那由多の果て

伝埜 潤の遺産。小説になり損なったフラグメントと、日々の連れ連れ。

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緋の眼3 アスカロン16

定刻を少し過ぎたばかりの食堂は、昼食を摂る生徒でごった返していた。
「ドライスラフ…ごめんな」
沈鬱な表情で呟いたシャリースの盆の上には、スパニッシュオムレツ。ヤンは苦笑する。
「いいよ。僕がぐずったのが悪いんだ。それとシャリース、ヤンでいいよ」
「今その会話すんのかよ…。それより、座る場所だ。探さねぇと。ラングフィールドは?」
言いながら視線を迷わせるナイゼルの盆にはミネストローネ。赤いスープを零さないように身体を反転させたナイゼルを、離れたところからチェイスが手招く。もうすぐ食べ終わる一年生の集団がいたのだ。ぞろぞろと連なってその机まで辿り着いたヤンの盆に、クリーム煮はない。既に残っていなかったのだ。代わりにヤンは、ナイゼルと同じミネストローネを取った。
「ありがとうなチェイス!」
席を確保していたチェイスの分の食事は、シャリースが自分の盆に載せていた。無論、同じスパニッシュオムレツである。それを受け取りながら、チェイスは少し眉を寄せていた。逃げるように席を空けた同級生の様子に、居心地の悪さが過ぎる。
「ドライスラフ」
「僕は大丈夫だ、チェイス。君たちがいるんだから。それよりヤンでいいよ。長いだろ」
席に着いた四人の周りからは、潮が引くように人が離れ、ぽっかりと穴が空いた。気遣うように声をかけるチェイスに、ヤンは笑って答えた。視線や陰口が気にならない訳ではない。だがヤンはもう、何も怖くはなかった。
「あ、バレンシア!ここ空いてる!」
不意に場違いに明るい声が、漂う気まずさを打ち払った。
「混んでるのに、何でここだけ空いてるのかな?あ、隣いい?」
あっけらかんと尋ねたのは、背は高いが華奢な上級生だ。ネクタイの色は藍色、第五学年の色である。その五年生の目を見、ヤンは思わずスプーンを落とした。
「お腹空いたね」
「にしては御機嫌だな。そんなに嬉しいか?クリーム煮」
満面の笑顔に、唇を緩めて答えたのは緑瞳の五年生、『弦』寮のバレンシア・グラーチアである。ちなみにバレンシアは、手羽先の香味揚げとクリーム煮の二つの盆を持っていた。
「お子様味覚だよなぁ、ユハは。ほら、」
「あ、ありがとう、だけど一言多いよ。悪かったね、嬉しいさ!普段あんまり残らないメニューだもん。あ、」
バレンシアに盆を置いてもらって、心底幸せそうなその五年生――『弦』寮のユハ・パラスケは、ヤンのスプーンを拾い、首を傾げた。ヤンの目が釘付けだったからだ。ヤンだけではない。ナイゼル、シャリース、チェイスまでもが動きを止めていた。不思議そうに瞬きをし、ユハはヤンに尋ねる。
「えーと、僕の顔に何かついてる?」
何かついてる、も何も。一年生たちは思う。
「いえ…」
包帯がきっちりと巻かれた細い指。その指が差し出すスプーンを受け取りながら、ヤンはユハを見つめる。
ユハは、いわゆる白色変異、アルビノである。双眸は鮮やかな朱色。首を傾げた拍子に長い白髪が肩を滑る。磁器のような肌も髪に劣らず白い。自分を凝視する一年生に、ユハは微笑んだ。
「クリーム煮は好き?」
「え、あ、はい」
「じゃ、ミネストローネとこれ、交換してくれる?」
ユハが差し出した深皿は、確かにヤンの好物だった。だが先程のユハの幸せそうな様子を見ていたヤンは、慌てて首を振った。
「だ、だめです!」
「そう?でも、僕がミネストローネ食べたいんだ」
ね?と首を傾げたユハの首筋から、長い白髪が落ちた。朱い瞳が細まって、ヤンは少し泣きたくなった。
「…はい。ありがとう、ございます」
「ううん、僕の方こそ」
そのとき、ナイゼルだけが気づいていた。密かに放たれるバレンシアの、殺気にも似た鋭い気配とユハを見る安堵の視線。それはナイゼルにも覚えがある。
「グラーチア先輩、」
ナイゼルはバレンシアを呼んだ。ナイゼルとチェイスは『尾』班、バレンシアと同じ班だ。バレンシアは青緑の瞳をちらりと動かして一年生たちを見た。
「あぁ?アーネンベルク。お前らユハに会うのははじめてか?」
問うバレンシアの様子は、一見普段と変わらなかった。だが万一、ここにいる誰かがユハの容姿について、ユハについて心ない言葉を放ったなら、バレンシアは間違いなく牙を剥くだろう。そんな決意が――ナイゼルがヤンに抱くのと同じ決意が、透けて見えた。
「はい。『弦』寮の先輩ですか?」
「そうだ。『弦』寮第五学年、ユハ・パラスケ。『爪』班所属だから…お前の寮だと、リチャードと同じ班だな」
ナイゼルは頷いた。リチャードは『杖』寮の五年生だ。言いながら、バレンシアの目がユハから離されることはなかった。そのユハはにこにことミネストローネを口に運んでいる。指を負傷しているため、動作はぎこちない。その隣では、幾分やわらかい表情になったヤンがクリーム煮をスプーンですくっていた。和やかな光景だが、やはりユハの白髪と朱眼は強烈な違和感を醸している。
「そうか。あいつは後衛にいたから…顔を合わせてはいないんだな」
バレンシアが呟く。
ユハの容姿は、千差万別のアスカロンでも異様だ。当然、敬遠されただろう。そして今なおバレンシアはそれを懸念している。なかなか食事を始めないバレンシアに、ユハがスプーンで盆を示した。
「冷めるよバレンシア」
「あぁわかってる。それとスプーンで盆を示すな。行儀が悪い。ミネストローネ零すなよ、ユハ。それ、服に付いたら落ちないぞ」
「ひどいなぁ。僕がドジみたいな言い方してさ」
唇を尖らせるユハは、一見酷く無邪気で幼い。だが、彼がかつて、今のヤンと同じような目に遭ったことは、初対面のナイゼルにも想像できた。
「ユハに何かあったら、俺が許さない」
ぽつりとバレンシアが零す。ナイゼルは、その語気の鋭さにびくりと背中を慄かせた。ようやくフォークを手にしたバレンシアは、さくりと香味揚げを突き刺している。
「そのつもりで、五年間あいつと一緒にやってきた。まぁ、俺が手を出すまでもなかったんだけど」
「え?」
「いつの間にか、同じ班にいたアルケイドと仲良くなったり、当時は無口で無愛想で近づき難かったミハイルにくっつきにいったり、ミカと一緒に無断外泊して罰を食らったり。俺一人があいつの味方だなんて気負ってたのが、かえっておかしかったよ。ユハはいい奴なんだ。容姿くらいであいつが孤立すると思ってた俺が、馬鹿だった」
それが今の第五学年だ。それを語るバレンシアはどこか誇らしげで寂しげである。
「それでもいつか、世界が、あいつらが――リチャードやエレジアや、アスカロンの先輩方が敵に回る日が来ても、少なくとも俺だけは掛値なしにユハの味方だ。それをユハは知ってる。だから俺は立っていられる」



ユハの信頼とバレンシアの依存。バレンシアは己の不安定さを自覚しており、ナイゼルに己を重ねている。己と同じ轍を踏ませてはならないと思っている。だがバレンシア自身は己の不安定さを悔いてはいない、という面倒な男。
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緋の眼2 アスカロン15

