えらく間の空いた続き。
「な、んやのこれ」
紗弓馬の骸を見た、それが磐音の第一声だった。そしてそれは、この場にいる全員の心中をよく現していた。
もの言わぬ骸となってそこに在るのが、あの加藤紗弓馬だと、誰が信じられよう。快活で磊落、そして誰より情に弱い、紗弓馬。己より他人のために、引き金を引いた男だった。
「さゆまさん…!」
掠れ声でその名前を呼び、磐音が口を覆った。応えはない。第二隊の先鋒として戦場を駆けるようになっても、いつまでも気のいい、日野の馬借の気質が抜けない男だった。馬の尾のような、高く結われた髪が躍る様を見ることは、もうない。
「何で殺られた」
「毒や…佐治が、相手やぞ」
左近が周五郎に答え、周五郎が渋面になる。毒の佐治。周五郎は根っから杉谷の人間である。ゆえに、甲賀の内実にも、多少なりとも通じている。今、佐治において実働できる者は限られている。
「女か」
「あぁ。周五郎さん、心当たりが?」
左近の低い声に、周五郎は腕を組み、呻いた。
「ある。今、佐治の一門で紗弓馬を殺せるような腕利きは、真折か真鎮しかおらへん。真折は、十二のときには、今のわしが撃ったんと同じだけ殺しとった。真鎮は真折の妹や。やけどそいつらが、どうやって毒を使うのかはわからん。針を打ちよんのか、毒剣を投げよんのか、床に連れ込みよるんか」
溜息を吐いた周五郎に、声を上げたのは佑作である。
「接触しただけで殺られた」
陽心と磐音が目を剥いた。
「触ったら終わりや言うことか!?」
「そうや」
「そうや、ってなぁ…」
皆が信じていたのは、紗弓馬があの刺客を討って帰ってくることだった。それは最悪の形で裏切られ、紗弓馬は死んだ。その上、相手が予想外の難敵であることを知らされたのである。言い知れぬ重圧に、誰もが口を開こうとしない。
静四郎は耳の奥で聞く。濁流の如く鼓膜を叩く音。憤激の奔流が血に乗って静四郎の身体を巡る、正にその音だった。その音が、轟と勢いを増した。
「触らへんたらええねやな?」
ぽつりと呟いたのは藤兵衛である。
「触らへんても、向こうが仕掛けてさえくれよったら殺れるで。もっと大掛かりで細かい計画が要るけどな」
希代の罠師、上西藤兵衛。杉谷でも異色の技師は、頭の中で計画を立てるとき、殊更に皺深くなる。
「けどなぁ、爺さま。次は俺らから仕掛けようや」
藤兵衛を遮ったのは、煮えるような笑みを孕んだ左近の声だった。長い黒髪を背で結い直し、左近は唇を吊り上げた。
「俺ら、杉谷衆は狩られるだけの狐か?狸か?猪か?甲賀の山ん中でびくついとぉる獲物か?」
ぎり、と藍色装束の袂を握ったのは佑作だ。誰が、狩られる獲物か。筒を掲げて立てば、杉谷衆は何者にも負けぬ。敗北を敗北のままにしておくなど、杉谷の矜持が許さなかった。
「偵察に出てくるわ。磐音、俺の袈裟出し。若頭、ええか?」
「…あぁ。構へん」
静四郎は何かを考え込むように黙し、ようやく応えを放った。それを受け、墨染を纏った左近は錫杖を鳴らして踵を返す。鳴り響く金属の連音は紗弓馬への、左近からの手向けだった。
「よぉこき使てくれるわ…」
善助は嘆息する。先触れとして東海道を駆けた善助は、一晩で尾張に着いた。戦の仕度に沸く城内に主が帰ることを告げ、すぐさま成田の陣へと向かったのである。
「保科利右衛門さえ、おらへんたらなぁ…織江さまの敵やないねけどなぁ」
殺そか。
呟いた善助は西国巡礼の行者に化けたまま成田の陣に近づき、藍装束に着替え息を潜めた。行き交う甘酒売り、髪結い、両替商、刃物研ぎ。戦場は財布の紐がよく緩む。行商にとっては外せない稼ぎ場所なのだ。その他様々な職の物売りを眺め、やがて善助は吊り上がった目を細める。善助が目を付けたのは物売りではなく買い手だった。木綿を買う夫丸である。夫丸とは戦場で荷駄を運ぶための人足である。それが木綿を買い集めるなら、目的はおおかた決まっている。
程なく夫丸の装束を手に入れた善助は、傘を被り手拭いを顎に渡して、成田の陣に入り込んだ。
「おぉい、木綿を買うてきたぞ」
殊更声を張り上げる。潜むとは真逆の行動だが、息を殺して隠密に徹するよりも、善助はこちらの方が得意だった。
「救護所はどこじゃあ」
尚も大声を上げる善助に、幾人かが奥を指した。ひょいと片手を上げると、善助はそのまま陣幕の張られた奥へと歩んだ。
「おぉ、木綿はこちらへ寄越しゃあ」
