「これが、俺とルークの結末だ」
不様で無惨な、結末と決別だ。俺とルークが出会ったあのときに、既にわかりきっていた終幕。
高い弦の音。一定の間隔で鳴らされるそれは耳障りでなく、詩人の指先は紡ぐように動く。
紅の天使に二親を殺された異教徒の子。俺はルークを殺し、その死の上に和平を築く。それがルークの描いた終局だった。それがルークの望んだ予定調和だった。
『いつか、君の手で、私を』
「だが、俺はルークを殺せなかった」
ルークがいなければ、十字架にして楔たる俺など、俺の存在意義など、無に等しい。それなのに、
「ルークは二度と戦場に出なかった。戦場に出ることなく、死んだ。俺の知らない場所で、たった独り」
地を這うような嗄れ声は何を恨んでいるのか。俺にはもうわからなかった。
「それは、なぜ」
詩人が問う。全てを見透かしたような声音が癇に障る。顔を上げれば、虚のような両目を見開き、詩人は唇を笑ませていた。それを呆然と見つめながら、俺の口を衝いたのは無情なる事実。
「処刑、されたからだ。和平を直訴したルークは、反逆者として――さらには戦争犯罪人として、斬首された」
ルークの首が晒されたあのときの衝撃は、俺から全てを奪った。それはあの国の、徹底交戦の意志を俺に伝えた。
終わらない。
ルークが、紅の天使が死んでなお、聖戦は終わらない。ならばどうしろと言うのだ。ルークは俺に何を望んで、俺を育ててきたのだ。俺はルークを殺してその血の上に和平を築く、それがルークの残酷な理想だった、はずだ。
「その日から、俺は現実を見るのを止めた。なのに、考えてしまう。ルークのこと、戦争のこと、この身を灼くのは酒だと思い込んでしまいたかったのに!」
渇いた喉が裂けそうに痛む。灼け爛れる臓腑の痛み。ルークの紅は今も、俺を染め上げる。
「忘れたくはありませんか」
詩人が弦を弾き、尋ねる。
「その痛みを、その悲しみを、その紅を、あなたの嘆きを、忘れたくはありませんか」
詩人の虚に吸い込まれるように、震える唇が声を紡ぐ。
「な、に?」
「私はイリアッド。吟遊詩人イリアッド。あなたは私に糧を与え、私は嘆きを歌い続ける」
喉が痙攣するように、笑声が溢れていた。
忘れたい。忘れたかった。ルークを、あの優しい碧を。そのために俺は酒に溺れ、この世を諦めたのだ。
「忘れさせて、くれるのか」
頬を生温い雫が伝った。詩人が笑む、三日月の唇。みしりと圧力を増した暗闇を引き裂いて、詩人は竪琴を鳴らした。
「その前に、お聞きいただきましょう…ある男の歌を」
詩人の声は朗々たる旋律を紡ぐ。それはある男の一代記。ある男が、剣を取り死に逝く物語。
同時にそれは、酷く懐かしい調べだった。
『愚かしいとわかっていても、私は戦わなければならなかった。殺されるわけにはいかなかった。私はいつか、私が殺してきた人々よりずっと虚しく死ぬだろう。恨まれて、憎まれて死ぬだろう。死んだ後まで罵られるだろう。それでも、私以外の人が手を汚さないために、私以外の人が憎まれないために、私はこの国を護って殺し続けるのだ。あの白髪の義兄のように。いつか戦が終わったとき、私は殺されればいい。全ての憎しみが私に向けばいい。憎まれるべき私は、全ての憎しみを背に負って死ねばいい――』
それは紛れもない、懐かしく懐かしく慕わしく忘れたい、胸を抉るあの紅の、
「ルー、ク…?」
旋律が繰り返される度、目に映る情景は時を遡った。詩人の指先は踊るように時を紐解く。やがて俺が辿り着いたのは、あの紅の日よりも前――ルークが紅の天使となった、そのときだった。
「そうか。ロラン義兄上が――」
悼みに顔を歪めたのは、幾分年若いルークだった。
「逝かれて、しまったか」
ロランとは、話にだけ聞いていたルークの義兄だろう。異教徒の血を引く鬼子、白髪のラウレンティウス。戦場に散ったこの義兄を、ルークはいつも愛しげに語っていた。
「ならば、私が征くしかあるまいな」
苦く笑みながら、ルークは言った。
「義兄上が為せなかったならば、跡を継ぐは私だろう」
この聖戦を終わらせるのは。
先代の王は、異教徒との戦で功を為した英雄だったが、それは続き続ける血塗られた未来を用意した。さらに、捕虜として連行した各地の姫にことごとく子を生ませたため、王位継承権は混乱した。それが白髪の義兄であり、ルークだった。ルークをはじめ、王の庶子の多くは王位を望まず、辺境の農村に隠棲していた。王座に近く残り、義弟たる現王を支えたラウレンティウス、その白髪の義兄の死が、ルークを戦場へ向かわせたのだ。
場面は頁を捲るように切り替わり、ルークは白銀の具足を身につけた。燦然と煌めく十字の意匠。
「国境防衛に徹せよというのが、義兄上のお考えであったろう?」
「それではもはやどうにもなりますまい!我らは父祖の代より始めし聖戦の担い手です。今攻めずして、何時」
ルークは溜め息を吐いた。
それは奇妙な光景だった。幾分年若い、今の俺と変わらない年齢のルークは、義兄の率いた兵の先頭に立って十字を掲げている。俺が見ているのは、詩人が見せるルークの過去。竪琴の調べが高らかに不自然にに響いているが、気に留める者はない。当然だ。これは光景だけ、既に過ぎ去った過去だ。俺は張りぼての玉座に座したまま、目にしているのは真実か、虚構か。
「戦場に出たこともない若造が!憶測で物を言えるは今のうちぞ!」
吐き捨てられ、ルークは顔を微かに歪めて笑った。
「仰る通りだ…私は、戦場を知らぬ。義兄上が如何なるお人だったかも、実はわからないのだ」
寂しげに笑ったルークは、酷く痛々しく見えた。
「――虚構の幻と、お思いですか?」
詩人の声が届く。見やれば、虚ろな眸が此方を射る。
「幻、なのか?」
「どう思われても構いません。ですがあなたの嘆きをいただくためには、これをお見せしない訳にはいかないかと」
詩人の笑み、竪琴が紡がれる。調子を変えた旋律と共に、目にする場面も変わっていった。
『紅の天使』――その異名は、ルークの第二戦にもたらされた。戦場で、ルークの表情は能面のように固まり、振るわれる腕ばかりが鋭さを増していく。切り裂かれるのは黒い具足ではなく柔いヴェール――国境を越えたルークの兵は、異教徒の街を襲撃したのだ。
今までの主人公と違って、忘れたいアルスラン。イリアッドの動き方も違ってくる。さてはて。