「アーネンベルク!今日のB定食何か知ってるか!?」
ぶすくれた顔で一人、食堂へ向かうナイゼルの背中を叩いたのは、『刃』寮の同級生、シャリース・ノジェだ。前時間が実技だったらしく、制服の上着を丸めて脇に抱え、ネクタイをしていない。
今日のメニューを聞いてくるその無邪気さと暢気さに、今のナイゼルは苛立ちしか感じられない。吐き捨てるように返事をする。
「知るか」
「あれ、機嫌悪いな?そういやドライスラフは?」
額の汗を拭いながら、あっけらかんと尋ねるシャリースに、ナイゼルは黙々と足を進めた。
「珍しいな。お前らが一緒じゃないなんて。何だ、喧嘩か?」
シャリースの楽天的な言葉に、ナイゼルは額に青筋を浮かべた。喧嘩などするはずがない。ヤンが馬鹿なだけだ。ヤンが、怖がりなだけだ。
思わずシャリースに向かって、云われのない八つ当たりをしそうになったナイゼルを止めたのは、第三者の存在だった。
「シャリース」
はっきりとした発音で呼ぶ声をナイゼルも知っている。『刃』寮のチェイス・ラングフィールド。たちまちシャリースが大人しくなる。チェイスは年齢だけならナイゼルやシャリースの二つ上、三年生と同い年だ。その落ち着き払った態度は、ナイゼルの荒れた気持ちすら凪いでいく。
「ドライスラフを呼びに来たんだろ、お前は」
「あ、そうだ。今日のB定のメニュー、鶏肉のクリーム煮だからな」
ナイゼルは口を半開きにしたまま呆然とした。クリーム煮はヤンの好物である。下級生に人気のある料理で、そのためこれを確保するには食堂に走らなければならないのだ。まさかそれを知らせに来たのか、この二人は。
「ヤンなら出てこないぞ」
「は?何で?」
「それは…」
言葉を濁すナイゼルを見つめ、チェイスは唇を緩めた。ジェードブルーの目を細める。
「そんなことを気にしているのか」
静かなその言葉に、ナイゼルはかっと目を見開いた。「そんなこと、だと!?あいつが、ヤンがどれだけ悩んで、」
「わ、待て、落ち着けアーネンベルク!」
頭一つ背の高いチェイスに掴みかかるナイゼルを、シャリースが慌てて止める。ナイゼルはその手を振り払い、チェイスを睨みつけた。
「お前にあいつの何が、」
「ここはアスカロンだろう。ドライスラフが何者であれ、大事なのはあいつがここにいる、その事実じゃないのか」
ナイゼルは口を閉じた。同じ『尾』班に属しながら、ナイゼルはチェイスのことを知らない。二年遅れて入学した理由も知らない。だがチェイスはこのアスカロンの生徒として、志を共にしている。学年ではチェイスは浮いた存在である。だが、同じなのだ。共にアスカロンの誇りなのだ。
「シャリース、行こう」
「おう」
「ちょっと、どこへ、」
半身で振り向き、チェイスは決まっていると言った。
「『杖』寮だ」

ナイゼルに愛想を尽かされた。だが、ナイゼルを思うなら、きっとこの方がいい。
ヤンは相変わらずベッドと壁の隙間で縮こまっていた。きゅるる、と胃が空腹を訴える。だがヤンはそれを無視し続けた。
が。その寂寥をぶち破り、部屋の扉が開いた。
「ドライスラフ!今日のB定食、お前の好物だぞ!」
「ノジェ!乱暴にドア開けんじゃねぇ!そこ建て付け悪いんだぞ!ヤン、聞いたか今の!」
「ドライスラフ、起きているか?」
三者三様の呼びかけの何に答えるべきかヤンが迷っているうちに、その頬に陰が落ちる。膝を抱えて縮こまっていたヤンを覗き込んでいるのは、シャリースだ。にやりと笑い、揶揄うように言い放つ。
「見ーつけた!」
「ちょ、待てノジェ、退け!」
そのシャリースを押し退け、ナイゼルがヤンの正面に立つ。ぐいっと両肩を掴まれ、ヤンは息を止めて目を閉じた。
「…っ、放し」
「誰が放すか」
そのままヤンの身体を引きずり上げ、ナイゼルはヤンを立たせた。所々に着いた埃をチェイスがぽんぽんと払う。
「聞いただろ。食堂行くぞ」
「でもナイゼル、僕は」
「腹が減っては戦はできぬって言うだろ。ラウ先輩も、食事は欠かすなって仰ってたぞ」
「シャリース、でも」
「竜殺士になるためにここに来たんだろうが。目ぇ開けろよ!」
恐る恐る目蓋を上げれば、ナイゼルがヤンの肩を掴んだまま、目を合わせた。何も起きない。ただナイゼルの視線だけが、炎のように熱い。
「ほら、」
ナイゼルが右手を差し出す。チェイスが左肩を叩き、シャリースが右から肩を抱いた。
「俺たちはアスカロンだ。俺たちが竜を殺すためには何が要る?連携だ。ビル先輩が仰ったろ。絆で連携を結び、戦うんだろ。俺は、少なくとも、俺とノジェとラングフィールドはお前を信頼してる」
チェイスが微笑む。シャリースが唇を尖らせ、
「せっかく知らせに来たのに、B定食なくなっちゃうぞ。早く行こうぜ?」
そう促した。



浮上するヤン。シャリースは脳天気に見えて、空気の読める子。
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緋の眼1 アスカロン14

「ドライスラフが『緋の眼』だと?」
低いシンリックの声に、ビルヘルムは深くうなだれた。
「気がつかなかった…俺の落ち度だ」
「いや、先生方も気づいておられなかったんだ。お前が気に病むことじゃない」
アランデイルはビルヘルムの肩を叩く。ビルヘルムは薄く笑い、両手で顔面を覆う。
『緋の眼』。それはかつて、竜として討伐された異能集団である。その異能は様々な形で顕れるが、特に視線に関わる能力が大半となる。バジリスクと呼ばれる竜が存在するように、彼らの眼は力を宿し、見たものに効力を及ぼす。ヤンの場合、ヤンを害する意志を持ってその瞳を見たなら、その敵意は相手の身に反る。
「虹彩が緋に変じ、眼球と色彩が反転、完全に緋に染まると、発動。捜索に行ったリチャードの報告だ。その能力で、ヤンは周囲の一年生五人を守った」
ビルヘルムは力無く言う。
「つまり、ドライスラフは敵を屠った」
「そうだ。ヤンは、遭遇した屍食鬼四体を殺している」
シンリックの確認に、最も直截な言葉を選び、ビルヘルムは返答した。ヤンは、本来なら三年生からしか許されない、敵の屠殺を行ったのだ。アスカロン闘竜学園は、竜殺士を育てるために在る。それに伴う覚悟を養うには、膨大な時間を費やす。生き物を殺す恐怖、罪悪と背徳、そして快楽に耐え得る精神は一年生にはまだ備わっていない。
「ヤン自身が酷く衝撃を受けている。それに加えて『緋の眼』だ」
ビルヘルムの言に、アランデイルが難しい顔をして口許に手を当てた。
「その歴史から『緋の眼』をよく思わない者が出てこないとは…言い切れない」
それが、三人の最大の懸念だった。ヤンはしなやかな精神の持ち主だ。屍食鬼を殺した自らの能力を受け入れることは、容易とは言わないが、できるだろう。だが周囲の反応は予想できない。ましてアスカロンには、竜殺士になることに誇りと覚悟を持つ者が集う。その純粋さが、今は危うかった。
「今は静観するしかあるまい」
「僕たちが動けば、事態が大きくなる」
シンリックの言葉に、アランデイルが同調する。ビルヘルムはただ黙って拳を握り締めるしかなかった。
「さっきはあぁ言ったけど、僕は大丈夫だと思うよ」
アランデイルは比較的明るく告げた。訝るビルヘルムに微笑み、
「朱い眼なら『弦』には既にいるからね」
事もなげに言い放つ。それを聞いたシンリックが微かに表情を緩めた。

