那由多の果て

伝埜 潤の遺産。小説になり損なったフラグメントと、日々の連れ連れ。

<< December 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 2度目。 | main | シュレージンガー。 >>

白肋の記憶9

まだ終わらなかったらしい。


「さぁ。本当の『篩』はここからだぞ」
沈痛な面持ちで、ヴァイクは指を引いた。一斉にその指を離れる鋼の糸。それが抑え込んでいたのは。

ミハイルがただ一人、集団に背を向ける。その背中にバレンシアが噛みつく前に、リチャードが全体に撤退を促した。片腕を折られ、出血の跡が背中に散るエレジアは唇を噛み締めたまま、アルケイドは意識を取り戻さない。
第四学年で経験する個人実習で、最優秀の成績を修めたのはミハイルだった。全員が負傷し、最悪は退学を余儀なくされる実習で、ミハイルはただ一人かすり傷のみで帰還した。ゆえにリチャードは知っていた。ミハイルは普段のスリーマンセルよりも、単独で挑むときこそ力を発揮する。
「とはいえ、必死だな」
小さく唇を歪め、ミハイルはクレイモアを収めた。代わりに右腰に携えていたマインゴーシュを抜く。持ってきていてよかった。ぎざぎざと切り込みの入った分厚い刃を、ミハイルはす、と地に向けて構えた。
ずず、と巨体が動く気配があった。もはや任務は失敗、黒竜を殺すことは到底敵わない。ミハイルはざり、と土を均した。
「まずは挨拶、といくか」
挑発、そして黒竜の意識を、完全に自分に向けさせなければならない。ミハイルはリチャードの先導する集団の気配を感じながら、音を立てずに走り出した。酸に触れて蒸気を上げる土を蹴り、今まで相対していた幼体の鼻面をマインゴーシュで殴り付ける。くわっと開かれた顎、本来なら回避に入るところだ。だがミハイルは鼻面に足をかけ、ブーツが蒸気を上げて溶け出すのも構わず顎の内側にマインゴーシュを突っ込んだ。
ばきんと、硬い音と共に白い破片が散る。折り取られた黒竜の牙だ。ミハイルのマインゴーシュ――ソードブレイカーはひたすらそのために、竜の牙をへし折り無力化するために使われる。 黒竜は首を振ってミハイルを弾き飛ばそうとした。だが、マインゴーシュは次の牙に掛かっている。
「そうだ此方だ」
ミハイルは折れた牙を放り捨て、着地した位置から動かない。黒竜の首が完全にミハイルだけを見た。ミハイルが笑う。そうだ、此方だ。此方だけ見ていろ。貴様の背後に何もなくなるまで。
竜が持つ平均四本の大牙の内、上顎二本がミハイルに折られている。だが無力化するには程遠い。ミハイルとて、端からそのつもりはなかった。ただ、注意を完全にミハイル一人に惹き付けることができればいいのだ。リチャードなら誤らずに逃げ切る。その確信がミハイルをここに縫い付ける。準長寿竜とて、一人では身に余る。ある程度は時間を凌ぎ、後は己が退き時を見誤らなければそれでいい――王水の吐息を避け、ミハイルは極めて冷徹に機会を窺っていた。
筈だった。
ミハイルの首筋が総毛立つ。反射的にその場を飛び退き、黒竜の背後へ走る。一瞬前までミハイルが立っていた場所を、全く別の方向から灼熱の王水が舐めていった。焼け爛れた土がしゅうしゅうと煙を、或いは火を上げている。それをミハイルは見ていなかった。そんな余裕などなかった。
「思ったより早かったな」
退き時を自分で選択できなかった以上、無傷で逃げ切るのは難しい。或いは、ミハイルの想定する最悪ならば。
「リチャード」
苦々しげに呟き、ミハイルは逃走を開始した。背後で、二対の黄色い眼が瞬いていた。
「なるべく先に行っていろ、リチャード…!」
その期待が破られることを知らないまま、ミハイルは走っていた。

「いい加減にしろ!」
怒声に、バレンシアはぎりぎりと歯噛みした。ミカを担いだリチャードに食ってかかるのは、学年長を務める『刃』寮のオズワルド・ウィンスレイだ。撤退したはずの十五人の足は、完全に止まっていた。
「今戻っても無駄だ。僕らの手には負えない。ミハイルだって機を見て戻ってくる。僕らに今できることはこれ以上の負傷者を出さずに帰還することだ!」
「ふざけるな!それでは先輩方に合わせる顔がないだろう!負傷者と言っても、戦闘不能クラスはフェリスとヴァリアツィオーニ、バーテライネンくらいだ。他はまだやれる」
リチャードが、どんな思いでミハイルをあの場に置いての撤退を宣言したのか、わからないほどの愚図かお前は。
バレンシアはエレジアを抱えたまま、低い唸りを上げた。リチャードは非情な決断を下せる、だがそれはリチャードが冷たいからではない。
「黙っていろよ、グラーチア…リチャードなら上手く捌く。下手に口を出して拗れたら厄介だ」
エレジアが囁く。だがその瞳には、バレンシアと同じ苛立ちがある。常のエレジアならとうに星を投げているはずだ。だがエレジアの、そのための腕は肘から折れている。関節を巻き込んだ酷い骨折だった。
オズワルド・ウィンスレイは名家の出身だ。それこそレコンキスタの伝統を背負うバレンシアと同等のストレスを抱えた、云わば同類である。また、リチャード・パーシヴァルも同じだ。だがその鬱屈には、三者三様の違いがあった。
「パラスケ!」
ウィンスレイの声に、アルケイドを背負ったままユハはゆっくりと瞬きした。
「俺と来い。戻って戦闘を再開する」
「オズワルド!頭を冷やせ!」
鞭のようなリチャードの叱責に、ウィンスレイは怯まなかった。
「な、にを、している」
呆然とした声がかけられたのは、そのときだった。
「ミーヒャ、無事で」
「早くここから離れろ!」
ミハイルだった。エレジアの声を遮り、普段の沈着さをかなぐり捨て、怒気に満ちた低い声が告げた。
「俺を追って、黒竜が二体、さっきの準長寿竜と新手の長寿竜が来る。死にたくなければ走れ」


アスカロン / comments(0) / trackbacks(0) / 伝埜 潤 /
Comment









Trackback
url: http://thundersonia.jugem.jp/trackback/560