那由多の果て

伝埜 潤の遺産。小説になり損なったフラグメントと、日々の連れ連れ。

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見たい見たくない。

この世界の片隅で、がやっと近所の映画館に来るんだけど。見に行くかなぁ。いいのは知ってる。見に行くべき映画だと思う。でもなぁ。でもなぁ…。

どうも私は戦中の一生懸命生きる日本人を描いた映画だの小説だのは苦手だ。恐らく、かわいそうな惨めな戦中日本を描くものは、戦争を止める力を強く持たないからだ。たぶんこういう言い方はよくないのだけど、かわいそうぶって被害者としての側面だけ出しても、被害者にならなければいいという結論が出たら戦争肯定になるわけで、だから日本の戦争映画の奇妙に健気な人道的主題に、しっくりこないのかしら。

ちょっと思考が整理できないので、滅裂です。

蛍の墓は、監督がそれをものすごく自覚していらっしゃる。だからあの人は蛍の墓という強烈な映画にさえ、力がないと言ってしまう。じゃあ力のある映画とは?やはり日本を徹底的に加害者として描いたものだろうか。やむにやまれぬ事情とか、後悔とか葛藤とか描かずに徹底的に加害者として描いたものなら、戦争を忌避すべきものとして、示せるのだろうか。

自虐史観ではなく、我々は被害者ヅラをしていい立場ではないし、大本営や各種戦犯だけが悪いのではなく、何故なら彼らは我々を守るためにも戦った訳で、ならば我々もやはり同罪なのではないかと考える。

まぁ原爆に関してはあればアメリカによる正真正銘正義のない虐殺行為でありジェノサイドなので、あれに対しては被害者ヅラしていいと思う。

北原白秋童謡詩歌集を読んだ。後書きに「私の大好きな詩人たちが、「子どもだましで、戦争にかりたてた」と言われる少国民詩を、どうも本気で書いたのだ。」とある。この詩歌集に、北原先生の晩年の大作、カンタータ「海道東征」はもちろん、少国民詩と言われるいわゆる翼賛詩は載っていない。北原先生は文学の戦争責任において、真っ先に槍玉に上がるだろう。でも、彼にそれを書かせたのは誰だ。文学に戦争肯定を求めて、彼が好きだった林檎を書けないようにしたのは、我々ではなかったか。

因みに、なおもって海道東征を翼賛的なものに祀り上げようとするsk新聞には呆れてしまう。普通に見りゃあ聞きゃあ、美しい日本語の粋でしかないのに。

武者小路先生も公職追放の憂き目にあっているけど、あの人は根っから反戦論者なのに、何でだ。意味がわからん。彼は誰の責任を肩代わりしたんだ。やっぱり我々じゃないのか。

月吠え読んでからずっとこんなことを考えているのです。
日々燦々 / comments(0) / trackbacks(0) / 伝埜 潤 /
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