あちこちから降り注ぐ視線が怖かった。ヤンは身を縮め、ベッドと壁の隙間で膝を抱えて耳を塞いでいた。目蓋を下ろせば、自らの首に斧を打って死んでいく屍食鬼が見えた。ヤンを遠巻きに見つめる、怯えた同級生が見えた。
「ヤン!晩御飯だぞ!食堂行くぞ!」
入口の前で呼んでいるのはナイゼルだ。昼食も食べなかったヤンの胃は、空腹が過ぎてきりきりと痛んだ。だがヤンは明るく言い返した。
「いいんだ、お腹空いてないから。ナイゼル一人で行、」
きゅるるるる…。腹の虫が、ヤンを裏切って空腹を訴えた。ヤンは咄嗟に胃を摩る。だがか細いその音を、ナイゼルは聞き逃さなかった。
「腹鳴ってるぞ。ほら、何を怖がってるんだよ」
ぐいっと腕を捕まれ、引き起こされる。ヤンは慌ててナイゼルから目を逸らした。
「どこ見てんだよ」
ナイゼルの不機嫌な声に、ヤンはびくびくと、それでも顔を背けたまま目を閉じる。いっそ、かつて言霊使いのスヴェンが唇にされていたように、目蓋を縫い合わせて欲しい。そうすれば、ヤンは誰も殺さずに済むのだ。
だがナイゼルは、それを許さない。ヤンの逃げを許さない。
「こっちを見ろよ、ヤン・ドライスラフ!俺はお前の目が緋かろうが、お前が何者だろうが、お前を怖がらない。お前を敵視しない。お前を攻撃しない!だから俺はお前と目を合わせたって死にやしないんだ!」
「ナイゼルは、そうかもしれない、けど、」
ヤンは顔を伏せたまま、声を絞り出す。ナイゼルの言葉は嬉しい。だがヤンは、ただ目が緋いだけではないのだ。
アスカロンに集う者の容姿は千差万別である。例えば、六年生のビルヘルムは金褐色の髪に紫瞳の珍しい取り合わせ。五年生のリチャードは、赤みの濃い茶髪に翠眼である。四年生のイヴァンは白金の髪に薄い灰色の双眸を持っていた。ただ目が緋いだけなら、今さら誰も気になど留めない。
だが、ヤンは違う。『緋の眼』――かつて竜に擬された異能集団という出自である以上、その存在をよく思わない者はいるはずだ。ここは、アスカロンは竜を殺す技術を学ぶ場所で、ヤンは倒すべき竜に擬された者なのだ。
「そうなったら、誰かに敵意を向けられたら、僕の目は、僕は、きっとその人を殺すよ」
震える声で、だがはっきり殺すと、ヤンは口にした。ナイゼルが一瞬だけ呼吸を止める。ヤンの目を見た屍食鬼が自らを斧で刻む様を、ナイゼルも見ていた。そしてヤンと行動を共にしていたナイゼル以外の一年生は、全員退学した。だが緋い瞳を見開き、茫然自失して涙を流すヤンの目蓋を下ろしたのはナイゼルだ。ナイゼルは畏れない。怖がる必要など、ナイゼルにはなかった。
「お前はしないよ。できないに決まってるだろ。俺を殺せないのに、お前は他の誰を殺せるんだよ」
怯えているのはヤンの方だ。ヤンは頑なに目蓋を下ろしたまま、首を振る。
「…勝手にしろ」
ナイゼルは踵を反した。遠ざかる足音から耳を塞ぎ、目蓋を固く閉じたまま、ヤンはさらに小さく身体を丸めた。



前回の収拾。ヤンは結局何者なのか、というお話。それにしても、ナイゼルはヤンを好き過ぎである。
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迷い子5 アスカロン13

ざ、くり。

音を立てて斧が食い込んだのは、ヤンの首筋でも、背中でもなかった。
「え?」
ぶしゃあ、と噴き出した粘性の液体がヤンの全身を濡らした。どす黒いそれは、屍喰鬼の血だ。
「え、ぇ、あ、」
ヤンの正面で、屍喰鬼は自らの首に斧を打ち込んでいた。ヤンの目が見開かれる。瞬間、屍喰鬼の腕が隆起し、裂けた口が苦悶の叫びを上げる。
「ヤンっ!!」
ナイゼルの声にヤンがびくりと身を震わせた。その眼前に、ごとりと重いものが落下する。屍喰鬼が自ら切断した、屍喰鬼の頭だった。
雨のように降り注ぐ黒血を浴びても、ヤンは動かない。微動だにしないその姿に違和感を感じ、駆け寄ったナイゼルはヤンの顔を覗き込む。どこか傷を負っていないか、傷つけられていないか。だがそれを確認する前に、声を失った。
緋色の目。白い瞳孔から目の縁に向かって、徐々に色を濃くしていく緋。一点を除いて、眼球全てが緋い。それは異形の目だった。異形の緋い目で、ヤンは泣いていた。
「ヤン、」
「…ない、で」
頭を振ったヤンが、ナイゼルから顔を背けた。
「見ないでよ!」
視線の先には、屍喰鬼。仲間の声を追ってやってきたのだ。それを見たヤンの目が再び見開かれる。空洞の目と、緋がかちあう。響く悍ましい鳴き声は、悲鳴と苦鳴だった。ヤンの目を見た屍喰鬼が次々に己の身体に斧を打ち込んでいく。何度も繰り返し、息絶えるまで斧を振り下ろす。その腕は限界を超えた動きを見せ、異常だ。
これは、ヤンの仕業か?
ナイゼルは混乱していた。ヤンの目は、名前のとおりのスラヴ系の灰色だったはずだ。栗色の髪に濃い曇天色の瞳の穏やかな少年、それが、ナイゼルから見たヤンだ。だがヤンが行っているのは、これがヤンの緋色の目が齎したというのなら――これは、紛れも無い虐殺だ。
これがヤンの内に潜んでいたのか。
ぞわりと背中を粟立たせ、ナイゼルはそれでもヤンの傍を離れなかった。
「ブラガ、大丈夫か?」
起き上がり、状況を把握できずに呆然としていたシドニオは、ナイゼルの声に我に帰った。這いずるようにして傍に寄ってくる。
「な、にが、起きてる?屍喰鬼は、」
「わかんねぇ。けど、今の内に逃げる算段つけるぞ」
頷いたシドニオがもう一人を助け起こし、そろりと動き出す。ナイゼルは再びヤンに向き直る。
「ヤン、」
「な、」
ヤンは顔を背けたままだ。ナイゼルはその顔を両手で挟んで、視線を合わせた。ヤンの緋の眼とかちあった、ナイゼルの鮮やかな青。狭窄したヤンの視界に入る、久方の色だった。腫れたヤンの目蓋を、ナイゼルはそっと下ろした。
「ヤン、逃げるぞ。立てるか?」
頬を涙で濡らしたまま、ヤンは頷く。ナイゼルの背後で、血まみれの腕がぴくりと動いた。
「アーネンベルク!」
シドニオが警告したときには、屍喰鬼は立ち上がっていた。ヤンと目を合わせていた時間が短く、首についた傷が浅い。吐きかけられる咆哮と共に、血混じりの唾液が飛び散る。ヤンに肩を貸したナイゼルが舌を打つ。
「この面倒くせぇときに…!」
恐怖を感じる以上に、ナイゼルは苛立っていた。屍喰鬼すら、今のナイゼルにとっては鬱陶しく横槍を入れる邪魔者だ。今、ヤンはそれどころではないのだ。ヤンが目を開けようとする気配を悟って、ナイゼルはその目蓋を押さえ付ける。
「開けんな!」
「でも!」
「でももストもあるか!開けんなったら開けんな!」
やや高圧な物言いだが、ヤンはぎゅっと唇を引き結んで、掠れ声で囁く。
「あり、がと…」
だがその頭上では、屍喰鬼が口を開けている。ヤンの頭を抱きしめ、ナイゼルの青が屍喰鬼に睨みつける。
「伏せていろアーネンベルク!」
この場にいないはずの人の声と共に、弓弦が鳴った。青い、明らかに何らかの力を持った炎が上がる。屍喰鬼を包み込んだ炎は、その身体を炭化させるまで消えなかった。
「無事か!?」
肩を激しく上下させ、二人を抱き寄せたのは『杖』寮第五学年、リチャード・パーシヴァルだった。黒竜の始末もそこそこに、屍喰鬼の痕跡を追ってきたのだ。
「せ、んぱぃ、」
ナイゼルがヤンの頭を抱えたまま、声を絞る。僅かに掠れた声に、リチャードは唇を噛み締めた。
「遅くなって、すまなかった…!」
蠢く屍喰鬼は、まだたくさんいた。仲間が仲間を呼んだのだ。だがもう怖がることはない。
「もう怖い思いはさせない」
リチャードが、ぎらりとその翠眼を瞬く。鋭く響いた打撃音。ぬかるみに着地する、軽快な足音が二つあった。
「先行するなら言ってから行け」
「いいじゃないか、ミーヒャ。それより片付けてしまおうよ」
すら、と長杖を構えるアルケイドと、無言で踏み出すミハイル。『刃』寮の五年生二人だ。アルケイドの黒耀石がゆっくり細まる。
「一年生はリチャードの傍にいておいで。あんまり見せたいものじゃない」
言うや、その身体がつむじ風と化した。いつの間にかアルケイドの上下が反転している。旋回した下半身、伸ばされた脛が屍喰鬼の頭を熟れた果物のように割り砕く。黒い短髪がはためき、その度にアルケイドの四肢は屍喰鬼を捉え、肉を爆ぜさせる。
「対竜戦闘では何もできなかったからね!」
「だからと言って、張り切りすぎるのもどうかと思うが」
生き生きと身体を使うアルケイドに対し、ミハイルは淡々と屍喰鬼を屠っていく。冷静に状況を見ていた感情の乏しい目が、ふっと瞬く。ひゅ、と刃から血を払い、そのままミハイルは剣を引く。
「終わったぞ、リチャード」
ぬかるみに広がる濃い血臭。累々と転がる化け物の死体に、一年生は声を失っている。
「ヤン、大丈夫か?」
目を閉じたままのヤンに、ナイゼルが尋ねる。恐る恐る目蓋を上げたヤンの双眸は、常の曇天だった。ほっとナイゼルが微笑む。ぱちり、と瞬いたヤンは、だが表情を強張らせたまま、呟いた。
「ナイゼル、」
「?どうした?」
震える唇が、血の気を失くしている。ナイゼルが笑みを消した。一年生を抱き起こしていたリチャードが、ただならぬ気配に振り向く。
リチャードは感づいていた。ヤンの背負った先祖帰りが、何なのか。それは、今気づくには少々重い能力だった。アスカロンで竜殺士を目指すなら、ヤンは微妙な立場に置かれるだろう。リチャードは歯噛みする。だが、もはや遅い。屍喰鬼に遭遇していながら、誰も喪わなかったのは幸いだった。だがこれから失うだろう。紛れも無い失態だった。
「ヤン?」
覗き込むナイゼルから目を逸らし、ヤンは緩く周囲を見回す。目が合った『刃』寮の一年生が、喉の奥で引き攣った声を上げて顔を背けた。そのまま茫然と宙空を見つめ、ヤンはぽつりと述懐した。
「僕の目は、何なの…僕は、何者だったの?」
ナイゼルは、それに答えられなかった。





