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「行かれますか」
「あぁ。止めるか?」
「いたしませぬ」
廊下を歩くことさえ久方ぶりだった。歩みが滞るのは酒のせいだ。俺の不甲斐なさゆえだ。
俺には、約束がある。
ふらつく足を叱咤し進む。傍らに歩くのは、ちょうどさっき見たルークと同じ年頃になった男だ。覚束ない足元の俺に速度を合わせつつ、肩を貸すなどの手は一切出さない。弁えた男だ。俺以上に俺を知っているような男だ。
「ゼク・リザ。俺に失望しているか」
かつてルークの前に立ち、俺を背に庇い、その顔と身体に炎を被った。俺は知らなかったが、その火傷は俺を――首長の子を守った名誉の傷として称えられたらしい。だがゼク・リザは黒髪を長く伸ばし、敢えてその右半面を隠している。
「いいえ」
長身を黒い革鎧に包んだ青年を、ルークは第七の悪魔と呼んだ。その意は『背く者』または『憤怒』。一方的で独善的に付けられたその異名を甘んじて名乗り、今に至る。個人の力量としても将としても、この国の最強であることは間違いない。だが総大将としてのゼク・リザは、あまり苛烈な将ではなかった。
「我が君」
ゼク・リザの声は、慈しみを抱いている。
「止めるな、ゼク・リザ」
「いたしませぬ。お引き留めはいたしませぬ、私は――私は、我が君。ずっと、悔いておりました」
「?」
噛み合うことを避けた返答に、思わず足を止める。日除け布の間から、長い髪がするりと溢れた。眼前に膝を折ったゼク・リザは額づいて詫びの言葉を紡ぐ。
「あなたさまは、何も知らずにあの男と暮らされていた方が――幸せであったのではないか、と。我らは、あなたさまのためと言いながら、あなたさまを苦しめたのではないかと。なれば、あのとき私とシャキュールには、何ができたのか」
ふ、と。ゼク・リザは唇を歪めた。自嘲にも似た表情は、俺に拝謁を請うときにいつしか浮かべるようになったそれだった。
「あの男が、紅い災厄が、王弟ルキウスが、あなたさまを慈しんだことは、あのとき――あなたさまと再び見えたときにわかりました」
お許し下さい、あなたから二度も親を奪ったことを。
「ゼク・リザ」
「…世迷い言を申しました」
再び自嘲する憤怒の悪魔は、紅き災厄と同じ目をしている。
俺は、何をしていたのだろう。俺が何も知らない間に、俺が酒に自らを毒している間に、ルークは、ゼク・リザは、ずっと――悔いていたのだ。
「俺は――」
何をしていたのだろう。ずっと、目を背けていた。ルークが、ゼク・リザが、シャキュールが、与えてくれたものから目を背け、酒の力を借りて己の臓腑を灼いて。その真意を知ろうともしないで。
「俺は、幸せだった。あの頃も今も、俺は充分に幸せだよ、ゼク・リザ。すまなかった。与えられたものを受け取ろうとしなかっただけで、俺は、幸せであれたはずだった」
『血に染まらぬまま、』
ならば俺が果たすべき約束は、
『幸せになりなさい』
「戦争を終わらせよう、ゼク・リザ」
その半面の火傷は消えない。俺の父も母も、還らない。だが、誰かの血によってではなく、終わらせよう。
聖戦を。戦争を。この、嘆きの連鎖を。
「ルークの兄に、会いに行く」
現王エウリウス。ユーリ兄上とルークが呼んだあの人は、俺と同じく血に染まらぬままある。
「剣を交えに行くのではない。ゼク・リザはここに残り、兵たちを抑えてくれるか。他には内密に、俺一人で行きたい」
さすがにゼク・リザの柳眉が寄った。俺が正式に戦場に出向くならば、軍事動員の規模は大きくなるだろう。だが兵を動かし軍事行動を取れば、向こうも応じてくる。それは避けたい事態だった。
「ならば、シャキュールをお連れ下さい」
