灰3
2012.05.30 Wednesday 21:05
ルークが再び戦場へ向かってから、五日が経った。ルークの戦いはあくまで防衛戦だ。国境を拡大するのではない。だから大丈夫だ。それよりルークがいない間、俺には重要な仕事があった。家を守ることだ。ルークと俺の家。ルークはここに帰ってくる。俺がここにいる限り、ルークは約束を破らない。
ルークに拾われて、十年が過ぎていた。俺が幼子だった頃のルークは笑えなかった。もっと荒んでいた。だから俺は自分のことを、いつかきっと捨てられるに違いないと、気まぐれで連れてこられた厄介者なのだと感じていた。そんなだから、家出をしたことだってある。家を出て、森を抜ける前に、結局帰ってきたルークに捕まったのだが。あのときのルークときたら、世の終わりのような顔をして俺の両肩を掴み、泣き笑うような奇妙な表情で懇願したのだ。
行かないで、と。
『いつか、戦争が終わったら』
ルークがそれを言ったのは、そのときが初めてだったと思う。
『――君が、私を』
それを言うときのルークは酷く愛しげで、俺は何も言えなくなってしまう。何も言えなくなった俺を、切ない表情でルークは眺める。
本当は、叫んでやりたい。俺は、ルーク、あなたの望みなんか知らない。俺はルークに生かされて、救われてここにいるのに、どうして。
だがルークは戦場へ向かう前に、必ず俺に言うのだ。
『いつか、君が、君の手で』
そして俺は、何も伝えられないまま、その背中を見送るのだ。真綿を纏った茨に首を絞められる感覚。焦燥に声が出ない。俺の声は喉の奥に絡め取られ、ルークには届かない。
『私を殺してくれ』
その言葉を、否定できないまま、また、あの背中を見送った。
###
戦況は、辺境の村であるここまでは届かない。都へ出ればまた違うのだろうが、俺にそこまで行く気はなかった。ルークは帰ってくる。それがわかっているから、俺はここを動かない。だが、わかっているのとルークが心配なのは、全く別の問題だった。ルークは紅に濡れて帰ってくるが、掠り傷以上の傷を負ってくることはなかった。
でも今回は?
斬られているかもしれない。貫かれているかもしれない。腕を足を、失っていたら――恐ろしい想像を振り払うように首を振る。
そのとき不意に、音がした。顔を向ける。洗濯物が手を滑り落ち、土にまみれてしまった。だが、異質な音が再び響き、俺の意識は完全にそちらに捕らわれた。
鈍い金属音。ざりざりと擦れる耳障りなそれは、ルークがたまに立てる具足の音に似ていた。だがルークなら、真っ先に声をかけてくるはずだ。違和感。俺は身を翻し、家の扉へ走った。
だが、
「…え、」
背後から響いたのは、水分を含む塊が土に叩きつけられる打音。金属の軽やかな音が、それを彩る。振り返れば、人影が二つ、倒れたもう一人を見下ろして立っていた。傍らには馬が二頭、落ち着かなげに鼻を鳴らしている。がっしりとした体格は、村にいる農耕馬とは比べ物にならない。あれは軍馬だ。蹄の音は、柔らかな土に吸われてしまっていた。
倒れているのは、白い具足の――ルークと同じ具足を纏った男。既に事切れている。具足の隙間から流れ出る紅に、俺は戦慄した。紅い。紅、紅、紅、戦場の色。ざり、と後ずさる足が滑った。死体を見下ろす男が、音に気づいて顔を上げる。滴る紅。血振りの済んでいない、湾曲した刃。黒い瞳。目線が克ち合う。
「あ、あ…!」
褐色の肌、黒い革の鎧を纏って――ルークを殺そうとする異教徒たちが、そこにいた。
後ずさる足が何かに引っ掛かり、後ろに倒れ込む。悲鳴のような音を立てたのは、体重がかかった家の戸だった。この戸を開けて中へ逃げ込んでも、無駄だ。俺の姿を見たのだ。あの異教徒の騎士は!黒鎧を纏ったあの騎士は、俺を見つけたのだ!萎えた足は動かない。逃げられない。
ごめんなさい。ルーク、ごめんなさい。俺はこうして死ぬためにここにいたの?これで終わり?あなたが帰ってくるのに、約束したのに、いつか、いつか戦争が終わったら、いつか聖戦が終わったら――あんな約束を守りたくなどないけれど、それでも、