ナイゼルの発言は、なぜか昭和の香りがする(笑)
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迷い子4 アスカロン12

休日には珍しいアスカロン。所謂、現実逃避。



消耗したシドニオを、ナイゼルと二人で引きずるように歩きながら、ヤンは目を瞬いた。眼底がずきずきと痛む。目を擦れば、埃が入って余計に苦しむことがわかっている。ヤンは何度も瞬きを繰り返し、眼球の違和感に耐えた。
「っ、アーネンベルク、聞こえる?」
不意に顔を上げたシドニオが、ナイゼルに尋ねた。ナイゼルは顔をしかめ、頷いた。
「見つかっちまってるな…迷いなくついて来やがる」
「まだ言わない方がいいね。ありがとう。もう歩ける」
ヤンとナイゼルの腕から離れ、シドニオは歩きだした。その顔面はやはり蒼白で、膝はまだ笑っている。
「こっちだ」
先頭に立ったシドニオは、再びサトリの能力を開いているはずだ。ナイゼルが唇を噛んだ。
「あいつばっかり、きついな」
「うん…だからさ、ナイゼル」
頷きながら、ヤンはナイゼルの手を引いた。
「せめて、傍に立っててあげよう。僕らにできるのは、残念だけど、それだけだ」
遭難してから、ヤンは努めて明るく振る舞っていた。落胆すれば体温が下がり、足が鈍る。動き続けなければ追いつかれる。空元気でも構わない。ありったけの体力で、ヤンは前を向き続けた。
ナイゼルは苦笑する。こいつは大物になる。そんな予感が、この状況下でもナイゼルを笑ませた。
「あぁ、行こう」
ナイゼルが言った、そのときだった。
「二人とも伏せろ、ッ!」
シドニオの怒声。咄嗟に姿勢を低くしたヤンとナイゼルの頭の上を、何かが斜めに横切った。ヤンを押し倒す形で伏せたナイゼルはすぐさま起き上がり、ヤンの腕を引いて助け起こす。その間に顔を上げ、そして見た。
振り下ろされた歪な斧。その柄を掴む、醜悪な手。
「あ、ぁ、」
ナイゼルは声を失い、がくがくと全身が震えるのを感じた。ふーっ、ふーっ、と生臭い息が吐きかけられる。助け起こされたヤンも同様に、身体を硬直させ棒立ちになっていた。
二人の前には、屍喰鬼と呼ばれる化け物が立っていた。
「こっちだ!そのまま走れ!」
シドニオの声が再び二人の鼓膜を叩く。先に我に帰ったのはナイゼルだった。ヤンの手首を掴み、走り出す。つんのめりかけたヤンだったが、何とか姿勢を保ち、ナイゼルに追い縋った。背後では不気味な鳴き声を上げ、屍喰鬼が仲間を呼んでいる。重い足取りで屍喰鬼が走り出す。身の毛のよだつような咆哮が、あちこちから響いてくる。
「う、ぅわあぁぁぁあ!」
「助けてっ!誰か!先輩!母さんっ、母さん…!」
「囲い込まれる…散らばるな!こっちだ!後ろを見るな!」
恐慌をきたした一年生の中で、ただ一人指示を飛ばすのはシドニオである。ヤンとナイゼルはようやく追いつき、シドニオの両側に立った。
「逃げきれるか!?」
「わからないよ!ただ、囲みを脱ければ、時間が稼げるかも!」
「地面が濡れてきた!水源が近くにある!」
ナイゼル・ヤン・シドニオの三人が口々に叫び、方向を決める。水だ。とにかく後を追われないために、痕跡を消すのだ。屍喰鬼は水場を好まない。ついこの間、生物学の授業で習ったことだ。
「後ろを向くな!僕があいつらを探るから、前だけ見て走れ!アーネンベルク、ドライスラフ、先導頼むぞ!」
シドニオの怒声に声を揃えて応える。ナイゼルの鮮やかな意志に満ちた瞳が、ヤンを捉えた。それを見返し、ただひたすら足を前へ運ぶ。腐葉土の地面は濡れ、枯れ葉でブーツが滑る。ぐちゃぐちゃとぬかるんだ音が立ち、土がだいぶ湿ってきた。
「近いな」
ナイゼルが土を見て呟く。水が、近い。もう少し、あと、どのくらい。足が徐々に重くなる。全力疾走を続ける足に、ぬかるみを突っ切るのは大きな負担だった。全員の呼吸が乱れ、歩調も乱れる。不意に、ヤンの後ろで悲鳴が上がった。
「、シドぉ!?」
一人がブーツを滑らせて転んだのだ。さらにまずいことに、その後ろをシドニオが走っていた。目の前で転倒されたシドニオは、止まり切れずに巻き込まれた。勢いがついていたから堪らない。二人してぬかるみの中を転げ回る羽目になった。あちこちを強打し、起き上がれない小さな身体に、不意に影が落ちる。
ペたりと滴る粘性の雫。それは屍喰鬼の顎から落ちた、涎だった。鋭角の牙が並んだ口は耳許まで裂けている。貧相な下半身に比べると肩が異様に発達し、腕が太く長い。その手に持った手斧の刃には黒い汚れがべったりとこびりついていた。黒ずんだ厚い皮膚。白目のない空洞のような目が、にまりと細まる。
笛のような悲鳴が響き渡り、悍ましい鳴き声がそれを掻き消した。シドニオの双眸は見開かれたまま、ぱたりとその両手が地に落ちた。屍喰鬼を見上げたまま、その斧が振り上げられる様を見つめて動かない。
「シドニオ!」
「ヤン!?ど、」
どこへ行くつもりだ、とは、ナイゼルは聞けなかった。ヤンは即座に振り返り、シドニオの許へ走ったのだ。ナイゼルもそれを追う。二人して死の腕の中へ、一心に走った。
そのとき、ナイゼルは見た。必死の形相をしたヤンの、その虹彩が奇妙に色を失っている。
「シド!」
シドニオの視界を塞ぐように、ヤンは正面に立った。屍喰鬼に背を向け、緋色の虹彩がシドニオに微笑む。その刹那、斧が振り下ろされた。
「ヤぁぁぁぁンっ!」
喉が裂けるかという声量が、ナイゼルの喉からほとばしる。ヤンが屍喰鬼を振り返る、その動作が、ナイゼルの目には酷くゆっくりと映った。
「ぁぁぁあああやめろォオおおおお!!」
ナイゼルの絶叫。それをヤンはどこか遠くで聞いた。
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迷い子3 アスカロン11