救護所を準備していた典医が善助を呼ぶ。木綿は止血に必要な必需品だ。それが戦場ともなれば、買い占めでもしなければ間に合わない。へぇ、と応えた善助はばたばたとそちらへ走った。
「陣を引き上げましょうぞ」
救護所の近くの陣幕からは、微かな声が漏れていた。常人には聞き取ることが困難なそれでも、善助には充分以上である。
声の響きから見当を付け、ごくごく当たり前の顔でそちらへばたばたと走る。戦支度の中だ。多少大袈裟に動いた方が怪しまれない。陣幕の隙間にどっかりと腰を下ろし、善助は積んであった藁で鞋を編み始めた。もちろん合議を行う諸将を横目に見つつ、である。
「織江の若当主はこちらの動きを察し、帰路に着いたとのこと。最早、織江を攻めること叶いますまい」
低く、叱咤する調子で進言するのは、保科利右衛門為将。成田の重臣にして、戦の要であった。ならば相手は成田の当主か。
「臆したか利右衛門。今が好機に決まっておろう?織江信雪がここにいないのだ。迅速に攻め、滅ぼせい。あやつが見るのは、焼け野原よ!」
呵々と声高に笑う相手に、為将のふさふさと黒い眉が吊り上がる。
「戦は童の陣取り遊びではござらぬ。この保科利右衛門がおりながら、左様な楽観にて兵をみすみす失うことを許すわけにはゆきませぬ」
ぎくりと身をすくませた成田の当主はしかし、眉をひくひくと動かし為将に抗するべく口を開いた。
「そのあたりで止めておいては如何です、父上」
間抜けに開いたその口から、声が出ることはなかった。なぜなら凛と通る涼風なる声が、為将を諌めたからである。善助は眉を微かに上げた。成田は勢力としては強大な上、古くからある。その中で、あの声のような若い将など知らない。
「新左は黙っておれ」
新左。それを聞いて善助は内心で首を傾げた。
思い当たるのは保科為将の実子、新左衛門征将。だがあれは、まだ齢十五になるや否やの子どもだ。成田の、主家に見合わぬ実力ある諸将に並んで合議に出られる程とは思わない。
「黙りませぬよ父上。このような暗愚なる当主に、父上が骨を砕かれるなどお笑いだ。好きにさせておやりなさいませ。さすれば父上の言が正しいことが、よくよくその身に沁みるでしょう」
すっぱりとそう言い切ったのは、やはり屈強な諸将に比べて一回り以上華奢な子どもである。
「な、ぶれい」
「口を慎め新左衛門!」
雷鳴の如き一喝だった。声を震わせた成田の当主が何事か口にする前に、為将がその頬を張っていた。篭手を付けたままの手である。子どもが覆った口許からは血が筋を作って垂れた。
「主家に対して何たる言い草か。我らが力尽くして働かねば、何が起こるかわからぬお前ではあるまい」
睨み合う父子の間、すっと子どもが眦を緩めた。
善助は感づいた。父の進言を助けるために一芝居打ったのだ。後は為将が畳みかけ、圧倒され呑まれた成田の当主はうんうんと頷く他にない。
「御屋形さま。陣を引き上げまする。皆はその旨を伝えてくれるか…その際に、足軽と夫丸の数を、足軽頭にしっかと数えさせよ」
善助はにやりと笑った。織江が甲賀者を使うことまで握っているとは、流石に保科利右衛門為将。三国一の称名は飾りではないと見える。為将の指示は、潜り込んだ間諜を探り出すためのものだ。丁度、善助のような。
「まぁええか」
これで成田が引き上げれば、善助の仕事はなくなる。行きがけに為将を殺すこともありかと思ったが、善助はさっさと夫丸装束を脱ぎ捨てて人波に紛れ、遁走した。
気にかかるのは保科新左衛門征将である。聡い子どもだ。あの親にしてあの子。父親が鷹なら、あれは鳳雛だ。でなければ龍か、麒麟の子だ。あの子は、征将は、今に織江の脅威となる。生かしておけば、信雪の障害となる。だが、あれだけの器ならば、いつまでも成田の下にはいるまい。織江恭四郎信雪は鬼だ。魔王だ。その信雪に、如何様にして対峙するのか。
「末が楽しみやなぁ」
くつくつと笑いながら、善助はふっと、客死した兄の顔を思い出した。
「鷹になれん家鴨は俺だけか」
自嘲に片頬を上げ、それきり善助は物も言わずに駆けた。
充電終わり。またぼちぼち書いていく。保科さんちの家庭事情は後々に影響してくる。善助の兄ぃは、実は自分が一番の道化だと思っている。家鴨は「あひる」。
織江は尾張の大名なので、成田も当然その辺り。でも愛知の方言がわからないから書けない。イコール標準語か、侍言葉。という妙な不徹底。