那由多の果て

伝埜 潤の遺産。小説になり損なったフラグメントと、日々の連れ連れ。

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Beautiful day

過去フラグメント再掘。



俺の兄は三歳年上で、名前を縁という。家族の中でこの兄は、ひとりだけ姓が違った。

「いってきます、母さん」声をかけると食器を洗う音が止んで、母が暖簾の隙間から顔を覗かせる。
「今日は遅いの?」
「いつも通り」
「そ。いってらっしゃい、歩くん」
スニーカーの先を地面に打ちつけ、ドアを開ける。外は泣き出しそうな曇り空。はらはらと落ちる薄紅の花弁は、明日にはもう水溜まりに浮かんでいるのだろう。一旦頭を引っ込めて紺色の雨傘を掴み、今度こそ家を出る。何もかもいつも通り、これが俺の日常だ。
――兄がいないことすらも含めて。

父が再婚したのは二年前、俺が十六歳のときだ。
俺の実の母は、俺の出産によって亡くなった。父はそれを感じさせない育て方をしてくれたが、いずれは知れることで。そうしてそれは俺のトラウマになった。新しく母ができると同時に、兄ができた。三歳年上の兄は、父と養子縁組をせず、家族の中でただひとり違う姓を名乗った。
『いつかのためさ』
兄はいつも、そう言っていた。
『いつか訪れるいつかのために、俺はこの方がいいのさ』
言葉遊びのようなそれが、結局何のことかわからないまま『いつか』は訪れたらしい。一年前に短大を卒業し、就職と同時に家を出た兄は、それっきり音信不通になった。兄の後ろ姿を彩ったのは、灰色の曇り空と散り逝く薄紅。門出には不似合いだと、笑って、見送った。

思い当たる理由が、ないわけではない。母は、前夫の暴力に耐えきれず離婚していた。そして兄は、母よりも兄の実父――暴力的な前夫に似ていた。それは、母が怯えるほどに。

雑踏を歩きながら、いつも視線を送る場所がある。自転車通学だった兄が、雨の日に利用していたバス停。徒歩で高校まで行く俺の頭を撫でて、手を振って、別れる。あの日もそうだった。そうやって、別れた。
俯いて本を広げて、立ったまま読みながらバスを待っていた。その、くせっ毛が風に煽られる様子だとか、顎のラインだとか、眇められた目だとか。曇り空に兄の姿を追って、朧な記憶はその度に温い痛みを伴い、俺の胸を灼く。
けれど今日は、
「ゆかりさん!」
実体を持ったその姿は、俺の心臓を貫くようだった。
「――あゆむ、か」
躊躇いがちに俺の名前を呼び、兄は困ったように微笑んで、本を閉じた。
「縁さん、」
兄は一度も『兄』と呼ぶことを許してくれなかった。名前で呼んでくれと言われたときには、わからなかった。それが『いつか』のためなのだと――いつかの訣別のためなのだと。それなのに癖というのは恐ろしい。俺は兄を、名前でしか呼べなかった。
「縁さん、」
「歩、学校は?遅れるぞ?」
「誤魔化すな!」
泣き出した空、湿気た風のせいで、兄の髪はぺたんと寝ていた。黒く艶やかに、豊かにうねるくせっ毛。母のやわらかな猫っ毛とは似ても似つかない、兄が『父』から継いだもの。
「何で連絡寄越さないんだよ!教えてくれたアパートも引っ越して、転職までして!」
「ん、まぁ…いろいろ思うことがあってさ、」
目を眇めて笑い、俺の頭を撫でる。少し痩せたのかもしれない。会わない間に兄は、少し、変わったような気がした。全く変わっていないような気もした。
「思うことって何だよ…それは母さんを――あんたが守ってきた人を置いてくほど、重要なことなのかよ!」
噛みつく俺に、兄はあくまで冷静だった。ひっそりと、自嘲するように微笑み、
「母さんが一番怖がってたのは、俺だよ」
息を呑んだ。そんなことはないと叫ぶには、心当たりがあった――あり過ぎた。
『今ここにないものは、必要ないものなんだ』
俺と父だけの寂しい家に、来たばかりの兄は言った。実の母を殺した俺は今、新しい相手を見つけた父さんにとって、必要ないのだと思い込んでいた。その俺に、兄は言ったのだ。
『だから俺にも母さんにも、あいつは必要ない』
その『あいつ』こそが兄の実父。兄を生み出した人なのに、それでも兄は必要ないと言い切った。
『だけど歩と父さんはここにいる。母さんにはふたりが必要なんだ』
無理のある理論だった。高校生にもなれば、すぐに気づくことのできる矛盾だった。反論もすることはできたが、俺は黙って頷いた。兄が俺を思って言っているのだと知れたから。
けれど、兄は、
「俺がいなくなって、歩、お前は何か変わったか?」
兄は静かに諭すように、尋ねた。変わらない。兄がいない、それすら日常になってしまった。だが俺は唇を鎖し続けた。
「なぁ、歩、あの家族は変わったか?」
変わらない。変わっていない。それは父と母の努力の結果でもあるし、兄の根回しのせいでもある。だが変わらないと、言えば、兄の無茶苦茶な理論が成り立ってしまう。今ここにない兄は、必要ない人になってしまう。それだけは赦さない。それでは、兄が、
「縁さん――兄さん」
兄さんと、呼んだとき。兄は小さく微笑み、目を背けた。
「呼ばないでくれよ。錯覚しちまう」
あの場所に、俺の居場所がある、みたいに。

空が緩やかに泣き出して、しかし兄は傘を持っていなかった。
「歩、もう行きな。遅れるだろう?」
ぽつりと、兄の頬に落ちたのは降り出した雨粒で、涙ではなかっただろう。だが俺にはそれが、泣かない兄の涙に思えて仕方なかった。帰れないことを、己の意志だと思い込みたいこの人が、決して自分に赦すはずのない涙。それが悔しくて、俺は兄に傘を差しかけた。
「持って行けよ」
「歩、」
「いつか俺に返しに来いよ」
きょ、と兄の目が見開かれる。同時に傘を拒む手の力が強くなった。
「無理だ。できない。それにお前が、」
「俺のことはいいから、持っていてくれよ。それを返しに来たときに、見ればいいんだ。あの家にあんたの居場所が、本当にないのかどうか。あの場所にいないあんたが、本当に必要ないのかどうか――兄さん、」
押し黙る兄に無理やり傘を握らせ、俺は雨の中を駆け出した。紺色の雨傘が、遠ざかる。バスが来た。兄は行ってしまう。けれど俺は振り返らなかった。兄は来るだろう。あれで律儀な人だ。そのときに、思い知るがいい。

美しい日だった。
空は泣いて、俺は傘を持たずに走っていて、それでも美しい日だった。
錯覚すればいいんだ。あの家に、あんたの居場所は確かにあるんだ。ここにないから必要ないなんて、悲しいことを言わないでくれよ。
あんたが帰ってくる『いつか』のために、兄さん、もう名前でなんか呼んでやらない。



終。
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