ひっさびさ。ミカの武器お披露目。



屍喰鬼に遭遇するのは、はじめてだった。何せ一年生である。だがそれが己が命を脅かすモノだと、全員が知っていた。
「シド?」
歩くほどに顔面を白くしていくシドニオに、ヤンはか細く声をかける。ぎこちなく振り返ったシドニオの唇は紫だ。吐き出される呼気は不規則で、眼球が泳いでいる。
無理もない。普段、シドニオは己の能力を鎖している。そうでなければ制御できない大量の意思と情報が、シドニオの精神を破壊するからだ。サトリの能力は両刃の剣である。上手く使いこなせれば心強いが、未だシドニオにはそれができない。結果、ここにいる全員の怯懦と焦燥、恐怖がないまぜになった感情が、シドニオの精神を常に苛んでいる。加えて、屍喰鬼だ。シドニオは奴らの動向を探るために、全方位に感覚を開いている。人外の感情をも掬いとるシドニオの辛さを、しかし誰も肩代わりできない。
「だい、じょうぶ…奴ら、さっきまで、僕らがいた場所にいる、みたい。臭いで、追われてるんだ…早く、できれば、水を渡るか何かして…臭い、を途切れさせ、ないと、」
無理をして作った引き攣り笑いを貼り付け、シドニオは言う。ヤンはナイゼルと顔を見合わせた。限界だ。
「ブラガ。もういいよ。サトリの能力を鎖せ」
ナイゼルが促す。だがシドニオは紫の筋が入った目を見開き、首を振った。
「だ、めだ。だって、」
「だっても明後日もあるかよ。逃げ切れても、お前がだめになっちまう。それじゃ意味ないだろ」
ナイゼルの強い口調に、ヤンも頷いた。しばらく視線を行き来させていたシドニオは、やがてがくんと膝をついた。がたがた震える上体をヤンが支える。切迫した呼吸音。過呼吸を引き起こしかけていた。
「う、あ、ごめ、」
「謝らないで。僕たちの方こそ、ごめんね」
シドニオの灰色の髪から滴る冷や汗を拭って、ヤンとナイゼルが両側から肩を貸す。緊張の糸が切れ、完全に腰が砕けているシドニオは一人で立てなかったのだ。
「とりあえず、水場を探そう。臭いを追われたら逃げ切れない」
ヤンの言葉に、ナイゼルが野戦服の上着を脱いだ。唐突な行動に、ヤンはぽかんと口を開ける。そうする間も、ナイゼルは脱いだ上着で汗を拭い、更にその上着を周囲の岩や木の幹に擦り付けた。
「うおらっ、と」
挙げ句、丸めた上着を何もないところに投げ捨ててしまう。それも渾身の力で振りかぶって投げた。やや離れた場所で、ぼすっと鈍い落下音。
「引っ掛かってくれるといいんだけどな」
ごくごく簡易な誤魔化し、気休めにさえならない。だが、一年生が必死に考えた末の行動である。ヤンは微かに笑い、ナイゼルに頷いた。
「行こう。逃げ切るよ」
ナイゼルの首が縦に振られる、それが酷く頼もしかった。

「下がれアルケイド!」
無口で沈着なミハイルの、滅多にない怒号。アルケイドのしなやかな身体が跳び上がる。その身体の残像を貫き、幾本もの鋼銀の鎗が疾った。ぎゃりりぃいんと音を立てながらそれが掠めたのは、黒い鱗の塊だった。
「だぁあ!見えねぇ!」
つい先程、眼球に甚大な負担を被ったミカの目は、明暗に弱くなっていた。まして、出血の酷かった右目――利き目は白い眼帯に覆われている。平衡感覚が掴めない。
「ミカ、右だ!」
ユハの声を頼りに、ミカは鋼鎗を操る。ミカは地中の金属を練り上げ、それを操っていた。輝く鋼の奔流が、幾枝にも別れて空を裂く。
ミカの骨格は組成が特殊なことに、金属が多分に含まれている。己の体内の金属を振動させ、磁力を帯びさせることで、ミカは体外の金属分子を操れる。言わば人間磁石なのである。
「なら見えるようにしてやる!」
言うや否や、青い炎が舞った。リチャードの矢は鬱蒼たる森を焼き、黒い巨体を浮かび上がらせた。ミカの操る鋼鎗がぐにゃりと首を擡げ、殺到する。一つの束に戻った鎗は、黒竜の放つ熱に勢いを弱めながらもその四肢を土に縫い留める。ぐぅんと旋回した長い尾は、エレジアの鎖が搦め捕った。地に足をめり込ませ、エレジアは歯を食い縛る。モーニングスターを操るエレジアの膂力は、五年生の内でもずば抜けていた。黒竜の目がぎょろりと瞳孔を細め、噛み合わさった牙の間からしゅうしゅうと白い蒸気が上がる。
「させるか」
土を蹴ったミハイルが、竜の頭めがけて跳んだ。左右の眼球の間に着地、落下の勢いを借りて愛剣を竜の上顎から貫通させ、その口を閉じた。どぷりと溢れた王水が細かな飛沫となり、その肌を灼く。だがミハイルは顔色一つ変えない。憤怒に輝く黄色い眼球の前で、姿勢を崩さないまま叫ぶ。
「やれバレンシア!」
バレンシアの大鎌。地を滑るように竜の首を抱え込んだその刃は、しかし鮮血に染まることはなかった。
「離れろ二人とも!」
切迫した声で叫んだのはユハである。その傍らで身体を痙攣させ、地に臥しているのは金灰色の髪、ミカだ。
「っ、」
黒竜の四肢に突き立った鋼鎗が形を失う。自由になった四肢を踏み締めた竜は、力強く尾を振るった。鎖で繋がったエレジアの足が宙に浮く。モーニングスターの長柄を手放す間もなく、地に叩きつけられる。
「ぐぁ、っ!」
「エレジア!」
振り下ろされる尾に叩き潰されるより一瞬早く、エレジアをアルケイドがさらっていた。苦鳴を上げるエレジアはしかし、必死に顔を上げてミカの様子を確認する。
ごぽりとミカの喉が鳴り、血の塊が吐き出される。その周囲にはユハが結界を構築していた。
竜の口を閉じていたミハイルが跳ね飛ばされ、竜が咆哮する。灼熱の、強酸性の蒸気が辺りに満ちる。咳込みながら、ユハは眼前に白い手を翳して黒い巨体を睨んだ。
「ユハっ!?」
バレンシアが声を上げる。その声と同時、王水の息吹が見えざる壁にぶつかった。白煙を上げながら灼け溶けていく土と木々。そのなかでもユハの砦は辛うじて持ちこたえた。ユハの額に玉の汗が浮かぶ。翳された白い指が、指先から火傷に覆われていく。その様を見た五年生たちは血の気を失った。中でも激昂したのはバレンシアである。
「きさまぁぁぁあああ!」
黒い髪を逆立て、ベリルの双眸を燐光の如く煌めかせ走る。レコンキスタを握る拳は白い。怒りのあまり見境を無くすのは、バレンシアの最たる欠点だった。
「っの、馬鹿!」
焦香の髪を靡かせ、すぐさまエレジアが後を追う。その二人とは正反対に、ミハイルとアルケイドは結界に走り寄る。リチャードの番えた矢が竜眼を潰す。途端に鋭い哭き声を上げた黒竜は、激しく暴れ始めた。のたうつその身体を、エレジアの星が襲う。鎖を引き擦る金属音。
「さぁ膳立てはしてやったぞバレンシア!」
エレジアが怒鳴る。鎖に引かれ、晒された首。逆向いた鱗が見える。そこが竜の急所だ。バレンシアが湾曲した刃を、長い首に添わせる。走る勢いそのまま地を蹴り、長柄を掴んで空で反転、旋回する断首の大鎌。金属が硬質を噛む。ぢぎ、と耳障りな音と共に、バレンシアの両腕が振り抜かれた。
刎ねられた首が高く宙を舞う。王水の滴が飛び散り、辺りで音を立てた。





ある意味、ヤンが主人公になる契機が、このエピソード。大事に書かねば。
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迷い子2 アスカロン10

久々に。


「逃げなきゃ、」
がたがたと全身を震わせ、ナイゼルが言う。人外の気配はすぐそこまで近づいている。特に、それを知らせた『弦』寮の一年生の顔色は紙のようだ。
「アーネンベルクの、言うとおりだ…逃げなきゃ、喰われる」
唇を紫色にしながら、そう言う。彼はいわゆるサトリだと、ついさっき告白されたところだ。彼によれば、その人外の気配は、ヤンたちを発見すれば食い殺すだろう。
「屍喰鬼、だと思う…」
屍喰鬼とは、竜を筆頭とする幻想生物の中で、最も質の悪い部類である。屍を喰らうと言われているが、奴らには肉の区別などない。つまり、見つかれば食われる。『弦』寮の少年が言うとおりだ。
「でも、どうして」
ヤンは口を覆って眉を寄せる。確か、先日の授業では、屍喰鬼が自ら姿を現す場所は特定されていると聞いた。実習のコースは当て嵌まらない。
「ヤン、後だ。逃げるぞ」
ナイゼルが肩を叩いて促す。案内は『弦』寮の少年だ。
「頼む。えーと…」
名前を呼ぼうとするが、出立前のごたごたで、彼の名前も聞いていなかったことに気づく。青い顔でふっと微笑み、少年は名乗る。
「『弦』寮のシドニオ・ブラガ。『牙』班だ。シドでいいよ」
リシア輝石のような瞳を瞬かせて、彼は笑った。

