようにして貪った。
「頼むから、泣いてくれるなよ」
その黒い目が、微笑みが、恋人に対するものではないのだ。アーヴィング中尉が俺に向ける視線は、愛し子に対する母親のそれなのだ。
「あなたが、」
「ん」
「あなたが俺のものになればいいのに」
「――うん、」
あの日確かに、中尉は関係を了承した。それは恋慕の情ではないと否定しながら、俺に寄り添うことを自分に許した。俺を楔にしてくれた、はずだった。
「あの人のことなんか忘れればいいんだ、」
「――…、」
「ぜんぶ、ねぇ、」
「――それは、無理だよ」
不毛な会話を幾度、繰り返しただろう。この人の中から銀の面影を消すことなどできない。この人の隣に在るべきはあの写真の、
「ホークアイ大尉は、どうやってあなたを抱いたの」
「――エゼルレッド、」
愛称ではなく真名を呼ばれるが、咎める色はない。
中尉とホークアイ大尉に身体の関係があったことは、初めに聞いた。それどころか、中尉が入隊直後に先輩飛行士から輪姦されたことも、聞かされた。
『使い古しで悪いな』
女の飛行士は俺だけだったから。そう言った中尉を、抱きしめて俺はいいえと首を振ったのだ。
その場所に俺がいれば、あなたを守れたなんて言わない。ホークアイ大尉が何もできなかったのだ。それがどうにかできたなど、考えることもおこがましい。その理不尽を受け入れたあなたを不潔だなんて思わない。あなたがここに、俺の腕の中にいてくれることだけが、安らかな事実であってほしい。そしてその事実が、永く続いてほしい。
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