近づく跫、馬蹄は柔らかい土に吸われて鳴らない。近づいてくる黒い騎士。黒い髪の、褐色の肌の、異教徒たち。ルークと戦い、殺そうとする輩。精一杯睨みつける先には、二人。逃げられない。影が落ちる。眼前に迫る、二人の若い騎士。ルークよりも一回りは若い。一人は長い黒髪を編んで顔の右側にまとめ、もう一人は額の左から目尻にかけて傷を持つ。だが、奇妙だった。幼い記憶に灼きついた、戦場の気配がない。肌が粟立つような殺意がない。抜き身を携えた二人、紅の血飛沫は確かに異教徒の頬を濡らしているのに。
「あぁ…神よ偉大なる神よ、思し召しに感謝いたします…!」
終焉は訪れず、異教徒の騎士たちは、呆気に取られる俺の前で、伏して祈り始めた。南への礼拝を終えた騎士は立ち上がり、腰の抜けた俺の前に膝をついた。
「十年間、あなたさまの無事を願い、お探ししておりました。我が名はゼク・リザ、これなるはシャキュール。共に、あなたさまと偉大なる神の忠実な僕にございます」
編んだ髪の騎士が革の胸甲に拳を当てて名乗る。騎士の――ゼク・リザの左瞳には涙が浮かび、傷を持つ騎士シャキュールに至っては既に号泣していた。
「あの日、紅き災厄が我が故郷を襲った日、我ら兄弟の目の前で、あなたさまは奪われました。我ら一族はそれを消えざる汚名とし、あなたさまを取り戻すために、」
「ま、待って、待ってくれ!何を、言っているんですか、俺が、何だって?あなたたちは、何を、」
半ば悲鳴じみた問いに、ゼク・リザは悲しげに眉を寄せた。
「無理もない、か…あのとき、あなたさまは四歳…覚えておられぬのですね」
ゼク・リザの長い前髪の奥から、熾火のような黒い右瞳が覗く。
「あなたさまは、紅い災厄によって奪われたのです。彼らは街に火を放ち、軍馬を乗り入れ、ことごとく殺し漁った。あなたさまの乳母であった我らの母は、紅い災厄の眼前を塞ぎ、そうして軍馬に踏み殺されました。あなたさまの御母君はあなたさまを抱いたまま、背中から斬られて逝かれました。その腕の中から、あの男は――」
ゼク・リザは、そこまでを激情に震える声で途切れなく紡ぐと、小さく息を吐いた。
待って、待ってくれ。その続きは、口にしないで。言わないで、言わないで、終わってしまう。終わってしまう、から。思い出してしまう。身体を駆け巡る鼓動が煩い。あの日、あの日の紅、迫り来る奔流の中に灯った鬼火にも似た碧の光。あれは、あれは、俺はあの輝きに救われて、
「紅き災厄、将軍ルキウスは、あなたさまを拐っていったのです」
急転直下。
ルークに拾われて、十年が過ぎていた。俺が幼子だった頃のルークは笑えなかった。もっと荒んでいた。だから俺は自分のことを、いつかきっと捨てられるに違いないと、気まぐれで連れてこられた厄介者なのだと感じていた。そんなだから、家出をしたことだってある。家を出て、森を抜ける前に、結局帰ってきたルークに捕まったのだが。あのときのルークときたら、世の終わりのような顔をして俺の両肩を掴み、泣き笑うような奇妙な表情で懇願したのだ。
行かないで、と。
『いつか、戦争が終わったら』
ルークがそれを言ったのは、そのときが初めてだったと思う。
『――君が、私を』
それを言うときのルークは酷く愛しげで、俺は何も言えなくなってしまう。何も言えなくなった俺を、切ない表情でルークは眺める。
本当は、叫んでやりたい。俺は、ルーク、あなたの望みなんか知らない。俺はルークに生かされて、救われてここにいるのに、どうして。
だがルークは戦場へ向かう前に、必ず俺に言うのだ。
『いつか、君が、君の手で』
そして俺は、何も伝えられないまま、その背中を見送るのだ。真綿を纏った茨に首を絞められる感覚。焦燥に声が出ない。俺の声は喉の奥に絡め取られ、ルークには届かない。
『私を殺してくれ』
その言葉を、否定できないまま、また、あの背中を見送った。
###
戦況は、辺境の村であるここまでは届かない。都へ出ればまた違うのだろうが、俺にそこまで行く気はなかった。ルークは帰ってくる。それがわかっているから、俺はここを動かない。だが、わかっているのとルークが心配なのは、全く別の問題だった。ルークは紅に濡れて帰ってくるが、掠り傷以上の傷を負ってくることはなかった。
でも今回は?