「あ、」
ずっと眉間を押さえていたミカが不意に声を発した。待機を命じられたミカ、ユハ、バレンシアは最悪の事態に備えて救護の準備をしていた。その最中である。
「あ――っぐぁ!」
両目を押さえ、膝を折ったミカに、バレンシアが駆け寄る。
「ミカ!どうした!?」
眼球表面の毛細血管から出血したミカの目は、普段の澄んだ水色が見る影もない。見た景色を通して感じた力が、ミカの眼球に叩きつけられたのだ。激痛に焦点をさ迷わせながらも、ミカは声を絞り出す。
「リチャードを呼び戻せ…相手は竜だ!眷属持ちの黒竜、しかも長寿竜だ!全員でかからなきゃ倒せねぇ!」
息を呑んだバレンシアがユハを見る。頷いたユハが指を組んだ。結界を張るのと同じ要領で、一定地域内に信号を送る。
黒竜は地上を這う飛ばない竜である。同じく飛ばない竜である地竜との違いは、その性質にあった。王水の吐息を吐き、身体に流れる血液も強酸性。その上、体表面の温度は百度を超える。体内は言わずもがな、灼熱である。ゆえに倒すことが非常に困難とされる竜の一種だ。
黒竜に対して、第五学年は因縁がある。現在の五年生が四年生だったとき、幾度めかの対竜戦闘の相手が黒竜だった。眷属を持たず、幼体だった。にも関わらず、十一人がかりで敗北を喫したのだ。代わりに黒竜を仕留めたのは、当時の六年生である。そして、その時点で十一人いた学年の人数は、七人に減った。
「あのときの俺たちじゃない。今度は敗北など許されない…後輩の身の安全がかかってるんだからな」
バレンシアの呟きにユハが唇を吊り上げる。
「あのとき先輩方がしてくれたことを、返していかなくちゃね」
今度は守る側だ。決意を秘めて、バレンシアのベリルの瞳が瞬く。がしゃりと持ち上げたのは、身の丈以上の長柄を持つ大鎌、レコンキスタだった。バレンシアの出身はイベリア半島、聖戦の根拠地である。それをよく現した異様な武器だった。
「素っ首刈り奪ってやろうじゃないか。レコンキスタの餌食になるがいい」
湾曲した刃がぬらりと光る。バレンシアは癒し手でありながら前衛だ。だがそれを呆れたような声が諌める。
「お前なぁ…相手が相手なんだから、自分の本分に徹しろよ」
両目を覆ったままのミカである。
「お前が後ろにいてくれなきゃ、安心できないだろ」
「お前らが言えた口か!俺がいるからって無茶苦茶するんじゃない!半分死体みたいな奴を治癒するのなんか、俺はごめんだ」
バレンシアが吐き捨てる。ミカは気まずげに頭を掻いた。
「別にそういう意味で言ったんじゃねぇよ。ただな、バレンシア」
「二人とも、黙って」
言い合いを打ち破ったのはユハの緊迫した声だ。白い眉間に皺を刻み、ユハは視線を上げた。
「リチャードとエレジアが、敵と接触した…!」

不意にリチャードが足を止めた。ユハの放った帰還を促す信号を感じ取ったのだ。だがリチャードが感じたのはそれだけではない。
「エレジア」
呼びかけに、エレジアは翠眼を細めて唇に笑みを刻んだ。びりびりとした殺気が辺りに満ちている。そんな中でもエレジアは笑みを崩さない。
「わかってる、リチャード。しかし帰らせてもらえるかな」
リチャードとエレジアは顔を見合わせ、その場を飛び退いた。瞬間木々を薙ぐ王水の奔流。しゅうしゅうと音を立て、強烈な硫黄臭を放ちながら木々が焼けていく。着地し体勢を立て直したエレジアが、即座にモーニングスターを抱えて疾走する。ぐぉんと唸った鉄球が鎖を引きずって駆けた。その勢いのまま、激突の気配。遠心力を利用し、エレジアは長柄を操る。鎖が縦横に舞い、鉄球がぽっかりと空いた木々の空白に飛び込んだ。金属を打ち合わせる鈍い音。
「やはり姿を見せてくれなくてはな!」
エレジアは闘争本能を剥き出しにして笑う。そのまま第二撃を見舞うが、それはあくまで時間稼ぎだ。
「退けエレジア!」
本命はリチャード。その右肩が逞しく隆起する。野戦服の上から着込んだ胸甲が軽く浮いた。手にはウェールズ型の長弓、つがえられた三本の矢は青い炎を宿して揺らめく。空を裂いた三条の青。それは鬼火だ。
「外すなよ学年長」
「わかっているさ」
突き立った矢から青炎が広がる。一度点いたら対象を燃やし尽くすまで消えない、それがリチャードの鬼火、思念の炎だ。立て続けに突き立った矢から炎が広がり、薄暗い陰を纏った巨体を照らし出した。
「黒竜だな。ユハが私たちを呼び戻した理由がよくわかった」
長柄を担いだエレジアが、得心したかの如く平然と言う。リチャードは膝立ちの姿勢から立ち上がり、弦を大きく弾いた。
「あぁ。間に合わなかったがな」
じゅう、と突き立った鏃が酸の体液に溶け、矢が抜け落ちる。青の凄絶な炎はちろちろと残滓を残すのみ、その微かな残り火を太い脚が踏み躙った。
「逃げるぞ!」
二人で太刀打ちできる相手ではない。できない訳ではないが、死を覚悟で挑まねばならない。三十六計逃げるに如かず。それは敗北ではないのだ。突進する黒竜の鼻面に鉄球を見舞い、エレジアが身を翻す。リチャードは一度立ち止まり、黒竜を見て眉をひそめた。
「リチャード!何してる!?」
エレジアの怒声に、リチャードはようやくその背を追った。
「なぜ止まった。私たちだけで相手にするには酷だと、お前の方がわかっているだろうが」
苛立ちを隠さないエレジアに、しばし黙考したリチャードは尋ねる。
「エレジア、あの黒竜の規模は眷属持ちだと思うか?」
眷属とは、竜をはじめ、強大な力を持つ幻想生物が境界を超えるときに引き連れてくる、やや力の劣る同系統の異形である。エレジアが黙り込み、さっと顔色を変えた。
「眷属持ちだとしたら――まさか」
「あぁ。僕たちは一度も、あの黒竜の眷属を見ていないだろう?だとしたら、」
リチャードは険しい顔で問う。
「屍喰鬼は、どこへ行った?」
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迷い子1 アスカロン9

久々にアスカロン。


アスカロン闘竜学園における実技授業の形態は様々だ。低学年の内は成長期が終っていないので、身体に無理を強いないよう、体力をつけることが最大の課題となる。
下級生の実技実習の際には教官に加え、第六・五学年が補佐に入る。アスカロンの教官は大抵が引退した竜殺士であり、中には身体を満足に動かせない教官もいるのだ。
ヤンのはじめての野外実習は、五、六人一チームでの指定コース踏破だった。事故が起こったのは、その最中である。
「誰がいなくなったって!?」
「リチャード!状況は!?」
「三番目に第二チェックポイントを通過したチームだ!」
完全に管理されていたコースから、一チームが道を外れたのだ。コースは平野と山林に設定されており、第二チェックポイントの先は鬱蒼とした森の茂る山である。
「『刃』寮からは確か…」
「『杖』寮からはナイゼル・アーネンベルクとヤン・ドライスラフだ!」
「このチームは六人だったな?」
不測の事態に対処するのは、補佐を受け持つ五年生である。五年生の学年長、『杖』寮のリチャード・パーシヴァルは翠眼を傍らに向けた。
「ミカ」
呼びかけられたのは、一際体格のいい青年だった。『杖』寮のミカ・バーテライネン。彼の水色の双眸には特有の先祖帰りがあった。
「何か見えるか?」
先見・予見・遠見――それがミカの能力だ。抜群の視力を誇るミカの目は、いつも五年生の標となってきた。しかし唯一つ難点がある。
「すまん…さっきから、意識すればするほど靄がかっちまう」
ミカの能力は、本人の制御が効かないということだ。視ようとしても視えず、何の意識もしていないときに視えてしまう。謝るミカに首を振り、リチャードは正面を見る。
『刃』寮のアルケイド・フェリス、エレジア・ヴァリアツィオーニ、ミハイル・グレンドルフ。
『弦』寮のバレンシア・グラーチア、ユハ・パラスケ。
そして『杖』寮のミカ・バーテライネン、リチャード・パーシヴァル――これが第五学年の全てだった。
本来ならば、補佐に着くのは六年生のはずだった。だが折悪く、竜の討伐依頼が舞い込んだのだ。任務を代わるという手段もあったが、それについては先方が承知しなかった。
「こんなことで後輩を失っては、先輩方にも学園の皆にも合わせる顔がない。第五学年の意地にかけて、全員無事に連れ戻す!」
応、と声が揃った。
「リチャード、あのね」
声を上げたのはユハである。
ユハは一見して華奢な青年だ。長い髪を半ばでまとめ、右肩の前に流している。見るからに戦闘に向かないその姿はしかし、五年生の中で恐らく最も頼りになるものだった。
しかし今、ユハの白い額には汗が浮かび、紙のように青白い顔色をしていた。
「コースを覆っていた結界が、無理やり解かれた」
ぜい、と喉を喘がせる。その肩を、同寮のバレンシアが支えた。
ユハは最後衛の結界士である。実習の間はずっと、コースを薄い結界で覆い、一年生が道を逸れるのを防いでいた。その結界に、綻びが発生したと言うのだ。
「コース上に何か近づいてきたんだ…もう少し範囲が狭ければ、弾けたんだけど」
「いい。無理するな。もうすぐ他のチームは全て帰還するから、その後は結界を解いて休め」
ユハは目蓋を下ろし、ゆっくりと深呼吸して頷いた。ユハの結界術は心身を削る。これ以上の負担はかけられなかった。
「ユハとミカ、バレンシアは本部で待機。僕とエレジア、ミハイルとアルケイドで分かれて捜索に向かう」
リチャードは焦る内心を押し隠し、指示を下した。