小さく溜め息を吐いたゼク・リザは立ち上がり、俺の顔を見下ろしながら断固たる口調で言った。
「お言葉のとおり、私はここで他の将を説得いたしましょう。代わりにシャキュールを行かせて下さい。近頃は少しばかり膿んでおりましたので、アルスランさまより遠駆けとでもお誘い下さい。さすれば他の者がとやかく言うこともありますまい」
頷ける。シャキュールとゼク・リザは、俺の乳兄弟として別格の信頼を置かれている。シャキュールならば、事情を把握した上で付き合ってくれるだろう。
「わかった。――長い間、待たせてすまなかった」
ゼク・リザの唇がいいえ、と答える。それを端から知っていた。だからこそ、俺はその信に答えなければならない。
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『詩人…ひとつ、問いたい』
詩人は、彷徨う。
『お前は恩人だ。お前が過去を見せてくれなければ、俺はルークを知らないまま朽ちていた。俺は、この嘆きを抱えていく。嘆きばかりではない。これが、ルークの証だ。俺の存在が、俺のこの名が、ルークの願いだ。ならば、俺はこの嘆きを手放してはならない。俺がこの嘆きを抱いているなら、和平は成る。俺と、ルークを悼む人が在るなら』
揺るぎない瞳は、嘆きを孕んだまま、それでも未来を見据えて澄んでいた。その瞳が問う。詩人の虚ろを貫き、遥か、遥かな詩人の嘆きを睨み据える。
問う声を聞いた。
『だが、お前は…詩人、お前自身は何を嘆いている?』
――私が?
『お前は誰だ?お前は、何を嘆いている?』
私は――私は、イリアッド。
『お前は誰だ、イリアッド』
私は――誰だ?
私はイリアッド。
吟遊詩人のイリアッド。
嘆きを喰らうイリアッド。私はあなたの嘆きを喰らい、あなたは私に、糧を、与え――
私、は
詩人の虚ろは見開かれる。
私は、嘆いているのか?
何を?
答えはない。詩人は彷徨う。指が弦にかかり、ゆっくりと弾いた。不均衡の和音は、それ自体が答えのように響いた。
「私は、誰だ?」
私の嘆きは、どこにある?
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「アルスランさま!我が君!お待ち下さい!そちらは…!」
シャキュールの焦る声を後ろに、馬に鞭を当てた。
「シャキュール、言ったろう?遠駆けだと。急がねば今日中に辿り着かないぞ」
声を張るとシャキュールがしかし!と返してくる。
「アルスランさま」
さすがに歴戦の勇将、シャキュールは易々と俺に追い付く。もとより酔っ払いの俺相手では、追い付けない方がおかしい。
シャキュールの顔にある刃の傷は、いつの間にか増えていた。ゼク・リザとシャキュールが、戦場で積み重ねた年月。ルークがいなくなった。それだけで二人が血にまみれずともよい理由は、十分に成り立ったはずだった。
「終わらせるぞ、シャキュール」
「は、」
「俺のこの手で。あの義父が守り、お前たちが救ったこの、俺の手で」
――血に染まらぬまま、幸せになりなさい。
「終わらせるぞ――この戦争を」
血ではなく、愛を以て。かつてこの身に傾けられた、ひたむきな愛を以て。刃ではなく素手で、脅かすのではなく。
「俺は希望なのだろう?」
「…我が君、」
「俺はアッシュ――『灰』だ。戦火の後に残る、灰だ。この灰の上に、新たな色が芽吹く。そのときに輝くのは、決して血の色ではない」
ルークの髪を濡らしたあの紅ではなく。爛々と輝く鬼火の碧でもなく。
ルーク。俺の灰の上に芽吹くのは、あの、木漏れ日に煌めくあなたの色だ。あなたの髪と、瞳の、何物にも変えられない本当の色だ。
俺を包む、あなたの愛の色だ。
終。