斬られているかもしれない。貫かれているかもしれない。腕を足を、失っていたら――恐ろしい想像を振り払うように首を振る。
そのとき不意に、音がした。顔を向ける。洗濯物が手を滑り落ち、土にまみれてしまった。だが、異質な音が再び響き、俺の意識は完全にそちらに捕らわれた。
鈍い金属音。ざりざりと擦れる耳障りなそれは、ルークがたまに立てる具足の音に似ていた。だがルークなら、真っ先に声をかけてくるはずだ。違和感。俺は身を翻し、家の扉へ走った。
だが、
「…え、」
背後から響いたのは、水分を含む塊が土に叩きつけられる打音。金属の軽やかな音が、それを彩る。振り返れば、人影が二つ、倒れたもう一人を見下ろして立っていた。傍らには馬が二頭、落ち着かなげに鼻を鳴らしている。がっしりとした体格は、村にいる農耕馬とは比べ物にならない。あれは軍馬だ。蹄の音は、柔らかな土に吸われてしまっていた。
倒れているのは、白い具足の――ルークと同じ具足を纏った男。既に事切れている。具足の隙間から流れ出る紅に、俺は戦慄した。紅い。紅、紅、紅、戦場の色。ざり、と後ずさる足が滑った。死体を見下ろす男が、音に気づいて顔を上げる。滴る紅。血振りの済んでいない、湾曲した刃。黒い瞳。目線が克ち合う。
「あ、あ…!」
褐色の肌、黒い革の鎧を纏って――ルークを殺そうとする異教徒たちが、そこにいた。
後ずさる足が何かに引っ掛かり、後ろに倒れ込む。悲鳴のような音を立てたのは、体重がかかった家の戸だった。この戸を開けて中へ逃げ込んでも、無駄だ。俺の姿を見たのだ。あの異教徒の騎士は!黒鎧を纏ったあの騎士は、俺を見つけたのだ!萎えた足は動かない。逃げられない。
ごめんなさい。ルーク、ごめんなさい。俺はこうして死ぬためにここにいたの?これで終わり?あなたが帰ってくるのに、約束したのに、いつか、いつか戦争が終わったら、いつか聖戦が終わったら――あんな約束を守りたくなどないけれど、それでも、
近づく跫、馬蹄は柔らかい土に吸われて鳴らない。近づいてくる黒い騎士。黒い髪の、褐色の肌の、異教徒たち。ルークと戦い、殺そうとする輩。精一杯睨みつける先には、二人。逃げられない。影が落ちる。眼前に迫る、二人の若い騎士。ルークよりも一回りは若い。一人は長い黒髪を編んで顔の右側にまとめ、もう一人は額の左から目尻にかけて傷を持つ。だが、奇妙だった。幼い記憶に灼きついた、戦場の気配がない。肌が粟立つような殺意がない。抜き身を携えた二人、紅の血飛沫は確かに異教徒の頬を濡らしているのに。
「あぁ…神よ偉大なる神よ、思し召しに感謝いたします…!」
終焉は訪れず、異教徒の騎士たちは、呆気に取られる俺の前で、伏して祈り始めた。南への礼拝を終えた騎士は立ち上がり、腰の抜けた俺の前に膝をついた。
「十年間、あなたさまの無事を願い、お探ししておりました。我が名はゼク・リザ、これなるはシャキュール。共に、あなたさまと偉大なる神の忠実な僕にございます」
編んだ髪の騎士が革の胸甲に拳を当てて名乗る。騎士の――ゼク・リザの左瞳には涙が浮かび、傷を持つ騎士シャキュールに至っては既に号泣していた。
「あの日、紅き災厄が我が故郷を襲った日、我ら兄弟の目の前で、あなたさまは奪われました。我ら一族はそれを消えざる汚名とし、あなたさまを取り戻すために、」
「ま、待って、待ってくれ!何を、言っているんですか、俺が、何だって?あなたたちは、何を、」
半ば悲鳴じみた問いに、ゼク・リザは悲しげに眉を寄せた。
「無理もない、か…あのとき、あなたさまは四歳…覚えておられぬのですね」
ゼク・リザの長い前髪の奥から、熾火のような黒い右瞳が覗く。
「あなたさまは、紅い災厄によって奪われたのです。彼らは街に火を放ち、軍馬を乗り入れ、ことごとく殺し漁った。あなたさまの乳母であった我らの母は、紅い災厄の眼前を塞ぎ、そうして軍馬に踏み殺されました。あなたさまの御母君はあなたさまを抱いたまま、背中から斬られて逝かれました。その腕の中から、あの男は――」
ゼク・リザは、そこまでを激情に震える声で途切れなく紡ぐと、小さく息を吐いた。
待って、待ってくれ。その続きは、口にしないで。言わないで、言わないで、終わってしまう。終わってしまう、から。思い出してしまう。身体を駆け巡る鼓動が煩い。あの日、あの日の紅、迫り来る奔流の中に灯った鬼火にも似た碧の光。あれは、あれは、俺はあの輝きに救われて、
「紅き災厄、将軍ルキウスは、あなたさまを拐っていったのです」
急転直下。