「ヤン、何かおかしいぞ」
周囲を見回したナイゼルが、ぽつりと呟いた。だがそんなことはチーム全員が気づいていた。
「コース上にどうしても出られない…。同じところをぐるぐる回っているみたいだ」
地図と方位磁石を手に、ヤンは溜息を吐いた。
「ナイゼル、これ見てくれる?」
ヤンが差し出した掌を見て、ナイゼルはげっと声を上げた。ヤンの掌に乗っていたのは方位磁石だ。その針が北と南を行ったり来たりの半円運動を繰り返しているのだ。
「壊れてんのかよ!」
ナイゼルの声を聞いたチームの面々は、途端に不安を現にした。だから君一人に見せたのに、とヤンはナイゼルを睨む。ナイゼルはしまった、という顔で舌を出した。
「壊れてるじゃなくて、壊れた。出発のときに確認したし、先生にも先輩にも見てもらったもの」
万が一のことがあってはならない。故に道具の確認は怠らなかった。方位磁石を見ていたのはヤンだ。第二チェックポイントを通過したときは正常だった。山に入り、道が斜面になった辺りから、針が不審な動きを始めたため、ヤンは進むのを止めたのだ。
「とにかく、下手に動いちゃだめだ。先輩方が見つけてくれるのを待とう」
頷いたのはナイゼルだけだった。
「待てよ、何でそんなの決めつけるんだ。自分たちで歩いて道を探す方が賢いだろ」
唇を尖らせる少年の名を、ヤンは知らなかった。確か『刃』寮の一年生である。出立前に彼とナイゼルは口論をして、名前を知る機会を失ったのだ。チーム内に不和を抱えた状態で、出立したのがいけなかったのだ。ヤンは臍を噛む思いだった。
「だいたい、何で方位磁石のことを言わなかったんだよ。もう少し手前で止まってれば、引き返せたのに」
もう一人、同じく『刃』寮の少年はヤンを責める。方位磁石の不具合を隠したのは確かにヤンの独断だった。
「ごめん」
「ごめんで済むかよ!」
少年の苛立ちはヤンに向いていた。どうしようもない事態に見舞われ不安感が募ると、人間は攻撃的になる。それは一種の防衛策だ。ヤンはもう一度謝った。ヤンだけに非がある訳ではない。だが今はそれどころではないのだ。完全な仲たがいを避けるためなら、ヤンは幾らでも謝るつもりだった。だがナイゼルは違った。
「ヤンのせいみたいに言うな!磁石を任せっきりにした、俺たちにだって責任があるだろ!」
あぁもう。ヤンは内心で溜息を吐く。
「ねぇ、」
今の今までおろおろとナイゼルたちの口論を見守っていた『弦』寮の一年生が、怖ず怖ずと声をかける。
「な、何か、近づいてくるんだけど、」
「先輩方かな?」
ヤンの問いに彼は青ざめた顔で首を振る。
「人間の気配じゃ、ない」
全員の血の気が引いた。



五年生全員集合と、迷子の一年生たち。『弦』寮の子はサトリ。ヤンの意図を知り、磁石の不具合を黙っていた。
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歯痒さ3 アスカロン8

先のフラグメントの続き。手違いで一度、全て消してしまったが、これで何とか幕。



「アランデイル!カノンとユベールは!?」
「騒がないの。大丈夫だよ」
噛み付くように尋ねたビルヘルムの額を指で弾き、アランデイルは報告する。ヤンはイヴァン・ザイチェフの顔面の裂傷を消毒しながら、それを聞いていた。
シンリックは重傷の二人を抱えて先に帰ってきたらしく、二人を除く四年生とビルヘルムはしばらく経ってから帰還した。そして帰還するなりビルヘルムが口にしたのが先の台詞だ。
「六人での初戦にしては、よくやった」
シンリックが呟き、ビルヘルムが頷く。しかし二人の顔は晴れない。
「二人ともしばらくは動けないね。でも生きて帰ったんだ。そんな顔をするな」
アランデイルが苦笑し、二人の肩を叩く。
「二人もおかえり。無事で何よりだ」
『歯痒いと思うことは、度々あるよ。ビルヘルムとシンリックが傷を負っても、僕が前に出ることはない。僕は、断じてそうしてはならない。今日みたいに二人が補佐に出ても、僕は留守番だ。それは確かに歯痒いし、もどかしくもある。それは否定しないけどね』
ヤンは思い出す。自己紹介の後で、アランデイルが吐露した内心を。
『僕は最後衛で、主に救護だ。僕がちゃんと立っていなきゃ、ビルヘルムとシンリックが前戦に立てない。僕が負傷すれば、二人は僕を心配してくれるけど――前を向いていられない。注意力を失った状態で対竜戦闘を行えば、待っているのは敗北…悪くすれば死だ。全てが崩れる。だから僕が最後の砦だ。倒れてはならない。死んでは、ならない』
それもまた、覚悟だ。アランデイルの覚悟だ。前戦に立つシンリックの、指揮を執るビルヘルムの、そして背後を守るアランデイルの、一人一人の覚悟の形。それが噛み合って動くからこその連携。
ヤンの役割はまだわからない。何がしかの能力――それは例えばミカのように、近しい未来を視るような――を持つ『杖』寮に編成されていながら、ヤンは己の能力すら把握していない。だが、まだヤンは一年生だ。これから先に待ち受ける未来は――血みどろの苦痛だとしても、拓けているのだ。
「さぁ、四年生も治療はあらかた済んだね?ここは僕が残るから、部屋に戻って休みなさい」
「っでも、先輩」
アランデイルの言葉に、噛み付いたのは『弦』寮のクロード・フーシェ。肋骨を脱臼していたため、上半身を晒したまま治療を受けている。酷い打撲痕に、クリストファーがぺたりと湿布を貼り付けた。
「あいつらは俺たちの…第四学年の同輩です。俺たちは大丈夫ですから、ここに居させて、」
「だめ」
言い募るクロードに、ぴしゃりと不可を出し、アランデイルは腕を組んだ。
「今は神経が昂ぶってるから何も感じないだろうけど、明日には全身が悲鳴を上げるよ。覚悟しておきな。それに、早く回復できることは美徳だ。ほら、寝ておいで」
結局のところ、保健室の主には勝てないのだ。押し黙ったまま、クロードは不承不承頷く。その背中にスヴェンが野戦服の上着を被せる。固く握られたままの拳を『刃』寮のタキ・セフィロスが取り、背中を『弦』寮のジェレミー・ロウがそっと押した。
「ご迷惑をおかけしました」
最後に保健室を後にしたのは、顔にガーゼを貼ったイヴァンだった。長身を折りながらそう一言、身体を起こして灰色の瞳をまっすぐアランデイルに向ける。
「二人を頼みます」
「あぁ。任せてくれ」
イヴァンが退室した後、詰めていた息を吐いたのはバレンシアである。
「お前の目に感謝してやる」
相変わらず寝不足に顔をしかめながら、傍らのミカに向かって呟く。ミカは肩を竦めた。
「不確実ですまん」
『弦』寮に属するバレンシアは癒し手である。掌を翳すことで、肉体の損傷を回復させる稀有な能力の先祖帰りである。
重傷者二人のうち、失血の酷かったユベールは、体温が著しく低下し一時的に心音が弱まった。それを見たバレンシアは、咄嗟に回癒を行ったのである。結局、大きすぎる傷は皮膚を浅く焼いて止血するしかなかった。バレンシアがいなければ、この強引な治療は一か八かの賭けになっていた。ミカの先見は、紙一重でユベールを救ったのである。
「じゃあな。俺は戻る。先輩方、失礼いたします」
欠伸を噛み殺しながら、ふらふらとバレンシアが保健室を出るのを見送り、アランデイルは振り返った。
「さて、皆もおかえり。寝付けないと思うけど、暖かくして布団に入ったらきっと眠くなるさ」
穏やかに微笑む黄緑の双眸に、ヤンは不意に眠気を感じた。隣ではクリストファーが目を擦り、シャリースが欠伸をしている。その肩をスヴェンがそっと押す。ハラルドが先んじて扉を開き、同寮のシャリースの手を引いた。
「よし、俺たちも行くか、ドライスラフ」
ミカが疲れなど見せない鮮やかな笑顔でヤンを呼ぶ。
「はい。失礼いたします、先輩」
礼をしたヤンに、再び黄緑が微笑んだ。
「おやすみ、ヤン、ミカ」



アスカロン保健室において。サブタイトルは、先祖帰りとアランデイルの立ち位置について。
人物が多過ぎて描写が追いつかなかった。反省。
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歯痒さ2 アスカロン7

先のフラグメントの続き。アスカロンは、大筋のストーリー無視で場面が書けるので、脇見運転者としては大変書きやすい。



「『刃』寮第一学年、シャリース・ノジェです」
亜麻色のやわらかな巻き髪を揺らし、シャリースは名乗った。巻き髪なのに短く切っているため、頭のあちこちで毛先が跳ねている。
「『杖』寮第一学年、ヤン・ドライスラフです」
クリストファーが俯いてしまったため、先にヤンが名乗る。
「『杖』の寮長のお気に入りだな」
寝不足で不機嫌なバレンシアが小さく言い、注目されたヤンは身を縮めた。ビルヘルムに特別構ってもらった記憶はないが、傍目にはそう見えるのだろうか。畏縮したヤンに、くせっ毛の五年生はひらひらと手を振った。
「贔屓とかって意味じゃないから。そう縮こまるな」
「次はクリス、君だよ」
アランデイルに促され、クリストファーはおずおずと口を開いた。
「『弦』寮第一学年、クリストファー・ヘイニングです…」
ヤンの野戦服の袖をきゅっと握り、クリストファーは目を上げずに名乗る。
「あぁもう俯くなよ」
背後に回り込んだミカが、クリストファーの頬を両手で挟んで半ば無理やり上げさせた。クリストファーの若草色の双眸が見開かれる。
「…っ、」
「ちゃんと顔見せなきゃ、紹介にならないだろ」
にっと歯を見せて笑ったミカはクリストファーの頬を解放する。急に引っ張られた頬を両手で擦りながら、クリストファーは小さく頷いた。
「『刃』寮第二学年、ハラルド・エリティス」
萌黄の縁取り、二年生が端的に名乗った。ぶっきらぼうな感もあるのは四年生への心配からだ。くっきりと青い双眸、金髪を短く整えたハラルドは気が強そうだ。
「彼はスヴェン・オールセン。『弦』寮の第三学年だよ」
灰褐色の髪に青鈍色の瞳の三年生を紹介したのは、アランデイルだった。首を傾げるヤンに向かって、スヴェンはにこりと微笑んで見せる。その唇は開かれない。唇の縁には小さな傷痕が幾つも並んでいた。
「先輩は言霊使いだから、あんまり口を開きたがらないんだ」
クリストファーが小声でヤンに告げ、アランデイルがスヴェンのやわらかな髪を撫でた。
「先祖帰りを知っているかい?…スヴェン、話しても構わないかな?」
一年生三人が首を振り、スヴェンが頷くとアランデイルは解説を始めた。
「スヴェンの家系はかつて、『名称』を支配することで『それ自体』を支配する能力を持っていた。科学技術の発展に伴い、この世界からそれらの不思議な能力――いわゆる魔法や呪いの類は減衰した。けれど表面に現れないだけで、その力はこの世界に、僕らの――人間の中に存在し続けており、それが世代を超えて現れることがある。その一例が先祖帰りだ。スヴェンの家系も年月を経て力を失った。スヴェンの御両親もお祖父さんもお祖母さんも持っていない、けれどスヴェンには言霊を支配する力がある」
ヤンは悟った。先祖帰り。過去の強大な力を受け継ぐ者。それはアスカロンでは役立つ資質だろう。しかし外の世界では通用せず、排斥される。力を持つ者が恵まれているとは限らないのだ。スヴェンの唇の傷痕は、そういうことなのだ――この人は唇を縫い合わされたことがあるのだ。力を孕んだ言葉を、発せないように。
「と言っても日常会話に、さして支障はないはずなんだよ」
「…よろしく」
ごくか細い声でスヴェンが紡いだ言葉に、ヤンは頷いた。
「で、俺はミカ・バーテライネン。『杖』寮の第五学年だ。バーテライネンじゃ長いから、ミカでいい。『杖』寮の五年は、俺を含めて二人しかいないから覚えやすいだろ」
ミカは明るく言ったが、『杖』寮の五年生が二人しかいないのは事実だ。
「でもってこいつはバレンシア・グラーチア。『弦』寮の五年な。本当は『尾』班だけど」
「何でお前に紹介されなきゃならないんだよ…」
親指で指されたバレンシアは眉を寄せたが、ミカは意に介さなかった。
「そして僕が『鱗』班班長、アランデイル・フォルスナーだ。『弦』寮の第六学年で、寮長に任じられている」
野戦服の校章の縁取りは第六学年を示す深紅。豊かな赤毛にペリドットの瞳の穏やかな寮長を知らない生徒はいないだろう。ビルヘルム・リヒテンシュタイン、シンリック・ラウに並ぶ、現アスカロン最強の一人なのだ。
「もう一人、『刃』寮第四学年のユベール・パラディを含めて、今年の『鱗』班だ。皆、よろしくね」
微笑んだアランデイルは、ふと時計を見上げた。
「シャリース、湯を持ってきて。ヤンは水を――ミカ。バレンシアが必要な事態は見えるか?」
「すみません、あれっきりです」
「あれっきり?」
アランデイルの黄緑が瞬く。頷いたミカが、不意に唇を歪めた。
「あー…当たっちまったか」
保健室の扉が勢いよく開いた。濃い血臭が流れ込む。
「アラン!」
扉を蹴り開けてアランデイルを呼んだのは、野戦服を汚したシンリックだ。その双肩に担がれているのは、校章を山吹色で縁取った――四年生だった。
「パラディは背部に裂傷、失血が酷い。ネリベルは同じく背部広範囲に重度の火傷、及び右肩・肋骨を脱臼、右鎖骨を骨折」
簡潔なその報告に頷くと、アランデイルは声を張った。
「ミカ、ユベールの止血と縫合!クリスとバレンシアはミカの補佐を頼む。シャリース、ヤン、ハラルド、スヴェンは僕を手伝って」
シンリックの右肩で野戦服を黒く濡らすのがユベール・パラディ、左肩で焦げた臭いを発しているのが『杖』寮のカノン・ネリベルだ。白い床がユベールの血で汚れる。シンリックはユベールとカノンをそれぞれの処置台に渡し、自身は扉を出た。
「先輩、傷が大き過ぎて縫合できません!」
「ミカ!僕と代われ!」
クリスが叫び、アランデイルが怒鳴り返す。カノンの焼け爛れた背を濡らした布で覆い、アランデイルは身を翻した。
「無理に野戦服を剥ぐな。ミカが来たら、骨を接げ」
「はい!」
「よし。クリス、輸血の準備!前に教えたね?」
程なくミカがこちらの寝台にやってきた。
「カノン、今から骨を接ぐ。舌噛まないようにこれ噛んどけ」
シャリースが渡したガーゼをカノンの口に押し込み、ミカはカノンの肩に手をかけた。
「――!」
カノンの喉からくぐもった悲鳴が溢れ、両足が痙攣して跳ね上がった。
「押さえてろ!」
空を蹴るカノンの足をスヴェンとハラルドが捕らえ、シャリースとヤンがしがみつく。みしみしと音を立ててミカが骨を嵌め直し、接ぐ間、カノンは緑褐色の双眸を見開き続けていた。



四年生の初・対竜戦闘。
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